3.11
というと、
みんな震災を想うのだと思うんだけど。



息子と私にとっては、
別の想いを馳せる日だ。


3.11は、
息子の、もう一つの誕生日。



書こう書こうと思いながら、
まだ書けなくて、



今日もまだ
うまく言語化できる自信がないんやけど。
10年という節目だから、
少し書いてみようと思う。





10年前の3.11。



まだ1歳4ヶ月だった息子が
なんだか朝から食欲もないし、
おかしいな、と思ったら、
40度を超える高熱に。



急いで近くの小児科に連れていくと、
先生が、
なんだか様子がおかしいから、
今から大きい病院に行った方がいいと言う。



すぐに紹介状を書いて、
タクシーを呼んであげるから、
今からすぐ行けと言う。



言われるままにタクシーに乗り込み、
近くの総合病院に到着。
その頃には熱は43度を超えていて、
よくわからないままに、
とりあえず入院、ということになった。



病室に到着した直後、
突然、熱性痙攣を起こした。



看護師さんもその場にいたから、
すぐにドクターを呼んで処置をしてくれて、
そんなに長い時間ではなかったはずだけど。



目の前で
体を硬直させ、
泣くわけでもなく、
コントロール不能になって
震えが止まらない小さな体。



何もなすすべもなく、
ただ看護師さんの動きと、
息子の様子を
交互に見やることしかできない私。



湧き上がる恐怖と不安と、
でも、
しっかりしなくちゃ、
私は取り乱しちゃいけない、
母親なんだから、と
必死で冷静な顔をして、
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。
そう言い聞かせていた。



その後の記憶はあまりないけど。
とにかく、痙攣はその1回だけだった。



原因もわからないまま、
それから1週間入院しているうちに、
痙攣とはまた違う、
変な体の硬直を度々起こすようになった。



総合病院とは言え、
奈良だから、
そこまでの専門医がいるわけでもなく、
いくつかの検査を受けたけど、
原因は不明なまま時間だけが過ぎていく。



硬直の頻度が絶え間なくなっていくのが
怖くて怖くて。
目を離した隙に何か起こるんじゃないかと、
トイレのためにその場を離れるのも、
隣で眠るのも怖かった。



ドクターに
専門医のいるところに転院させてくれと頼み込んで、大阪の大きな病院に、救急車で転院した。



到着してすぐ、
急性脳症だと告げられた。



その頃にはもう、
硬直の頻度は数分おきになり、
人間の体ってこんなに反るの⁈
っていうくらい、
とんでもない強い力で、
文字通り、海老反りに硬直する。
私はただ、
その硬直が終わるまで、
大丈夫だからね、って
硬くこわばる体を抱き締めて
時が経つのを待つことしかできなかった。



いつしか
首から下は動かせなくなっていて、
言葉も出なくなってしまっていた。



発症前には、
トコトコ歩いて、
片言のお喋りをして、
本当にスクスクと成長する
可愛い姿を見せてくれていたのに、



首が座らない
新生児の赤ちゃんに戻ったようだった。



想像はしたくなかったけど、
一生寝たきりかもしれない、と覚悟した。



いや、そんなはずはない!
けろっと治るかもしれない。



そんな希望を持とうと思ったけど、
目の前の息子は、
そんな簡単には回復してくれず、
ニコニコご機嫌で
可愛い笑顔は見せてくれるものの、
指ひとつ、
本人の意思では動かせないままだった。



弓なりになる硬直が止まってからは、
特別に病室に寝泊まりさせてもらっていたのを終了して、毎日通っていたのだけど、
私にできることは何もなくて。



ある日、
私にできることは何もないけど、
せめて、息子が私の顔を見て、
少しでも幸せな気持ちになるように、
この病院中で一番ハッピーなお母さんになろう!と決めた。



毎日、毎日、
それだけを思って通った。




桜が散り始めた頃、
ようやくなんとか、
病院のすぐ前の公園までなら、と
外出許可が出て、
バギーに乗せた息子と、
久しぶりに一緒に外の空気を吸った。



「お花見に間に合ったねー」って
ハラハラと散る桜を見ながら、
この日見た桜を
一生忘れないだろうなと思った。




2ヶ月間ほど入院治療し、
症状が落ち着いたのを機に退院。
その翌週から2ヶ月間、
今度は別のリハビリ専門の病院に
母子入院をした。
毎日朝から夕方までリハビリ漬けの日々。



退院後は、
数少ない子どものリハビリができる
3カ所の病院を行ったり来たり、
週5日リハビリ、
という生活を1年間送った。



できること全てをやらないと、
後で後悔してもしきれない。



私のせいで、回復が遅れたりなんかしたら、
そんな自責を抱えて生きるなんて
耐えられそうもない。



しかも、泥沼離婚もこのときちょうど同時並行だったから、彼からの非難や攻撃や理不尽な要求や、そんなものとも闘っていたから。



必死だった。



あ、指先が動いた!
あ、腕が少し動かせた!
あ、体の向きを変えられた!
あ、足が動いた!



そんな、
毎日の、
ほんのちょっとした変化を見落とすまいと
息子を見守り続けた日々。



彼の生命力に励まされながら、
笑顔に励まされながら、
ここまできた。



あれから10年。



一生寝たきりかもと覚悟した息子は、
ドクターに奇跡的だと言われるほどの回復をして、
今や、ほぼ不自由なく生活している。



後遺症はゼロにはならないから、
今だにこけやすかったり、
なんやかんやはあるものの、



息子のことを心配することは
もう随分少なくなった。


秋のマラソン大会。もちろん順位は最後尾に近いのだけど、みんなと一緒に走る姿に思わず胸が熱くなる。




あの頃は、
ただの一瞬も危険な兆候を見逃さないように、
ほんの小さな成長も見逃さないように、
私にできる最大限を注げるように、
そのことに必死過ぎて、



悲しいだとか、
不安だとか、
そんなこと考える余裕もなくて、
泣くこともなかった。



あまりに私がそういう素振りを見せないから、
逆に母に心配されたりもしたけど、



私の心は
泣いたりして
立ち止まっている余裕がなかった。



いや、
悲しいとか、
不安だとか、
そんな感情に気付いてしまったら、
押し潰されて、
足がすくんでしまう、
それが怖かったのだと思う。




だからかな。
今でも、
当時のことを思い出すと、
あの時に心の奥に押し込めた
不安や恐怖や悲しみが溢れてきて、
どうしても涙が出ちゃう。




明日は、
息子の二つ目の誕生日。



あの日から、
生きてくれてありがとう。
命の強さを見せてくれてありがとう。



私を、
お母さんに選んでくれてありがとう。




そんな私の気持ちを知ってか知らずか、
息子は隣でテレビに爆笑してるけど(笑)



何年か前、
私がこの日を、
もう一つの誕生日だと思ってる
って話をしたら、
それがとても気に入ったらしくて。



彼にとっては、
きっとほんとは
悔しい思いや、
悲しい思いや、
なんで僕が⁈って気持ちや、
いろんな思いが詰まった3.11なんだと思うんだけど。



僕には誕生日が二つあんねん!
って誇らしげに、
この日を楽しみにしてる。
明日はケーキを食べたいんだって。
お誕生日だからね🎂



あぁ、幸せな10年間だったな。