エール | ミックスココアのひとりごと

ミックスココアのひとりごと

気ままに思いついたことを折々に

「シャープペンシル」ってご存知ですよね、

持ってる、使ってるって方は多いと思います。

そのシャープペンシルの発明者

すなわち、シャープ株式会社の創業者

早川徳次氏のお話です。


早川徳次氏は明治26年東京に生まれ

9歳の時にかんざし職人の元に

丁稚奉公に入りました。


手先の器用さと進取の気性から

新しい製品を次々と開発し

ついに大正4年、

ニッケル製の早川式繰出鉛筆

いわゆるシャープペンシルを

開発したのです。


この「エバー・レディー・シャープ・ペンシル」と

名付けられた製品は

爆発的に売れ、一世を風靡し、

ついに早川兄弟商会金属文具製作所は

従業員200名を超える大企業となったのです。


ところが、

1923年9月1日、

突如関東一円を廃墟と化す

関東大震災により

工場は一瞬のうちに灰塵に帰してしまいました。

従業員の多くも罹災し

妻と二人の子供を亡くすという

不幸に見舞われたうえ

営々と築き上げてきた事業は

閉鎖のやむなきに至りました。


多額の債務を抱え、

大震災で焼失した

シャープペンシル工場の再興はならず

早川徳次氏は、たった3人の従業員とともに

大阪の地に再起を求めました。


債務返済のため

早川兄弟商会の機械と特許を

大阪の実業家に渡したうえに

いわば人質として

6か月間の技術指導もしたのです。


6か月後、早川徳次氏は

東京から連れてきた3人の部下の生活を守るために

大阪府東成郡田辺に土地を借り

早川金属工業研究所を設立したのです。


大震災からわずか1年後の1924年、

大正13年の9月のことでした。


この年の暮れに

心斎橋の石原時計店に輸入されたばかりの

アメリカ製の鉱石ラジオを買い求めました。


当時海外ではすでにラジオが実用化されていて

日本でもラジオ放送が産声を上げようとしているときでした。


ラジオの原理はおろか

電気の初歩もわからぬ人たちが

たった一台の買い求めたラジオを

徹底的に分解して、手探りで研究し

とうとう、1925年(大正14年)

記念すべき国産第1号となる

鉱石ラジオを完成させるのです。


第1号ラジオは直ちに生産に移され

恐ろしいほどの勢いで売れていきました。


6月からラジオ放送が始まった大正14年当時は

第1号の鉱石ラジオの価格は3円50銭

ラジオ放送受信料が月1円

聴取者は5455世帯でした。


ところがわずか3年後(昭和3年)には

早くもNHKラジオの契約者は50万人を突破しました。


最初は「鉱石受信機」として販売したラジオも

まもなく「シャープ」の銘を付けて

しかも、いくら作っても需要に追い付かず

月産1万台以上を生産するまでになりました。

「シャープ」の名は”新しい情報時代の開拓者”として

たちまち全国に知れ渡っていったのです


早川徳次氏の部下を思う強い責任感が

会社を再興させ

今の「シャープ」の礎を築いたのでしょうね。


このお話は

このたびの東北関東大震災で

壊滅的なダメージを受けられた

多くの企業経営者・実業家の方々に贈るエールとさせていただきたく

記事にさせていただきました。


誠に僭越ですが

再起を目指してどうか奮起されますように

心からお祈りいたします。

全国民が応援しております。