生きることの意味とは
今回は、将来の社会の価値基準を語る上で避けることのできない、そもそも「生きる」ことの意味や目的は何なのか、ということについて考えてみたいと思います。
生物学的には:
遺伝子の組み合わせが司るライフサイクルの生命活動を持続し、(運良く)環境適応に成功した「カラダ」を持つ遺伝子の組み合わせが自らをコピーして遺伝子を残すこと。
色々な遺伝子の組み合わせがその遺伝子を守る様々な形態の「カラダ」をつくりだし、環境に適応して生き延びてきた遺伝子が現在の地球上の様々な生物のそれぞれのカラダに宿っている。遺伝子をコピーすること自体には「意思」はないが、その結果もたらされたカラダには複合的な機能を持つ器官が備わっており、その機能によって様々なレベルで「意思」が生まれる。その最たるものが脳みそであり、高いレベルの意思や判断能力を持ち、特に人間はその高い機能によって生き延び、遺伝子を守ることに成功している。
社会通念上は:
社会のルールの範囲内で様々な行動をし、生きるために必要な衣食住を確保し、最低限の生活以上の余裕があれば趣味や自己実現のために時間を費やすこと。
しかし、この回答の問題は、「生きるために生きる」という無限ループに陥ってしまうこと。このため、そもそも何のために生きるのかという質問の答えにはなっているとは言い難い。また、趣味や自己実現等のために生きるという考えも、そのような余裕がある人はそう言えるかもしれないが、生きるだけで精いっぱいで自己実現ができる環境にない人は生きる意味がないのかということになり、良い答えとはいえない。
となれば、生きることにはそもそも特に必要性や意味はない、という結論にするのがもっともらしく思えてしまうが、それでは自分の存在を否定することにもなりかねない。そのため自己防御の本能が働いて、生きることには何かしらの意味があるはずだ、という方向に考える動機付けになると考えられる。従って、個人レベルでそれぞれの生きる意味を考えるということになり、その答えが出るにせよ出ないにせよ、とりあえず生きていかないことには始まらないので生きていく。この意味でいえば、「生きることの意味を考えるために生きる」といった言い方もできるかも…(笑)。
私的には:
便利でラクな暮らしをするために環境を犠牲にして石油を消費し続けて後々の世代に危機に直面させる、というのは生物学的に遺伝子を残すという目的に完全に反しているので、生きる目的あるいは方向性としてはよろしくない、と思います。もし人類の総意としてもう遺伝子を残したくないというのであれば、それでもいいかもしれないですが、しかしそれではあまりにも自暴自棄であり、遺伝子を繋いできてこられた我々の祖先の努力をないがしろにするものです。
もともと人間は自分がラクな暮らしができればそれに越したことはない、と考えるのは当然でしょう。しかし、そうしたラクな方向に流れやすい人間のサガにも、幸いにも救いがあります。それは、人間の本能として、自分以外の、自分の家族や自分が大切に思う人に対して、自分に対する愛情と同じくらい、もしくはそれ以上の愛情をかけることができるということです。(そもそもはこの本能も、遺伝子が生き延びることに役立ったので、その結果我々が持っているのではないかと思います。)
従って、自分の子どもが将来ひどい目にあいそうだ、という危機感があれば、現在の便利でラクだけれども将来大問題を引き起こすであろうと思われる暮らし方を見直して、将来の子どもたちのためにどうにかしよう、という動機付けになるのではないかと思います。(とはいっても、もうすでにワーキングプアや働きすぎなど色々なところで現在の社会の問題点が表面化してきていて、便利でラクな暮らしを謳歌している人は実際にはそんなに多くはないかもしれません。)
ポスト石油時代を考える際に、ただ単なる「きれいごと」で終わらせないためにも、この「子や孫に対する脅威」という動機付けは非常に重要だと思います。今のままでは子や孫が餓えや戦争で苦しむのは実際問題として高い確率で起こりうるのです。
これらを念頭において、話をもとに戻します。私は、人類というマクロのレベルでは、より多くの人々が平和で安定した暮らしをしてより楽しい人生を送り、それを後の世代にも持続させることが、人類の向かうべき方向だと思います。
同じように、個人というミクロのレベルでいえば、自分や家族、そしてそれを支えるコミュニティーができるだけ平和で安定した暮らしをしてより楽しい人生を送り、それを子や孫やその家族やコミュニティーにも持続できるようにする、というのが人生の方向性として良いのではないかと思います。
私は、この人生の方向性に向かって努力しながら突き進んでいくことに「生きる意味」があるのだと思います。