◆新春スペシャルドラマ『百年の計、我にあり』 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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新春スペシャルドラマ『百年の計、我にあり』
百年の計

大きな志を持った広瀬宰平(榎木孝明)が、エッフェル塔の前にいた。
明治22年に完成したエッフェル塔は高さ312m。
1889年のパリ万博では、トーマスエジソンの発案したマンモスランプが注目を集め、まさしく電気と鉄の時代の到来を宣言していた。
広瀬は、目の前に立ちはだかる西洋の壁に打ち震えていた。

1865年愛媛新居浜・別子銅山。
広瀬は37歳で支配人の座に上り詰めた。
幕府直轄の銅山であった。
18世紀初頭には、国産銅の4分の1を産出し、幕府の財政を大いに潤していた。
その運営は、一貫して住友家の当主が任されて来た。
広瀬が支配人を任されたのは、第12代当主の頃であった。

しかし幕末には生産コストの激増が重く乗りかかり、別子は経営難に陥った。
その原因は坑道が深くなりすぎて従来の手掘り作業では効率が著しく低下したことにあった。
そんな別子銅山を再生すべく、広瀬宰平が立ち上がった。

新居浜市を見下ろす、山の上にある。
海抜1200mまで続く深い喬木。
険しさを極めるその山で銅山の申し子、広瀬宰平は活躍した。

採掘開始は元禄4年(1691年)。
幕末付近までは手掘りで細々と掘っていたが、広瀬宰平による近代化によって、採掘スピードは驚異的な長さになり、戦後坑道は海面下2000mにまで達した。

壮大な銅山を作り上げた広瀬宰平、彼が成し遂げた明治の産業維新とは一体いかなるものであったのだろうか。
100年の時を経て、明治の産業維新のリーダーの姿が蘇る。

明治元年(1868年)兵庫・官営生野鉱山。
ヨーロッパの方式を取り入れた、火薬を使った発破のデモを見て、歓声をあげた。
この時使用していたのは黒色火薬。
花火を打ち上げる火薬と同じ。
ヨーロッパでは200年も早く鉱山で利用されていた。
当時はこれを竹筒に詰めて使った。
その翌年、広瀬宰平は別子鉱山で実用試験を行い、成功。
思えばこの成功が、広瀬の背を押したのかもしれない。

明治2年、1人の男が使命に燃えていた。
弾正台(役人の不正を取り締まる官庁)伊庭貞剛(石黒賢)。
新政府の要人・国民皆兵による陸軍創設を目指していた大村益次郎が暗殺された。
正義感溢れる男・伊庭貞剛は、広瀬宰平の甥である。
滋賀県・近江八幡に伊庭貞剛の生家がある。

広瀬宰平の座右の銘は「逆令利君謂之忠」
(命に逆らっても君を利す、之を忠 と謂う)

その頃別子銅山の本部は新居浜の瀬戸内海側ではなく、峠を挟んだ南側にあった。
海抜800〜1200mの谷間に1000人以上が暮らしていた。
広瀬は江戸時代からの抗口のあるこの谷間に詰めて、全山の指揮を取っていた。
苦しい経営にあった明治期に、広瀬はこれを打開すべく山麓に新たな制度場を設置、明治2年には銅の外国への直接輸出が実現した。
それまで幕府に納めていた輸出用の青銅は棒の形に仕上げ、特殊なやり方で薔薇のような赤色を表面につけていた。
ローズカッパーと呼ばれたその銅は、遠くヨーロッパまでその美しさが知れ渡っていた。
住友では薔薇色の銅の作り方を紹介する冊子を作っていた。
棒はその形から、棹銅と呼ばれていた。
棹銅の薔薇色はどうやって出来るのだろうか。
高温を得るために、大量の木炭を必要とする。
温度が1085度になると銅は溶け始める。
液体化した銅を熱湯の中の型に流し込み、塩水の中に入れて冷ます。
この時、塩分に触れて赤い酸化皮膜が出来る、これが薔薇色の秘密であった。
銅の直接輸出の道は開かれたが、別子銅山では江戸末期以来のある問題が持ち上がっていた。
安政の大地震、断続的に続く地震の影響から、坑道の最深部で地下水が激しく湧き出したのである。
水抜き作業は、すべて人の手で行われた。
何百人も工夫を連ねて水を抜こうとしたが、果たせない。人力の限界であった。

広瀬は別子銅山の近代化の必要性を訴えたが、その思いは住友の番頭たちには届かなかった。
明治3年、住友の新年宴会は経営の中枢が一堂に会し行われた。
別子銅山を経営する住友は、代々の家長がオーナーとして君臨、番頭たちは家長に決まり言葉で挨拶するのが定例だった。
別子の銅をもっともっと掘ることを訴えた。
第12代家長・住友友親は理解を示した。
この4年後、広瀬宰平は住友家家長から大任を拝命し、西洋人雇い入れ代理委任状を受け取った。
それは前例のない大抜擢だった。
家長が一部でも権限を任せることは、事実上初めてだったのである。
お雇い外国人の報酬は、国の財政さえも傾かせるほど高額であった。
広瀬は考慮の末、たった1人だけ外国人を招聘した。
フランス人鉱山技師のルイ・ラロック、月給は600ドル、今で言えば6000万円である。
明治7年3月にラロックが別子に到着した。
ラロックの通訳として、外務省から塩野門之助を引き抜いた。
「崩壊した火山のようだ」初めて見る別子銅山の模様をラロックはこう表現した。
本部の周辺には1本も木がなく、煙が常に立ち上っていたからだ。
その当時、地下鉱山の長さはある最長で抗口から500m、地表からの深さは400mになる。

ラロックは現場の運営方法には手厳しい指摘をした。
機械化は一切なされておらず、火薬を込める穴を掘るのは手作業。
しかも坑道の狭さと通気性の悪さはラロックの考える基準とは、大きく乖離していた。
坑道内の明かりは、サザエの殻を使った螺灯だった。燃料は原油である。
ラロックは螺灯について、原始的で明るさもないと、その不便さを酷評した。
鉱石の運搬作業についても否定した。
掘り出された鉱石は、海抜1200mの銅山越を越えて、すべて人力で運んでいた。
下りの道は険しく、過酷。
ラロックは、中持(運搬人)が頻繁に休息を取る姿を目撃している。
馬も牛も使わず、山の運搬を人間だけが担っていた別子銅山。
ラロックは、絶対に辞めるべきだと書き残した。
ラロックは、こうした状況を変えるべく、改革案の作成に着手した。
1年に及ぶ調査後、ラロックは銅山の改革プランを作成し始めた。
その頃には彼は別子銅山にすっかり夢中になっていた。
ラロックの作成した「別子鉱山目論見書」は600ページ以上に及び
・採鉱
・運搬
・製錬
の近代化計画を提出。

広瀬はラロックの契約は延長しないことを通達。
鉱山は、外国人を高給で大勢雇ったがために、財政破綻し日本人の技術者は育っていなかった。
一番大事なのは、進んだ技術を日本人が自分たちのものにすることなのだ。
ラロックは帰国、そして塩野は鉱山学を学びにフランス留学に旅立った。
政府の助成のない、私費での留学は非常にまれだった。

ラロックの改革案を元に広瀬は銅山の近代化改革の開始を宣言。
住友家の家長がまた動いた。
2度目の委任を広瀬に与えたのである。
「経営の全権限を委任」
それは、家長により行われた資本と経営の分離であった。
家長は、新しい時代の経営システムを広瀬宰平に託した。
総理代人、これは後に総理事という職名になる。

近代化の第一歩は、海抜800mの山上での土木工事から始まった。
東延斜坑機械場、機械を設置する平地を造成した。
斜坑は49度の傾斜で掘り進められた。
斜坑には鉄軌道が作られ、トロッコを走らせる。
トロッコは蒸気機関を動力とした。
ダイナマイトも使用された。
別子銅山の近代化と時を同じくして、欧米では銅の需要が高まっていた。
電気の普及とともに、街には電線が網のように張られるようになった。
その結果、電気の血管というべき銅線が大量に必要になったのである。
銅の生産を増やさなければならない。
広瀬宰平は、右腕となる人材のスカウトにとりかかる。
明治12年、伊庭貞剛を誘った。
「日本の100年先を考えるんだ。銅山は単なる金儲けではない、国家のためなのだ」
明治10年、塩野はフランス東部の街、サンテティエンヌにいた。
サンテティエンヌは当時炭鉱の町として栄え、町にある鉱山学校からは優秀な鉱山技師を輩出していた。塩野は1学年30人の1人となった。
鉱山学校は今も現存し、街の資料館には塩野の足跡が残っていた。
在学中の7回のテストをすべて合格点で通過している。
塩野は第二級鉱山技師の免許を取得、意気揚々と帰国する。
近江から牛を調達し、牛車が通行可能なつづら折りの車道を整備した。
現在も山中には牛車道が形を残している。
学校や劇場、病院も整え、福利厚生の近代化も行なっている。
塩野は別子銅山の技術長としてラロックが提唱した最後の近代化プラス洋式精錬所の建設計画に取りかかった。

明治18年の本社会議
新居浜に港を作り、外国からの大型船舶が出入りできるよう計画した。
惣開製錬所では買鉱製錬・外国から鉱石を買いそれを原料にして製錬することを念頭に置いており、それに対応している。
塩野は、いつか別子の鉱脈が尽きることも読んでいたが、それが広瀬の怒りを買った。
「別子銅山は万世不朽の財本なり」
外国から鉱石を買って製錬することで利益を得たとして、それが日本の国益につながるのか、広瀬にとって疑問だった。
2人の対立は平行線のまま、塩野は製錬所の完成を待たず、離職の道を選んだ。
明治22年、東海道線の全線が開通し、神戸から東京までわずか1日。
鉄路が時代を切り開いていった。
折しもその年、広瀬は欧米への大旅行に出かけることになる。
北半球の一周、夫人を伴って。
西洋では夫人の同伴がないと、ジェントルマンとして認められない。
アメリカの鉱山を見学して、広瀬が驚愕したことは、鉱山鉄道を見たことだ。
別子にも必ず鉄道を、広瀬は心に誓った。
パリで広瀬は天を貫くエッフェル塔を見た。
その他、各国の陳列品など、圧倒された。

広瀬は帰国後、大阪商法会議所で視察報告を行なっていた。
欧米への技術力には驚愕したものの、国民の貧富の差を嘆き、日本はそうならないよう、強く訴えた。
今後、日本が発展していくには必ずや製鉄業を興し、輸入に頼らず国産の鉄で日本を豊かにすることである。

ドイツを訪れた広瀬は、ドイツが良質な鉄鋼石が少ないのにさかんに製鉄を行なっていることを知る。
それは、優れた製錬技術があってのことだった。
広瀬は鉄を含む別子の鉱石でも鉄を取り出せると踏んだ。
別子銅山の麓に製鉄所の名残が残っている。
明治23年に実験を開始、銑鉄の取り出しに成功した山根製錬所だ。
「鉄で行く」
信念を貫こうとしている広瀬のやり方は、他の役員たちの目からは、傲慢なワンマン経営としか映らなくなっていった。

明治26年別子鉱山鉄道が開通、広瀬の欧米旅行からたった4年で開通した。
運搬能力は江戸時代の500倍になった。
本格的な増産体制の確立であった。
坑道の中では、画期的な機械も導入された。
岩盤に爆薬を込める穴を開ける、削岩機である。
掘り進むスピードが倍になり、採鉱効率が飛躍的に上がった。
鉱山では、これに対して人員削減の不安が持ち上がった。
別子の現場には、こうした不安を治める人物はいなかった。
鉄道の開通後、塩野が設計した製錬所はフル回転だった。
しかしここでも問題が起こる。
農民たちが問題視していたのは、製錬所からの煙である。
別子の鉱石を焼くと、含まれる硫黄分が気化して有毒性の亜硫酸ガスが排出される。
この煙が原因で、作物が枯れたと農民が声を上げたのだ。
事態を収拾出来る人間は、新居浜分店には現れなかった。
騒ぎは拡大し、当時の別子の責任者は更迭された。
伊庭が責任者に手を挙げた。
この頃、住友家では家長の代が代わり、15代友純の時代を迎えていた。
伊庭は、煙を出さなくする方法を見つけ出す覚悟で赴いた。
待ち構えていたのは、経営陣への不信で敵意の鉱夫達だった。
伊庭は鉱夫達によろしくと頭を下げ、毎日現場に顔を出し声をかけた。
伊庭貞剛はいつしか別子で働く人たちの心を一つにまとめた。
広瀬は住友家に行った時に苦いお茶を出された。「責任の取り方を考えるように」とたしなめられた。
辞表をしたため、家長宛だが実際には伊庭貞剛に送った。
明治28年東延斜坑が、ついに最深部 526mに到達した。
広瀬が切望した新時代の採鉱の本格的な始動であり、日本人だけの手でやり遂げた。
伊庭は煙害問題を解決するべく、塩野を呼び戻した。
塩野は四阪島移転計画を練り上げた。
水もない無人島、学校から病院もゼロから作るのだと。
この大計画が広瀬の耳に入って抗議に来た。
塩野は「100年先を考えたこと、煙害問題を根本から考えた結果です」
伊庭の別子での奮闘は5年に及んだ。
こう詠んだ「五カ年の跡見返れば雪の山」
明治33年1月、移転計画にメドをつけた伊庭は第2代総理事に就任した。

伊庭が取り組まなければならない問題はまだあった。
別子の山を元の青々とした姿にして、これを大自然に返さなければいけない。
上申書は、はげ山に変わり果てた山林の窮状を切実に訴えていた。
銅山には木一本生えていなかった。
伊庭が決意を示してから、今は122年後にあたる。
全ては、苗木一本一本を植えることから始まった。
明治27年伊庭貞剛の指示により、別子銅山では大規模な植林事業が始まった。
植える本数はすぐに年100万本にもなり、そして植林事業は今も続いている。
生きている木は明治30年生まれ。
植えられた場所が急傾斜過ぎて木材として切られることなく100年も命を紡いできた。
別子の森の生き証人である。
明治38年、四阪島製錬所は6年間の工期を経て完成、操業を開始した。
煙害はこれで解決するはずだった。
煙害は再発した。
雲散霧消するはずの四阪島の煙は、返ってその影響を広範囲に広げてしまった。
周辺の植物は葉が枯れる、波紋が現れるなどして、生育不良に陥った。
被害が広まったのは今治や大島など、収穫期にコメが全滅の田もあったという。
この事態に毅然と立ち向かったのは、伊庭の跡を継いだ第3代総理事・鈴木馬左也。
鈴木は100年の計を引き継ぎ、被害住民に補償をしながらも煙害の完全解決を約束した。その約束は34年の月日のうちに果たされ、昭和4年四阪島の硫酸工場冷却設備、実験段階の新技術を輸入したペデルセン式硫酸工場にて、硫酸を作る過程で亜硫酸ガス濃度を0.2%にまで下げることに成功した。
なお残る微量のガスは、アンモニアを利用する中和技術で完全中和した。
ついに亜硫酸ガスの排出をゼロにし、四阪島から有毒ガスは出なくなった。
昭和14年のことだった。
鹿児島県の菱刈鉱山は日本で稼働する唯一の鉱山である。
鉄のレールを敷くことなく、トラックや重機が直接坑道内に入ってくる。
鉱石を拾い集めるショベルカーはリモコン操作。
究極の機械化が進み、今や坑道内には一度に30人くらいしか入ることはない。
広瀬宰平が夢見たのはこんな鉱山の姿だったのだろうか。

広瀬宰平は大正3年86歳で、伊庭貞剛は大正15年79歳で、共に大往生だった。
他界してから1世紀近く、別子銅山の閉山から43年、それでも昔を懐かしむかつての住民が思い出の銅山にやってくる。
銅山での暮らしは、写真の中に生きている。

広瀬宰平の近代化により、別子銅山からは非鉄金属、林業、建設、機械製作、化学といった事業部門が独立。
それに伴い新居浜は工業都市として歩み始めている。
事業拡大の流れは100年を過ぎた今も続き、その後14まで部門の数を増やしている。
280年あまりの長い歴史を刻んだ別子銅山、今もあの広瀬宰平の声が山にこだまする。