◆鎌倉時代のスゴい偉人・ベスト13 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

歴史のプロが選んだランキング
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最終回前週に紹介された。
三浦義澄役の佐藤B作さん、初を演じた福地桃子さんがゲスト出演。
あえて13人に絞ったようである。


13位:源実朝
歌の達人
百人一首にも実朝の歌が選ばれている
歌碑が首塚のそばにある。
家集『金槐和歌集』も残した。
朝廷と渡り合うためには必要な教養であったという。
1218年2月に右大臣にのぼりつめた。
1219年1月27日暗殺の当日には予感していて、実朝は髪を結ってくれた家来に渡した

12位:後白河法皇
巧みな政治力で頼朝を翻弄した、日本一の大天狗
したたかな大天狗ぶりがわかる場所
京都・三十三間堂(1266年に再建)
荘厳な空間
先手観音立像と先手観音坐像・合わせて1001体が並ぶ
ここは後白河上皇が命令して建てられ、平清盛が資金提供した

第11位:源義経
戦の天才・日本史に残るヒーロー
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした
「国宝の島」に眠る義経の鎧
瀬戸内海・大三島・大山祇神社に奉納されている赤いとおし鎧
地上での動きやすさを考えて作られた
電撃上洛作戦では、木曾義仲を京都から追い出した

第10位:慈円
鎌倉の偉大なジャーナリスト
後鳥羽上皇の側近
青蓮院門跡は、慈円が修行を積んだ寺
『愚管抄』という歴史哲学書を作成した
重要文化財となっている慈円の直筆の古文書
承久の乱を起こしたくなかった

第9位:重源(醍醐寺の僧侶)
頼朝を動かした名プロデューサー
61歳で、平家の南都焼き討ちによって燃えた東大寺大仏殿の再建を指示
技術的にも困難で資金もかかる事業だった
必要な材木が山口県に見つかったが、運ぶ人材がいなかった
鎌倉に行って頼朝に願い出て、資金や物資の調達のみならず、御家人を動かしてもらった。

第8位:大江広元
鎌倉幕府を支えた頭脳
鎌倉幕府誕生のきっかけを作った人
大江の墓は頼朝や義時の墓のすぐそばにあり、貢献度がわかる。
1185年の守護地頭制度によって鎌倉幕府が成立したという説が有力
1221年の承久の乱で、朝廷軍とどこで戦うか
「京都に攻め入った方が得策」と進言。
京都で圧倒的な勝利をおさめた

第7位:後鳥羽上皇
幕府と戦った帝王
文化の巨人であり、文武両道に優れていた
島根県隠岐に島流し・19年間過ごした。
新古今和歌集の編さんもした。

第6位:運慶
北条家に見出された仏師
鎌倉武士に愛された歴史的アーティスト
東大寺の金剛力士像
これまでの仏像の常識を破った・目付きが鋭い、がっしりとした身体つき
横須賀市・浄楽寺にある阿弥陀如来像

第5位:平清盛
源頼朝の宿敵
清盛の大出世で、武士中心の世の中へ
広島県厳島神社・海の上の巨大神社
社殿が陸地と海の境目に建っている
1167年くらいに大々的に改修した際のスポンサー
竜宮城をイメージした設計
くねくねとして、竜をイメージした回廊
海難から交通を守るため
陸地を掘って、人工の海で再現した。

第4位:北条義時
頼朝の腹心筆頭・幕府の実権を握った武将
絶大な権力の証とも言える、直筆の古文書が石清水八幡宮にある
「関東下知状」揉めごとのあった地域に出した改善命令
柔軟で公平な政治力がうかがえる文書
朝廷からの院宣が、西の御家人には届いたが、鎌倉の御家人には届かなかった。
密書を持った使者が、義時側に捕らえられていたから。
謎めいた死の真相
62歳で脚気で病死したとされるが、伊賀の方から毒殺されたという説もある。
これには、一発で殺せる毒は江戸時代より前には無かったと本郷先生が主張する。

第3位:北条泰時
武家政権を磐石なものに確立した
鎌倉を発展させた・都市開発の工夫
城塞都市から、切通を作ったのは、人々の往来や物資の運搬のため。
鎌倉七口と呼ばれている。
朝夷奈切通:鎌倉と六浦を結んだ道路
御成敗式目:「土地」「仕事」「相続」の問題など、公平に裁けるよう判断の基準を作った。

第2位:北条政子
鎌倉幕府を守り伝えた尼将軍
有名な「政子の大演説」
浅草寺の宝蔵門に眠っているお宝
「一切経」5428巻
仏教に関する膨大な情報を一つにまとめた経典と書物
あらゆる学問が詰まっている
北条政子が中国から取り寄せ、鶴岡八幡宮に奉納したと伝えられている
当時は京都や一部の寺院にしかなく、政治や人を支配するために極めて重要だった。
泰時が、政子の意思を継ぐ人だった。

第1位:源頼朝
鎌倉幕府の初代将軍
運命を決めた洞窟・大観山の中腹
1180年、平家に対して挙兵したが、石橋山の戦いで敗北し、山の中に逃げ込んだ。
しとどの窟(いわや)で5日間身を潜めていた
梶原景時は、見つけたが同情して見逃した
安房に逃げ込み、5万の軍勢を引き連れ鎌倉に入った。
御家人を公平に扱い信頼を受けると言う、人身掌握術に秀でていた。


鎌倉こぼれ話 ~鎌倉八幡宮~ の記事はこちら(2022年6月11日)
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では、明日。