私目線で語る映画『こちらあみ子』の残酷さ | 発達障害家族の記録

発達障害家族の記録

発達障害について、当事者として、
当事者の家族の立場としての両面から書いてます。

 

※ネタバレあり注意

 

 

 

主人公は”風変りな女の子”として紹介されているけど、映画のレビューを見た感じ、『発達障害』で間違いないってことで、以前から気になっていた。

 

で、最近になって観てみたけど、作中では、あみ子が発達障害だとは一言も言われていないものの、意味なく側転やスキップを繰り返したり、場の空気が読めなかったり、対話が成り立たなかったり・・・と、特徴がバッチリ出てて、私があみ子の親族だったら、まぁ・・・療育を勧めるだろうな(笑)

 

 

そして、観終わった感想としては、予想以上に重たく、そして残酷だなって思った。

 

 

 

ただし、この映画の主人公のあみ子を『発達障害』という目線でみてしまうと、作品のメッセージ性と大きくズレてしまうと思う。

 

あえて、あみ子を発達障害とは表現せず、風変りな子供としたのは、あくまで、あみ子という自由奔放な少女に象徴した、かつて誰もが持っていたはずの子供らしい無垢さに焦点をあてるためだと思われる。

 

『障害のある子』としてしまうと、『うわぁ~発達障害の子育てって大変そう・・』とか『周りの大人がちゃんと療育に繋げてあげなきゃ』といった、”大人目線”でしか語れないだろうから。

 

残酷なまでの子供の純粋さのまま何ひとつ変わらないあみ子と、成長して変わっていく兄や同級生、子供の感覚をすっかり忘れてしまった大人達、という3つの構図から描かれている内容だった。

 

 

この作品は誰の目線で見るかで印象が変わってくる

 

あみ子をはじめ、登場人物は皆やさしい人達だ。

 

良いお母さんであろうと頑張る母親

優しい父親

面倒見が良く、親にも気を遣う兄

親の言いつけを守ってあみ子につきあってあげてる同級生

 

 

リアルであみ子のような子供の周りの人達なら、感情移入するポイントは多かったと思う。

 

あみ子は、周りの人達の気持ちが理解できず、良かれと思ったことで傷つけ、振り回してしまう。あみ子以外の目線でみたら、悲劇でしかない。

 

あみ子に振り回されながらも、最初は母親もしっかり叱っていたし、兄もあみ子に理解できるように言い聞かせたりしてるんだけど、優しいがゆえに、打ちのめされ、次第に壊れていく様子が描かれていた。

 

母親は壊れ、父親は子供の問題と向き合うことから逃げ、そして兄はグレた

 

これは、決して、周りに理解されず、周囲から浮いてしまう発達障害の子供と、その家族の苦悩を描いたものではないと思う。

 

主人公のあみ子は、誰もがもっていた子供の部分の象徴であり、あみ子自身は何一つ変わらないのだ。ただ、周りの人間が変わっていくだけで。

 

これは、人の成長や状況の変化によって、あみ子に象徴される純粋無垢な子供の感覚が徐々に失われて、理解できないものに変化していく様子を表現しているのだと思った。

 

あみ子はあみ子のまま何一つ変わらない一方で、周りの誰もあみ子と同じ目線でみることは出来ず、あみ子を取り巻く環境だけが日々刻々と変化していくのだ。

 

 

成長して変わっていく子供と時間が止まったままの子供

 

あみ子が中学にあがった頃の教室でのシーンに、私は胸が締め付けられた。

 

小学生から中学生になって、同級生や周りの環境が徐々に変化する中で、あみ子ただ一人が何も変わらないまま取り残されていく。

 

あみ子を可哀そうと思ったわけじゃない。

元あみ子みたいな子供だった私が、あみ子の目線で考えれば、あみ子は、自分を可哀そうだとは思ってないだろう。

 

中学にあがってから不登校になる子は今時珍しくいないけど、そういった子達より、あみ子はもっともっと早い段階で成長が止まったような子供。

 

周りの状況の変化が呑み込めない子供にとっては、何がなんだか分からない世界に放り込まれた感覚で、分からないものには悩みようがないのだ。せいぜい『なんか面白くないなぁ・・・』程度だろう。

 

ただ、中学入学は、発達特性を持つ子にとって、自分と周りの子の格差が生じる最初の関門。その後の人生で何度も何度もくぐることになるのだ。

 

私自身もそうやって生きてきたわけだし、当時は自分を不幸だとは感じてなかったけど(何がなんだかわかってなかったので)、このあたりのシーンは・・・客観的に当時の自分を見せられてるようで、キツいものがあった笑い泣き

 

元あみ子みたいな子供だった私も、大人になってしまったがゆえに、大人目線でみてしまうってことなのだろう。

 

 

映画の中で、お調子者の少年だけが、中学にあがったあみ子と正面から向き合おうとしていた。

 

『お前臭いんじゃ!風呂入れ!』とか『キモイんじゃ!』とか、あみ子にハッキリ言っちゃうんだけど、そんなお調子ものの子でも、あみ子の『あたしのどこがキモイん??』って質問には言葉を濁している。

 

お調子ものの小学生男児が中学に入ってちょっと成長したからなのかな?少年の中であみ子に対する残酷な言葉を飲み込んだ印象。

 

この映画の中では、『そこ、普通感覚を教えるチャンスじゃん!?』てシーンが多数あるんだけど、あみ子の周りがあみ子と正面から向き合うことを諦めちゃって、ことごとくスルーされている。

 

意味不明なあみ子と上手く向き合えない大人や同級生を描いているように見えるけど、自分の中にあったはずの子供感覚が時間n経過とともに失われて、向き合うことがなくなるっていうのを表現しているのかな?とも受け取れた(深読み?)

 

 

お調子者の少年の、『じゃあな、俺のこと忘れるなよ』っていうこのシーンは、成長していく子供が純粋無垢な子供時代との決別する瞬間を象徴しているのかな?と感じた。

 

 

大人になったあみ子はどんな大人?

 

この映画の主演を務めた女の子は、この作品が初出演らしいけど、その演技力には驚いた。いかにも『変わった子供』とされる子供の演技が上手すぎる(笑)

 

『ある男』って映画の中で、

柄本明が演じる詐欺師が『先生は在日っぽくない在日ですなぁ。在日っぽくない在日、即ちそれは在日っぽいっちゅうことなんですわ』っていうセリフがあってドキッとした。

 

アスペっぽくないアスペ、即ちアスペっぽいとも言えそう(笑)

 

 

この映画はあみ子が中学生のところで終わっているけど、大人になったあみ子はどんな大人になるのだろう。

 

普通の大人を演じたあみ子はリアルに存在している。

私もその一人なのだと思う。


通常、人が大人になるにつれ、置いてけぼりされる子供の部分が私の中に残っているから、世間や親に置いてけぼりにされるあみ子に自分を重ねて残酷に感じた。

 

一方で、あみ子を置いてけぼりにせざるを得なかった周りの人たちの目線にたってみても、残酷だな~って思う。