みつぐの「蒼穹の果て」 -192ページ目

今日のお昼ご飯

目玉焼き丼です(爆笑)

もともと目玉焼き丼は漫画の「美味しんぼ」で見たのがきっかけでちょくちょく
作ってましたが、最近「とあるCM」を拝見してから食べたくて仕方がありませんでしたw
とはいえうちの場合は「味○素」は使用しませんがw

「なま卵かけごはん」よりも自分の性にあっている感じです。
もちろん卵かけごはんも美味しいですけどねw

卵は白身は火が通ったほうが、黄身は生に近いほうが消化にいい、とは
よく聞く言葉です。半熟のゆで卵とかいいですよね…^^

$みつぐの「いつか」どこかで

せめて目玉焼きとごはんの間に「キャベツの千切り」でもはさむべき
でしたかねぇ…w 見た目貧乏くさいのが唯一の欠点ですな。
特にしょうゆが直接ご飯にかかってご飯がしょうゆ色になっているところが
たまらなく貧乏くさいですwww
まぁ本人、本当に貧乏だし(泣

あ、ちなみに自分は目玉焼きは両面焼き(ターンオーバー)派ですw

とあるブログの死刑論争(長文注意)

まぁ論争というほどでもありませんがw

事の発端は、とあるブログでのアンケートでした。
「日本人は優しい民族なのになぜ死刑を存続させるのか?あなたは死刑に反対ですか賛成ですか?」
というもの。

アンケートには5件の回答が寄せられ、うち4件が死刑に賛成。1件は「終身刑に変える」に
振り分けられていましたが、コメントには「死刑と終身刑」と書かれていました。
つまり「死刑に反対」の意見はひとつもなかったわけです。
ちなみに自分はもちろん「死刑賛成派・肯定派」です(アンケートに参加しました)。

この結果を踏まえてか、ブログの次の記事は
「死刑賛成の人はどのような心を使っているのでしょうか?」というものでした。
このブログを書かれた方は心優しい人なのでしょう。おそらく「死刑に反対」の意見が
ひとつもなかったことに疑問を抱かれたのでしょうね。

「賛成派」の自分としては、どのような心を使っているのか問われた以上
答えるのが筋だと思いました。それにアンケートの「理由の欄」が足りなすぎもしましたし。
(問い、ではなく一人ごちているのでしたら余計なお世話でしたねw)

ここで自分が書いたのは以下の文章です。引用が長くなりますが、肝心なところだと思いますので
ご了承ください。
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初めてコメントさせていただきます。

うまくは言えませんが、自分なりの考えを持ってお答えさせていただきます。

「死刑」という現象を考えるときには、その人によって死刑そのものが残酷な処置なのかどうかも考えたいと思っています。

なかには「これ以上の罪の意識にさいなまれるのであれば死んだほうがまし」という感覚の人もいるかも知れません。
逆に自分は、そういう人にはそのまま罪の意識を背負って生きていってほしいと思います。そのほうが死刑よりもよほど残酷な罰であり得ます。

また、昨今はこの世から消えたい、死にたいがために「死刑になりたくて人を殺す」犯罪者も散見しています。できれば自分はこのような輩は安易に死刑になどせず、一生陽の当らぬところで重労働でも科してやりたいところです。

本当に罪を償う気持ちがその人にあり、しかし裁判で「死刑相当である」という、一死をもって償わなければ償えないほどの罪を背負った人間にこそ死刑はあってしかるべき、かと思います。

因果応報ではありませんが、他人の生の喜びを奪うような人間に生の喜びを与えてほしくはありません。

終身刑も「ただ一生、ぬくぬくと刑務所で生きていられるような」終身刑は望みません。それこそ生きていくのがいやだと思えるような厳罰を与えてほしく思います。

他人の最低の人権、生きている自由を奪うような人間の人権は、自分は認めません。
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自分がここで言いたかったのは「死刑」は「罪を償う気もなく、ただ罪の意識から逃れたい」もしくは
「自分が死刑になりたいがため、身勝手に人を殺すような犯罪者」に関しては、「死刑は救い(逃げ)」になってしまいかねない、そのような犯罪者には「死刑」などではなく、もっと重い罰を科すべきではないか?ということです。普通に読んでいただければわかる文章だと思うのですが。

「死刑」に賛成なのは「本当に罪を償いたいと思っているが、一死を持って罪を償わなければ償いきれないほどの犯罪を犯した者」に対してです。


ところがこのブログの管理人の方は、まず「みつぐさんは終身刑がいいということですか?」と
聞いてきました。そこで「自分は死刑に賛成ですが、死刑に値しないものにはそれ以上の罪を科すべきだと思っているものです」とお答えしたところ、「死刑に値しないものにはそれ以上の罪を科すべき」というのが良くわからない、というお返事をいただきました。

そこで「死刑を残酷だと思う向きもあるようですが、ただ自分が犯した罪から逃げたいと思っているもの、もしくは身勝手な殺人者」などには「死刑が救い・赦しになってしまう場合もある」のでそのような犯罪者には死刑以上に苦しみを長引かせるような刑を加えるのがいいのではないか、と書きました。
ただ最初に書いたことを繰り返しただけですね、はいw

もちろん、この考え方が現行の法律や、民主主義の根幹から考えると間違っている(少なくとも認められていない)のはわかっているので「危険思想だと思います」とも書き添えました。

それに対するブログの管理人からの返事が
「死刑は救い、赦しだというのはオウム真理教の考え方と同じです。オウムは悪い考えを持った人はこれから先、人々に迷惑をかけ続け、その人(悪い考えを持った人)が死んだあと、その迷惑をかけたぶんだけ(罪を犯した分だけ)地獄の炎に焼かれて苦しい思いをするから、それほど罪を犯していない今のうちに殺しておきましょう(救いましょう)という考え方です。気をつけてください!というものでした。

なにをかいわんや、ですね。私の書いた文章の「死刑は救い・赦し」というとこだけつまんで、全く逆のことを書いてきたのです。

自分の論からすれば、上記のような「悪い考えの人」が犯罪を犯したとして、もし罪を償う気がないようなら「死刑など生ぬるい」と言っているのですが…。
(ちなみにこれは余談ですが、オウム真理教の死刑囚のうちの幾人かに関しては「死刑など生ぬるい」と思っています。この()内の部分は、二人の間の記事には書いておりません)

ですが、この管理人の方にはそこのところがわからなかったらしく「死刑肯定・死刑は救い」という考え方ですね?と再度問うてきました。この「死刑肯定・死刑は救い」というものをつなげて書いてしまうと、「死刑は犯罪者にとって救いとなるから死刑肯定なんですね?」となってしまいます。それは自分の主張するところとは180度に近く変わってしまいますので「それはあなたの誤解です、罪から逃げようとする犯罪者にとって死刑は救いになりかねないので、それ(死刑)以上の罰を与えるべきと考えます。罪に対する罰として死刑は肯定しますが、それは反省のない犯罪者を救うためではありません」と申し上げたのですが、ついにそのコメントがかの人のブログに載ることはありませんでした。
(その人のブログは、寄せられてくるコメントが管理者の許可なくしては載らないようになっています)


私のコメントは載らずとも、かの人からの問いかけは続きます。
「被害者と加害者の関係は変わらないのですか?」と。
その設問はあまりにおおざっぱに思えたので、設問するときには「これこれこういう状況で被害者と加害者の立場が変わることがあると思うのですがどう思いますか?」という設問のほうが答えが導き出しやすいと思いますよ。ところで私のさっきのコメントは載せてもらえないのですか?とコメントを送ったところ、ブログではなくメッセージにてお返事をいただきました。かの人のそのコメント欄が奇妙な尻切れトンボで終わっているのはそのためです。

いわく「自分のブログはあなた(みつぐ)の主張を載せるところではありません。『死刑は救い』という持論を主張をしたいのであれば自分のブログでやってください。あなたの主張はオウムと同じです」というメッセージでした。

最後まで、誤解を誤解と認めてはいただけなかったのが残念ではありますが、正直「ああ、追い込み過ぎたんだな」と思いました。もしくは、これは邪推ですが「誤解とわかってもそれを認めたくなかった」だけかも知れません。ただ、意見を求めてきたからコメントしたつもりなのに、最終的には「私のブログはあなたの意見を載せるところではない」っていうのはどうかと思いました。


翻って、こういうとき思うのは、やはり自分の未熟さ加減です。もっといい方法で理解しあえる方法はなかったか?とも思うのですが…。
何にせよ、最初のボタンの掛け違いがすべてだったのかもしれません。自分の文章力に問題があったのか、はたまたかの人の読解力に問題があったのか…。

ただ、自分としては誤解から始まったとはいえ「あなたの主張はオウム真理教の教義と似通っています」という悪魔化(デモナイズ)は許しがたいものがあったのは事実です。それもまったく意味の違う事象を同列に並べてまで。よくある方法ではありますけどね。「お前は右翼だ!」とか「左翼じゃねーか」とかと同じです。「悪のレッテル貼り」です。
(誤解のないように言い置きますが右翼、左翼が「悪」という意味ではありません)

他人の意見に意見で、もしくは理論で反論出来なくなったときにときたま行われるのがこの「悪魔化(デモナイズ)」です。世間から見ていわゆる「悪」と認められてるようなもの(たとえばオウム真理教やナチス)のレッテルを張ることにより、その論の持ち主を「悪魔のように」思わせる、ある意味では最もひきょうな、だけども幼稚な方法です。

それに関しては抗議もしました。その抗議もかえって、かの人を頑なにしてしまったのかも知れません。


以上、つらつらと書いてきましたが「こういうことがありました」という報告と、自分自身への総括を込めて、書かせていただきました。


この文章は正直、書いてはみたもののブログにアップするつもりはなかったのですが、当該ブログのアメンバーから、私個人がいつの間にか削除されているというまたしても「卑怯な手」で報復されているため掲載の決意に至りました。先にも書きましたが、ブログの管理人はおそらく「心優しい人」なのでしょう。ですが、残念ながら「他者の意見を認める」ことができない思想の持ち主のようです。自分の「正義」だけを信奉している人には数多く見られるタイプです。もちろん、そんなものは「正義」でなどあり得るはずもありません。哀しい人ですね。

脚本家・市川森一氏 逝去

脚本家の市川森一氏が、肺がんのため亡くなられた。享年70歳。

特撮ファンとしては「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」の脚本を執筆。
「ウルトラマンA」ではメインライターに起用されたが、スタッフとの方針の違いから
降板されたことも記憶に深い。

当該ウルトラマンが当初男女(北斗と南)の持つ指輪をクロスさせることによって
誕生する唯一無二の「ウルトラマン」だったが、番組後半に「南月子」が生まれ故郷の月へと
帰ることで「北斗」単体での変身に変わったこともその辺の事情を踏まえてのことなのだろうか。

市川氏は「ウルトラマンは男女の性差を超えた神のような存在」と主張されていたという。

また、「仮面ライダー」では番組企画当初から参加。「怪奇アクション」を重点に置いた
それまでの特撮番組とは一味違う設定に一役買っている。
(脚本としては第4話の「人食いサラセニアン」を「島田真之」氏と共著したのみ)

「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」の脚本家としても知られ、
ついこの間の「太陽にほえろ」同窓会では刑事役だった「萩原健一」氏や「竜雷太」氏らと
久闊を叙していた。

2011年12月10日、永眠。

せめて、やすらかに。