映画『こちらあみ子』の設定がもしも・・ | 発達障害家族の記録

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映画『こちらあみ子』のあみ子の考えなしのズレた言動の数々がなぜ残酷に感じるのだろうか・・と考えてみると、周りの人間に悪役らしい悪役が存在しない世界線だからではないだろうか。

 

主人公のあみ子は、悪気はないけど他人を傷つけ迷惑をかけるけど、根っこから悪人てわけじゃない(発達障碍)

 

そして周りの人達も、みな善良な人々で、あみ子に悪気はないとうっすら分かっていても、あまりにも規格外過ぎて理解不能な上に迷惑極まりないのだ。善良な人とはいえ・・いや善良だからこそ大目にみてるうちに積もり積もって、ある日突然限界突破してしまうのだ・・・。

 

ゆえに、あみ子は無自覚な加害者、周りは被害者、のような構図にしかみえなくなってしまう。

 

 

もしも・・・だけど、あみ子の家族が私の家族のようなキャラ設定だったら、視聴者の目にあみ子はどう映るだろうか?

 

 

映画のあみ子の父親はやさしくて穏やかな性格の設定だったけど、酒乱で意味不明にキレる暴力男で、稼いだ給料を趣味に散財して家族を省みない父親だったとしたら?

 

 

母親は良い母親であろうと、あみ子の誕生日にあみ子の好物を張り切って作ってあげるシーンがあったけど(あみ子は食べず)、そもそも子供のご飯すら作らないような、最初からネグレしてたとしたら?

 

あみ子が母親のために食事を運ぶシーンがあったけど、せっかく用意した食事を『こんなもの食えるか!!』ってぶん投げるような母親だったとしたら?

 

この母親はうつ病になっても、静かにグッタリしている様子が描かれていたけど、うつ病で寝込んでいても家事はあみ子に全部やらせて、たまに起きてきて文句タラタラ、半狂乱で子供を怒鳴りつけて用を言いつけるような母親だったとしたら?(つまり、あみ子がヤングケアラーだったとしたら?)

 

 

映画の中では面倒見の良かった兄が、幼少期から同級生に暴力を振るう問題児だったとしたら?あみ子も問題児だけど、兄はもっと問題児って設定だったとしたら?

 

あみ子というキャラはおんなじでも、周りの環境が違ってたら、違った印象になるだろうか?『こちらあみ子』のそういう設定バージョンがあったら、私はレビューを片っ端から読んでみたい(笑)

 

まあ・・・一人に人間との関わる時、その背後にある家庭環境を想像しながら関わるわけじゃないし、そんなものは関係なく、迷惑な子供は迷惑な子供であることに違いないのだけど、

 

あみ子の家族が私の家族のようなキャラ設定であったなら、客観的に見せられる分には、登場人物全員が無自覚な加害者・・・つまり被害者なんて存在しなかったのではないだろうか。

 

 

映画では、あみ子の家庭が壊れていく悲劇でしかなかったけど、あみ子の目線では悲劇は存在していない。

自分の身の回りの状況が理解できてないから。

 

知らないからこそ不幸だと感じもしないわけだけど、それは幸福ってことではないと思う。

 

ある日、ひょんなことから、自分の考えなしな言動のせいで周りが不幸になったと知ってしまったらどうなるんだろう。

大っ嫌いな人が、自分のせいで不幸になろうと知ったこっちゃないとしても、嫌いなわけじゃない相手が自分のせいで傷ついてきたと知ったら、ショックを受けるはず・・・。知らないだけで保てる心の平穏は、常にそういう爆弾を抱えているってことだと思う。

 

 

もしも、あみ子が私の家庭で育ったならば、空気が読めない子供であっても、あみ子の目には自分を取り巻く世界は悲劇に映ったと思う(空気読めなくても、自分に実害がある以上、まったくの無関心ではいられないはず)

 

 

自分目線だけで見れば、私の家庭環境は悲惨だったけど、第三者目線でみれば、私を含め、家族のみんながみんな、規格外でズレていて、(悪気があるかないかはともかく)家族を傷つけることを平気で言うのだから、似た者同士。誰かひとりだけが加害者でも被害者ってわけでもない。客観的にみれば、喜劇(笑)

 

 

結局、何が言いたいか纏らないけど、被害者にならないってことは、相手を加害者にもしないってことで、ズレてる人に対してズレた対応のほうが救いはあるんじゃないかなって思う。

 

・・・この考え自体が既にズレてるのかもしれないけど(笑)