石油がどんどん減っていったら世界はどうなるのか?日本はどうなるのか?自分や子供はどうなるのか?
現在の環境問題は温暖化問題ばかりが焦点になっていますが、それよりもはるかに重要で本当に議論すべき問題はエネルギーおよび化学製品の原料としての石油の問題でしょう。
温暖化が進んで海面が上がったり天候が変わったりするのはもちろん世界各地に大きな損害を出すでしょうが、人類の存続の危機とまではならないでしょう。
一方、石油がなくなれば多くの先進国ではほぼジ・エンドでしょう。家庭に水が来なくなり、食糧も物資も運べなくなる。トラクターもコンバインも動かないから農業もできない。現在の日本の社会構造は、インフラが石油の上に成り立っており、しかも以前に比べて農家の数が大幅に減っている。したがって、石油の流動性がなくなったときの日本の食糧事情は、第二次世界大戦直後の日本並みに悪くなるであろうことは容易に想像できる。さらに、石油の流動性を求めて戦争が頻発することも大いに考えられる。
国に任せればいいという声もあるでしょうが、保身が身上の官僚に支配されている国の機関にはあまり期待できないでしょう。今までの様々な例からして国や地方自治体の危機管理能力も甚だ疑問です。
しかし手をこまねいている時間はありません。我々ができることは、まず、いろいろな脱石油社会のアイデアを出して、コミュニティのサンプルを作り、石油依存の従来のコミュニティと並行して脱石油依存のコミュニティの運営を徐々に進めていくすることではないでしょうか。並大抵のことではないですが、個々人が主体性を持って危機意識を持てば、決して不可能ではないと思います。
ポスト原発時代
起きてしまったことは覆水盆に返らず、悔やんでも悔やみきれないが、今はとにかくあらゆる事態をシミュレーションして、リスクを最小限に収めるように迅速に意思決定をして国や世界の総力を挙げて最大限の努力をする以外にない。しかし残念ながら今の当事者である日本政府や東電・保安院等にはそのような能力はないようだ。
現在の最大のリスクは問題解決能力もリーダーシップもない当事者が意思決定を遅らせる間に時間だけが過ぎて被害がどんどん広がっていくことだ。この非常時に一分一秒でも無駄にできないのにこの意思決定や行動の遅さは致命的だ。次の次のさらに次の手まで戦術を考えて先手を打って準備をするというような行動力が現在の当事者には欠落しているように見える。
我々にいまできることは、今からでも遅くはないので意思決定者を変えることだ。チェルノブイリほどにはならないなどと甘いリスク評価しかしない意思決定者には任せるわけにはいかない。海への放射線物質の流出がわかっているのだからそれを止めるための行動をしなければならないし、チェルノブイリのようにセメントで固める可能性が少しでもあればそのための手配をもう始めていなければならない。汚染された水が出てくることなど予想できたのだからその場合の対処法をあらかじめ考えて用意しておかなければならなかった。
ポスト原発時代のために、我々はこれを教訓に経済の仕組みやライフスタイルを根本から変えていかなければならない。例えば、経済成長になぜこだわる?そもそも会社が大きくなりつづける必要はないし、国の経済も大きくなりつづける必要もない。ただそうすることが正しいであろうと経営者や政治家が無責任に思い込んでいるに過ぎない。いまの社会の仕組みがもう限界が来ているのは明らかだ。
このツケを子孫たちに回すわけにはいかない。
生きることの意味とは
今回は、将来の社会の価値基準を語る上で避けることのできない、そもそも「生きる」ことの意味や目的は何なのか、ということについて考えてみたいと思います。
生物学的には:
遺伝子の組み合わせが司るライフサイクルの生命活動を持続し、(運良く)環境適応に成功した「カラダ」を持つ遺伝子の組み合わせが自らをコピーして遺伝子を残すこと。
色々な遺伝子の組み合わせがその遺伝子を守る様々な形態の「カラダ」をつくりだし、環境に適応して生き延びてきた遺伝子が現在の地球上の様々な生物のそれぞれのカラダに宿っている。遺伝子をコピーすること自体には「意思」はないが、その結果もたらされたカラダには複合的な機能を持つ器官が備わっており、その機能によって様々なレベルで「意思」が生まれる。その最たるものが脳みそであり、高いレベルの意思や判断能力を持ち、特に人間はその高い機能によって生き延び、遺伝子を守ることに成功している。
社会通念上は:
社会のルールの範囲内で様々な行動をし、生きるために必要な衣食住を確保し、最低限の生活以上の余裕があれば趣味や自己実現のために時間を費やすこと。
しかし、この回答の問題は、「生きるために生きる」という無限ループに陥ってしまうこと。このため、そもそも何のために生きるのかという質問の答えにはなっているとは言い難い。また、趣味や自己実現等のために生きるという考えも、そのような余裕がある人はそう言えるかもしれないが、生きるだけで精いっぱいで自己実現ができる環境にない人は生きる意味がないのかということになり、良い答えとはいえない。
となれば、生きることにはそもそも特に必要性や意味はない、という結論にするのがもっともらしく思えてしまうが、それでは自分の存在を否定することにもなりかねない。そのため自己防御の本能が働いて、生きることには何かしらの意味があるはずだ、という方向に考える動機付けになると考えられる。従って、個人レベルでそれぞれの生きる意味を考えるということになり、その答えが出るにせよ出ないにせよ、とりあえず生きていかないことには始まらないので生きていく。この意味でいえば、「生きることの意味を考えるために生きる」といった言い方もできるかも…(笑)。
私的には:
便利でラクな暮らしをするために環境を犠牲にして石油を消費し続けて後々の世代に危機に直面させる、というのは生物学的に遺伝子を残すという目的に完全に反しているので、生きる目的あるいは方向性としてはよろしくない、と思います。もし人類の総意としてもう遺伝子を残したくないというのであれば、それでもいいかもしれないですが、しかしそれではあまりにも自暴自棄であり、遺伝子を繋いできてこられた我々の祖先の努力をないがしろにするものです。
もともと人間は自分がラクな暮らしができればそれに越したことはない、と考えるのは当然でしょう。しかし、そうしたラクな方向に流れやすい人間のサガにも、幸いにも救いがあります。それは、人間の本能として、自分以外の、自分の家族や自分が大切に思う人に対して、自分に対する愛情と同じくらい、もしくはそれ以上の愛情をかけることができるということです。(そもそもはこの本能も、遺伝子が生き延びることに役立ったので、その結果我々が持っているのではないかと思います。)
従って、自分の子どもが将来ひどい目にあいそうだ、という危機感があれば、現在の便利でラクだけれども将来大問題を引き起こすであろうと思われる暮らし方を見直して、将来の子どもたちのためにどうにかしよう、という動機付けになるのではないかと思います。(とはいっても、もうすでにワーキングプアや働きすぎなど色々なところで現在の社会の問題点が表面化してきていて、便利でラクな暮らしを謳歌している人は実際にはそんなに多くはないかもしれません。)
ポスト石油時代を考える際に、ただ単なる「きれいごと」で終わらせないためにも、この「子や孫に対する脅威」という動機付けは非常に重要だと思います。今のままでは子や孫が餓えや戦争で苦しむのは実際問題として高い確率で起こりうるのです。
これらを念頭において、話をもとに戻します。私は、人類というマクロのレベルでは、より多くの人々が平和で安定した暮らしをしてより楽しい人生を送り、それを後の世代にも持続させることが、人類の向かうべき方向だと思います。
同じように、個人というミクロのレベルでいえば、自分や家族、そしてそれを支えるコミュニティーができるだけ平和で安定した暮らしをしてより楽しい人生を送り、それを子や孫やその家族やコミュニティーにも持続できるようにする、というのが人生の方向性として良いのではないかと思います。
私は、この人生の方向性に向かって努力しながら突き進んでいくことに「生きる意味」があるのだと思います。
「楽しむ」ために石油は必要か
「楽しむ」という言葉は実に深遠な言葉です。人生を楽しむ、趣味を楽しむ、遊びを楽しむ、飲み会を楽しむ、仕事を楽しむなどいろいろな「楽しみ」がありますが、ここでは最も基本的な「楽しみ」であると思われる、可処分時間をどうやって「楽しむ」か、ということに焦点を当てて「楽しむ」ということの本質について考えたいと思います。
私にとっての可処分時間においての一番の「楽しみ」は、友達や好きな人と会って食べたりしゃべくったりすることです。楽しい会の後はとても幸せな気分になります。また、趣味でいえば、踊りを踊っているときや歌を歌っている時なども非常に楽しくて幸せです。好きな歌手のライブに行くときなどもこの上なく楽しくて幸せな気分になります。
また、家でテレビを見たりインターネットに繋いだりすることも楽しいと思います。しかし、実際に友達と直接会って話したり、知りたいことを直接人に聞いたり自分の足で調べたりすることに比べて、テレビやネットはどうしても簡単すぎて「楽しい」度が低くなってしまう傾向があります。
何を言いたいかというと、「楽しむ」のに文明の利器は本来必要ないということです。人間の本能に近い、最も人間らしい楽しみ方に近づくにつれてその傾向は強くなってきます。従って、食欲や性欲などはその最たるものであって、いつの時代でも「楽しみ」のトップにランキングされるわけです。
(余談ですが、睡眠欲を満たす睡眠も本来は楽しむものであって、毎晩睡眠を削っている私のライフスタイルは見直さないといけません…orz 笑)
その次にランクインされるのは、「知的活動をしたい欲」を満たすものだと思います。話をしたり、本を読んだり、映画を見たり、文章を書いたり、クリエイティブなことをしたりなど、人間であるということを存分に利用して知的なことをすることによって「楽しむ」ことであり、知的な楽しみといえるかもしれません。この場合も、楽しむために必要なものは「人間」であり、機械やコンピューターが必要なわけではありません。機械やコンピューターはあくまで「手助け」をしてくれるだけです。機械と話したり機械が書いた文章を読んでもつまらないだけです。
いや待て、今の石油時代の世の中は科学技術の発達のおかげで便利な世の中になったから、今の世の中のほうが昔よりも楽しいはずだ、と思われる方もいるかもしれません。しかし単純に、便利であるからより楽しい、ということにはなりません。むしろ逆で、不便であるからこそより楽しい、というほうが実は正しい場合が多いのです。
これは人間の心理を考えれば当然で、困難があれば試行錯誤して問題解決しようとしたりすることによって、より多くの「楽しむ」チャンスがあるからです。平凡な人生と波乱万丈な人生では、波乱万丈のほうが圧倒的にいろいろな出来事を経験し「楽しむ」機会が多いでしょう。アスファルトの敷かれた平坦な一本道を歩いて家に帰るのと、遠回りをして知らない場所を通って上り下りはあれどもいろんな花を見たり新鮮な風景を見るのとでは、どちらのほうが楽しいでしょうか。
文明の利器で「便利」の追求のために我々がやってきたことは、鉄道や道路を造ったりトンネルを掘って回り道をしなくてすむようにしたり、水道を通して蛇口から常に水が出るようにしたりといったことの延長です。新幹線や飛行機のおかげで短い時間で行きたい所に行けるようになりましたが、途中の景色や自然を楽しむ機会は少なくなってしまいました。東海道五十三次を名所を楽しみながら行くとこは今ではほとんどありません。また、水をいちいち井戸や川から汲んでこなくてもよくなりましたが、命の源泉としての水を通して自然と対話して自然と戯れる機会はなくなってしまいました。
電話やインターネットを繋いで直接人と人が会わずにすむようにしたのも同じことです。これらの文明の利器のおかげで、実際に人に会わずにコミュニケーションすることができるようになりましたが、人と直接会うということに関連する楽しみは確実に減っています。遠くに離れていても話をでき、鉄道や車で簡単に目的地に行けるので、遠方に辿り着いた時の感動や達成感もあまりなくなってしまいました。
残念ながら、今日の社会の構造では、石油をベースとした文明の利器を使わずに生きていくことはできません。しかし、ここで大事なのは、だからといって「楽しむ」ために文明の利器を使わなければならないというわけでは決してありません。また、文明の利器を使ったほうが「楽しい」というわけでもないし、むしろ使わないほうが「楽しい」ケースは多いのです。
このジレンマを解決するのは大変だと思います。しかし、問題解決することもまた人間の知性をくすぐる「楽しみ」の対象であるので、ここであきらめるわけにはいきません。要は、回り道を見つけてその道のアップダウンや風景を楽しめばよいのです。そのためにまず、日々の生活を「楽しむ時間」とそれ以外の仕事などの時間に分けて、「楽しむ時間」を文明の利器に頼らないことから始めれば、生活自体を石油に頼らないためのヒントが生まれてくるような気がします。「楽しい」ということを肌で実感することで、石油に依存しないことに対するアレルギーをなくすことができるのではないか、と考えます。
まず小さなことから。たとえば、テレビの旅行番組を見て旅行に行った気になるかわりに、近場でもいいので知らない場所を探索してみる。ネットのSNSで旧友に再会した気になって当たり障りのないコメントを書くかわりに、実際に会って忌憚なく語り合う。任天堂DSで一人でゲームをするかわりに、トランプや花札や百人一首で友達や家族とみんなでゲームを楽しむ。正月にテレビを見るかわりに初詣に行く。などなど、少し考えただけでもいろいろ出てきます。想像しただけでも楽しくなってきませんか?
