一日というものがどういうものか | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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              ぼくの「所有」と「存在」                 
                                           
 一日というものがどういうものか、少し判ってきた気がする。それは一つの印象でいいのだった。たとえばきょう、終日ヒヨドリがベランダの手摺で啼き続けていた。いつもの威嚇の声ではなく、悲痛の、痛々しい声で。

 はじめ親鳥は、自分の居場所を知らせるだけの単調な啼き声で、子供は可細い声で それに応え、親と子は声でつながっていた。親は見通しの良い場所に居て啼き続け、 子はそんな親の姿と声に安心してあっちこっちと飛び回り、時には餌も取ってもらっ て、巣離れの最中だった。ついこの間まで、巣から長い首を伸ばして餌をねだってい ただけの雛が、今では一飛び五十メートルの敏捷な翼に---。子供は行動範囲を広 げ、声が何度か聞こえなくなる。が、親鳥はそんな子供に、変わらず声をかけ続けて いた。しばらくすれば戻てくる子供の声だったから。ところが何回目かの飛翔の後、 子供は戻って来なかった。親鳥は声のオクターブを上げ、木の枝で、ベランダの手摺 で、闇が迫るまで啼き続けていた。

 その日、親鳥と子供が巡り合ったかどうかは知らない。ただ、ぼくの部屋に終日響いていた、その親鳥の声。これがその日のぼくの一日というものの印象。
 一日というものが、何かの印象で形つくられていくと思う。
 勿論、何の印象も感じない一日というものも多い。そんな時はたいてい手なれた動きの中にいるようだ。掃除、洗濯、炊事、仕事、テレビを見るといった。

 掃除をして、物たちが生きかえって見える。ステレオの音がきれいになったよう。 花瓶の表面には光が粒となって煌めき、ぼくの部屋に、音と光と風が充満し---。

 と、後から探ってもそれは印象にならない。印象とは、同時性のもの。一つか二つの、初体験なもの。そうした印象だけが、一日というものを思い描かせてくれる。