私対世界の構図 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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私対世界の構図

レヴィナス、ブラッショ、少しも私の死について語っていない、私の周辺の死に対しても、他人の死に過ぎないかのよう、私の死を語ったものはいないのか。核の不安、地球温暖化、食糧危機、絶望的な気分になる。わずか2000年の人の歴史であったと、何億年後化石となって。
世界の悲惨に対して歴史発達的に捉える眼
歴史の悲惨の上に現在があることを
明日には歴史となる現在
レヴィナス、ブラッショの有責性など自明、政治的、イデオロギー的に生きた私にあって、癌と向き合った私にあっての有意味とは。
やはり私対世界の構図の、日々の確認が有意味である。全世界、全文化、全個人、私個人さえも、私対世界の構図でとらえた、日々刻々を、
世界の宗教、大いなる闘いと、大いなる絶望と、大いなる諦めの後、祈ることに向かったと思える人の歴史。
私対世界とは、徹底した個人主義であろう、仏教において、他の宗教において、私への覚悟、私への達観が究極であるように、私とは宇宙の点である、私とは時間という線上の一点の光であると、
アンドレ・コント・スポンヴィル、
絶望を超えて、パトリック・ウィケラティとの対話
「哲学とは、生きることを主題として、理性を手段とし、幸福を目標として営まれる、一つの言語的実践である」
「では人生とは幸福の探求及び実践であるのか、真理か、幸福かと問われれば、真理とするのが哲学である」
「より良く生きるとは、いっそう明晰であると同時に、自身でいっそう幸福である生き方、が、現実であるだけで充分である。生きることで充分である」
「英知とは生きることの単純さ、世界はバラや沈黙のように単純である」
「一人称の哲学、個人とは、身体が在れば充分である」