<朝>
この日、里英は子供たちを連れて野球の試合
の応援にくる予定だった。
開始時間に合わせて真由美ちゃん
の車に同乗させてもらうつもりであったが、「何となくお腹が張る」とのことで、家で様子をみることになった。
<昼>
試合を終えて帰宅すると、「少し痛みもある」という。
万が一に備え、念のため入院の準備を整える。
<夕方>
定期的な張りと痛み。
「まだ大丈夫な気もするんだよなぁ。産院行っても一旦帰りましょうとか言われたら面倒だし…。」
三人目ともなるとやはり落ち着いたもの。里英はかなり冷静に状態を分析していた。
産院に行くことにはどちらかというと消極的だった。
<18時>
いつも通り夕食
の支度にかかる里英。
「やっぱり家で産まれてきちゃったら大変だから一応産院行っとこうかな?」
まぁそれもそうだなと思った。産気を感じつつも普段通りに家事をこなす妻。
本当にたいしたものだ。
<19:00>
子供たちに夕食を食べさせ、シャワー
を浴びた後とりあえずボクの母に連絡。「もしかしたら産まれてくるかも知れないから病院に行きます。」
ボクも長期戦に備えて身支度を始める。
<19:30>
病院着。
診察を受ける。助産師からは「初産なら帰ってもらうとこだけど、三人目だからねぇ。とりあえずこのまま入院しましょうか。」と言われた。
やはりここからは長くなりそうだ。ボクは一旦帰宅し、両親にその旨を伝えたり、仕事を休む段取りをとりつけた。
<21:00>
里英はまだまだ余裕であった。子宮口の開きは3cmとのこと、全開になるのは明け方か。分娩ベッドに横になり、おしゃべりをしたり持参したCDを聴いたりして過ごした。
ボクは睡魔と戦っていた。普段なら就寝の時間。試合の疲れもあり、眠気はこのときがピークだった。
<22:00>
話しかけたが、里英が返事をしなくなった。おや?っと思って覗き込むと、横向きで苦痛に顔をゆがめていた。思ったより早く陣痛が強くなってきたようだ。コールで助産師を呼ぶ。「早そうだね。」とのこと。里英のお腹の形が変わってきているのがはっきりわかった。ふくらみが下にズレてきている。しかし児はこの期に及んでも胎動をやめない。下にズレながら、グニュグニュと動く腹。見えないだけで、命はもうすぐそこにある。無事に乗り越えられますように。
<23:00>
陣痛を示すモニターの針が、大きく弧を描きだした。里英は細く長く息を吐き、目を閉じて痛みに絶えている。膝や肩がガタガタと震えているのが見えた。「寒いの?」と聞くと、「痛すぎて震えちゃうんだ。」と言う。ボクはいまだかつて、強すぎる痛みのせいで体が震えたことなどない。
手足に痙攣がくるほどの激痛―。これまでお産の痛みを表現する様々な例え話を聞いたが、これほどリアルに恐怖を感じたことはなかった。
こんなとき男は、腰を揉むか祈ること
くらいしかできない。
<23:30>
助産師が頻繁に出入りするようになった。子宮口はほぼ全開に近づいている模様。「じゃあお産の準備を整えるので、パパはいったん退室してください。」と。もうほとんど話もできない状態の妻の残して部屋を出るのはとても不安だったが、ここは従い、任せるしかない。実際にはほんの数分の退室だったのかも知れないが、すごく長い時間に感じられた。
<0:00>
入室すると、里英は臨戦態勢に入っていた。陣痛のピークに合わせてイキむ、ここまでは順調のようだ。もう少し、と思ったところで突然、児の心音が途絶えた。里英が出そうと思っていきむと、心音が止んでしまう。「イキまないでー!」と助産師。しかし痛みは頂点に達しており、里英はもうイキまずにはいられない様子。児の呼吸と里英の激痛、またしてもボクは、祈ることしかできない無力を感じていた。助産師が「がんばってぇ!赤ちゃんもあなたたちパパとママを選んでここへ来てるんだよ~!!」と声をかけた。のちに里英は、この言葉にすごく勇気づけられたと言っていた。
<0:04>
「はい出たよ~!!」。ついに命の姿が見えた。児は首にへその緒が巻きついていたようだ。そのために呼吸が苦しくなり、一瞬心音が弱まったらしい。しかしすぐに大声で泣き始め、ボクらを安堵させてくれた。ボクらは声をそろえ、「どっちどっち?」と訊いた。今回は生まれるまで性別を聞かずにいたので、男児か女児かはこの瞬間までわからなかった。「男の子!」と助産師。3人目は女の子、という気持ちもあったが、無事に生まれてきてくれたのだから、これに勝る喜びはない。寛大
の時も遼真
の時にも泣きはしなかった里英も、「今回初めて泣ける」と涙を流した。10カ月間、ほんとうによくがんばったね。
<25:00>
里英も児も産後の処置を受け、ベッドに並んで寝ていた。ボクは傍らの椅子に腰かけて二人を眺めながら、独特な気持ちに包まれていた。過去2度もそうだったが、子供が生まれた直後の心持というのは、もう他の何に例えようもない心情になる。安心と感激、達成感と責任感、運命と不思議と感謝と脱力・・・。2482g、早くもおっぱいを欲しそうにする児を眺めながら、人生3度目の、そしてたぶん人生最後の「何とも言えない気分」を味わっていた。
<25:30>
事前に性別を聞いていなかったので、名前は男女両方を考えていた。いや正確には、女児の名前のみ決定していた。男児についてはいくつかの候補があったが、決定には至っていなかった。しかし、産まれて初めてのおっぱいをもらって満足そうに里英の手に抱かれている顔を見て、ボクは確信した。閃くように、候補の中のひとつが頭に浮かんできた。「名前は樹生(いつき)しよう。」里英も「そうだね。」と微笑んだ。
寛大、遼真、樹生。
平成22年4月19日、
ボクら夫婦は、男3兄弟の親 になった。