◆アナザーストーリーズ「アポロ11号月面着陸」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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アナザーストーリーズ「アポロ11号月面着陸・偉業に隠された50年目の真実」

▼フリー素材集・写真ACからのranmaruさんの素材


アポロ11号による月面着陸に、1万時間を超える音声データが残っている。

20世紀で最も記憶に残る出来事として、ランクインされている。
1969年7月28日 午後4時17分
月着陸船イーグルにニール・アームストロング、バズ・オルドリン、2人の宇宙飛行士が乗り込み、月面に着陸した。
21時間36分の間月面にとどまり、21kgの月の石を地球に持ち帰った。
世界人口の5分の1にあたる約6億人が食い入るようにその映像を見ていた。

実はこの直前イーグルは最大の危機を迎えていた。
当時色々なハプニングが起こっていて、命がけの危険極まりないミッションだった。
今年公開の映画「ファーストマン」でも描かれた。

第1の視点
交信担当者:チャールズ・デューク
地球の管制室から宇宙にいる飛行士たちに必死に呼びかけた。

7月16日 アポロ11号打ち上げ、世紀のミッションは幕を開けた。
4日間かけて月へ向かった。
1961年に始まった壮大な計画。
NASAは、宇宙飛行士の候補として、陸軍や空軍からエリート中のエリートを選抜した。
総勢50名を超える中に、アポロ11号のクルーとなった3人がいた。
チャールズ・デュークも宇宙飛行士。
アームストロングの4年後輩にあたる。
当時33歳、マサチューセッツ工科大学の修士号を持つエリートパイロットだった。
アポロ11号のミッションでは、地上支援員として交信担当になった。
1年間管制室で経験を積む必要があった。
現場の指揮権はアームストロングにあり、ヒューストンの管制センターは宇宙飛行士に適切な指示と情報を与える。
そのために各分野のスペシャリストが、常時100人あまり待機していた。
だが宇宙船に情報を与える役はただ一人、交信担当の宇宙飛行士だった。
同じ訓練を受け、同じ知識を持つ者にしか出来ない仕事。
アポロ11号では、チャールズが抜擢された。
チャールズはアポロ10号でも交信担当をして、別の者に交代する予定だったが、アームストロングから直々に頼まれた。
アポロ11号の前に打ち上げられた10号、それは月面着陸の最終リハーサルを行うための飛行だった。
月まで行き、着陸船のテストをしていたときに、事故が起きた。
宇宙飛行士の操作ミスで機体が激しく回転、この時、チャールズは地球から素早く的確な対応策を伝えた。
宇宙飛行士は指示通り、手動操縦で回転を食い止めた。
これを評価したアームストロングは、命を預ける相手として、チャールズを選んだ。
チャールズもまた、アームストロングには絶大な信頼感を持っていた。

地球を出て4日目、月の軌道へ入った。
いよいよ着陸準備になった。
この時、管制センターの指揮官はフライト・ディレクターだったグリン・ラニー。
着陸失敗の可能性もある中、ついに運命の7月20日を迎えた。
コリンズが司令船・コロンビアを操縦、着陸船・イーグルで月に降りるのは、オルドリンとアームストロングだった。
月と地球の交信は1.3秒遅れが出る。
もしイーグルに何か起きた場合、急いで指示を送らないとならない。
チャールズは万一に備えた。
着陸開始。
1万5000メートルの高さから、およそ14分かけて月面に降下する。
開始から5分、冷静なアームストロングの声が突然変わった。
「プログラムアラームだ、1202だ。1202の意味を教えてくれ」
イーグルではエラーの警報が鳴り続けていた。
各部署が焦って、一斉に調べ始めた。
コンピュータのオーバーフロー。
実はこのエラーはオルドリンのある操作が招いたものだった。
着陸の時、イーグルは月面との位置関係を測定するレーダーだけを使う予定だった。
だが、オルドリンが司令用のレーダーもオンにしていたため、情報が増えすぎて、オーバーフローが起きたのだ。
チャールズは、コンピュータは動いていて着陸の命令は実行できると知っていたため、フライト・ディレクターの確認を待たずに「問題ない。着陸はGO」だと伝えた。
そのおかげで、着陸中止を免れた。

だが、すぐにトラブルは起きた。
予定していた場所は、岩やクレーターで着陸不可能。
アームストロングは手動操縦にして、着陸できそうな場所を探したが、その分余計な燃料を使い、燃料切れになりそうだった。
ギリギリしか積んでいない燃料は限界に。
60秒以内に着陸しなければ、燃料切れになる。
非常事態に、ざわめき立つ管制室。
だが、チャールズはアームストロングと同じ気持ちになって考えた。
そして、宇宙飛行士にではなく、管制室に向かって、こう言った。
「我々は静かにしていよう」
アームストロングを信頼していた。
「ここから先は、アームストロングを信じて任せるしかない」
イーグルは予定されていた着陸地点を6キロも超えて飛び続けていた。
やがて、着陸に成功した。
残された燃料は17秒だった。
地球と月とで互いを信じた2人。
管制室で、チャールズだけが知る秘密の合図があった。
「着陸に成功したら、その場所を”静かの基地”と呼ぶよ。秘密のコールサインだ」
アポロ11号を地球から必死に支援したチャールズ。
それから3年後、アポロ16号で自らも月の大地を踏みしめた。
月面からのテレビ生中継で、飛行士たちが星条旗を立てたところは、世界中の人が見た。

視点2 月面生中継の舞台裏
38万キロも離れた月から、テレビ生中継するなんて、途方もない計画。
それを成功させた人物は、
ヒューストンでテレビ中継を担当していたエド・トーキントン。
月からの映像を世界へ送ったキーパーソンだった。

あの時、人々はテレビに釘付けになった。
月からの生中継。
日本でも視聴率は60%を超えた。
この画面の裏側で、一人の男が人知れず大奮闘を演じていた。
元NASA職員のエド・トーキントン
当時28歳。
あの時は、宇宙飛行士が予定より5時間も早く月面に下りると電話がかかって来た。
「大変だ・放送が間に合わない」と慌てて車に飛び乗った。

生中継のアイディアは、NASA幹部たちの合意のもとに生まれた。
目的は事実の証明だった。
「我々が月に行ったのは、紛れもない事実だ」それを世界に示すためには、テレビ中継が最高の手段だった。
アポロ11号以前から、テレビで宇宙船内の様子をモニターする技術は開発されていた。
だが、月面にテレビカメラを運んだことは、いまだかつてない。
当然、様々な問題があった。
重いカメラを搭載することはかんがえられなかった。
重さの問題をクリアするカメラが開発された。
重さ、わずか3.3キロ。
重力の違う月面では、6分の1の500グラム程度。
NASAが電機メーカーに委嘱して開発したものだった。
ベトナム戦争で偵察用に開発したカメラを、さらに小さく軽くした。
小型化のカギは、最新科の集積回路。
無駄を削ぐために、映像は白黒とし、1秒間のコマ数も30から10に減らした。
月の環境にも適用させた。
月面は、太陽が当たる部分は摂氏120度、あたらない部分はマイナス150度という、極端な温度差。
この過酷な条件に耐えられるよう、ボディーは断熱板で完全に覆われた。
しかし月からの中継には、もう一つ大きな課題があった。
月着陸船には小さなアンテナしかなかったので、その弱い電波を38万キロも離れて受信するのは、極めて難しいことだった。
月着陸船の先端部分に、テレビ中継に使われたアンテナがある。
直径僅か60センチ。出力20ワットの小さなものだった。
この月からの微弱な電波を受信するために、地球で用意したのは、直径64メートルのアメリカ・ゴールドストーンの通信施設のアンテナ。
だがこれだけでは足りなかった。
地球は自転するため、他にもアンテナが必要だった。
オーストラリア・ハニーサックルクリーク、スペインのマドリードの3か所をはじめ、地球規模で電波を受信できる体制を築いた。
その中で最も良好な映像を選んで放送すること、それがヒューストン、ジョンソン宇宙センターにいたエドの役割だった。
しかもヒューストンでは、NASA職員として中継を担当したのはエド1人。
他にはアシスタント2人がいただけだった。
何が起こるか誰にもわからなかった月からの生中継。
7月20日本番当日。
エドはいきなり、ハプニングに見舞われた。
アームストロングのひと言だった。
「ヒューストン時間の午後8時に月に下りて船外活動を始めたい。いいか?」
予定では着陸後、アームストロングたちは一旦仮眠してから月面に出るはずだった。
しかし休息を取らずに月へ出るという。
計画は5時間も早まった。
エドには寝耳に水だった。
自宅にいたエドは慌てて、ジョンソン宇宙センターに向かった。
到着してから、中継まで1時間足らず。
世界中が世紀の瞬間を待つ中、準備を整えた。
日本でも特別番組がスタートしていた。
そしていよいよ月面からの中継が始まる。
ところがまたもハプニングが。
世界中に放送された映像は上下逆さま。
画面の下にあるはずの月面が、なんと真上に。
テレビカメラの位置に問題があった。
取り付けられていた格納庫では、カメラは逆さまに設置されていた。
たがエドにはこの情報が伝わっていなかった。
エドは万一に備えて、各中継地にボタンを押すだけで映像を反転する装置を取り付けてもらっていた。
不測の事態に対して、先手を打っていたエド。
映像はなんとか正常に戻った。
だが一難去ってまた一難。
アームストロングがはしごを下り、第一歩を記そうとしているが、暗すぎて、よく見えない。
電波が安定しているはずの、アメリカ・ゴールドストーンでは、映像は不鮮明だった。
ゴールドストーンには、映像を調整する技師がまだ到着していなかった。
エドは思い切った決断を下す。
映像を南半球オーストラリアのものに切り替えた。
ようやくアームストロングの姿が見えるようになった。
オーストラリアチームは突然の時間変更にも素早い対応をした。
世界各地の人々が見たあの映像には、そんな舞台裏の奮闘劇があったのだ。
こうして世紀の中継は幕を閉じた。
だがミッションはまだ続く。
彼らを地球へ帰さなければならない。

▼アポロ11号(東京ドームシティ TeNQより)


視点3 アポロ11号を救った女性
プログラマー・マーガレット・ハミルトン

彼女が開発したソフトウェアが無ければ、このミッションは成功しなかったとされる。
アポロ11号を守り切った女性の、世界を大きく変えたアナザーストーリー。
彼女は母校マサチューセッツ工科大学のあるボストンで暮らしていた。
全部のソフトウェアを積み上げると、人の高さになった。
当時のソフトウェアは、カードに命令を伝える穴を開けて、コンピュータに読ませるという手間のかかるもの。
更にソフトウェアの一部はコイルに1本1本編み込むという、途方もない作業で作られていた。
50年前の偉業について聞くと、彼女らしい言葉が返って来た。
「私はこう言いたいわ。人類が月へ行った日、ソフトウェアも月へ行ったと」

アポロ計画において、ロケットの開発とコンピュータ開発が、ともに不可欠の条件だった。
アポロ11号では、地球から月までコンピュータによる自動操縦が実現していた。
着陸船イーグルに搭載されたコンピュータ、それを動かすソフトウェアだ。
マーガレット・ハミルトンはアポロ計画のソフトウェア開発のリーダーだった。
彼女はNASAで初めて採用された女性プログラマーだった。
共通していたのは、ものすごくタイトなスケジュールの中で、アポロ計画を進めなければなかったということ。
性別は関係なく、とにかく力になる人材が必要だった。
マーガレットは女性プログラマーの草分けであると同時に、ワーキングマザーの草分けでもあった。
時には4歳になる娘のローレンを職場に連れて行くこともあった。
ある日一つの事件が起きた。
働く母の傍で遊んでいたローレンがキーをいじっていた。
突然コンピュータのデータが全て消えてしまったのだ。
娘は間違って「P01」と入力したから、コンピュータがミッションの最初に戻ってしまった。
ローレンが入力した「P01」は、地上での打ち上げプログラムを起動する命令だった。
つまりコンピュータは宇宙空間から突然打ち上げの前に戻された状態になり、全てのデータを消してしまった。
本番のミッションで起こったら、大変な出来事だった。
同じことを宇宙飛行士がやらないようにすべきだと、マーガレットは進言した。
「宇宙飛行士がそんなミスをするはずない。彼らは完璧だ」と言われて却下された。
だが直後のアポロ8号ミッションで、司令船が月まで行った時、操縦していた宇宙飛行士のジム・ラベルが、ローレンと同じ「P01」を入力するミスを犯してしまった。
マーガレットの助言で地上からデータを送り、なんとか無事に帰還することが出来た。
アポロ8号のミスでNASAも考え方を変えた。
「次のミッションまでにプログラムを修正してくれ」
彼女はすぐに取りかかった。
「どんな人間だってミスはある。そのとき助けてくれるのがコンピュータです。もしこんなことが起こったらと、あらゆる可能性を考えて、ソフトウェアを組み直しました。起こりうる全てを事前に想像することで、未来の事故は防げるはず」
操作ミスや誤作動は起こるものと想定し、失敗しても大丈夫な準備をしておく。
このFail Safe という考え方で、マーガレットはコンピュータの信頼性を高めていった。
アポロ11号を地球から支援し、後に自らも月面に立ったチャールズ・デュークもコンピュータの重要性を肌身で感じた1人だった。
月面に下りた宇宙飛行士が、まずイーグルに乗って、司令船コロンビアとドッキングしなければならない。
そして全員が司令船に乗り換えて地球に帰還する。
アポロ11号のミッションはコンピュータの制御なしにはあり得なかった。
ドッキングの技術はアポロ計画の以前から試されていたが、当初コンピュータが導入されることはなかった。
理由は、宇宙飛行士たちのプライド。
もともと空軍や海軍のエリートパイロットだった彼らは、自分の操縦技術に誇りを持っていた。
だが宇宙空間でのドッキングは、時速3万キロの猛スピードで進む宇宙船同士を、数センチの精度で近づける離れ技が要求された。
結果、手動操縦でのドッキングは、一度も成功できなかった。
そこで力を見せつけたのが、ソフトウェアだった。
ジェミニ8号で、ソフトウェアによる実験が試された。
コンピュータの計算をもとに宇宙船と宇宙船を近づけ、ドッキングに成功。
アポロ11号でも、ソフトウェアがドッキングをつかさどった。
チャンスは1回限り。
もしドッキングに失敗すれば、アームストロングとオルドリンは宇宙空間に取り残され、二度と地球に戻れない。
イーグルはコンピュータに誘導され、上空を時速4800キロで周回するコロンビアに向かって上昇。
コンピュータが位置を調整。
タイミングが0.1秒でもずれれば、130メートルも離れてしまう。
接近するイーグルとコロンビア。
そして、ドッキング成功。
こうしてアポロ11号は帰還の途についた。
1969年7月24日午後0時50分 ハワイ沖に着水。
アポロ11号が成し遂げた偉業は人類史に深く刻まれるものとなった。

月に降り立つという目標に向かって心を一つにし、困難を乗り越えようとする人々の強い信念があったから。
あれから50年、人類は月より先の宇宙へは、まだ到達できていない。
でもその日はいつかきっとやって来る。
未知の宇宙に向かおうとするとき、私たち人類はあの時と同じように信念を持ち、挑戦することができるのだろうか。

今再び人類を月へと送り込む計画が進められている。
月を目指す宇宙船オライオンのプログラム開発主任 スチュアート・マックラン。
「我々の新たな挑戦は、月へ行ってそこに滞在する永久的な施設を作ること、それが次の挑戦です」
新たな計画では、2024年に再び月へ行って、人類が月へ下りる。
そして月面に長期滞在。
月の軌道には国際宇宙ステーションを建設する。
アポロの偉業を礎に、新たな挑戦が始まっている。

月から更に火星へ。
新たな惑星に降り立つ時、それは人類にとってどんな一歩になるだろうか。

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子どもの頃だった月面着陸。
月の石が持ち帰られて、1970年大阪万博・アメリカ館の目玉の展示物になった。
その後1977年公開の映画『カプリコン1』は、火星への有人着陸がハリウッドで撮影されたもの、との筋が話題になり、大ヒットとなった。

今年、アメリカが宇宙軍を創設することがニュースとして報じられた。
夢があってとてもいいが、燃料などのコスト面が気になる。


「東京ドームシティ TeNQでお勉強」の記事はこちら(2020年9月6日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12622792200.html

では、明日。