私が大学生になった頃、ものすごい読書家の父が話してくれた。
「僕の好きな本。カミュ シーシュポスの神話。モーム 人間の絆。ヘッセ デミアン。」
デミアンはあまり好きじゃなかったけど、カミュとモームはぴったり私の中に入ってきて、今も居場所がある。「シーシュポスの神話」は殆ど思想解説書のようで難しすぎて、到底私には理解できなかった。でも、その最終章を読んだ私は思わずにっこりした。ああ、いいなあ、その考え方…。
シーシュポスは神々を愚弄した罪で罰を与えられる。大きな岩を山の頂に運ぶ罰である。しかし、岩はまさに頂に達するとそれ自体の重みで転がり落ちていくのだ。神々が考えた最も過酷な罰は、達成感のない労働だというわけだ。
あらん限り渾身の力を振り絞って岩を押し上げて、何百回押し上げても、転がり落ちる岩。その状況を嘆く日々を越えて、聡明なシーシュポスはある真理にたどり着いたとカミュは考える。転がり落ちる岩を呆然と眺めた後、岩のある山の麓まで下りて行くシーシュポスにカミュは注目する。
ゆっくり乱れぬ足取りで下っていくその時間は、彼だけのものなのだ。いつ終わるとも知れない責苦を嘆く日もあるだろうが、突然射してきた月の光や、足元に咲いた花に微笑む事もあるかもしれない。与えられた罰を嘆くのではなく、そのすべてを、岩さえも自分の所有物としてしまう。今、ここに在ることをそのままの状況で受け容れた時、「かれは自分の運命にたち勝っている。かれはかれを苦しめるあの岩より強いのだ。P170」
カミュは神を否定しているように見えてとても意識していて、そこに触発されます。ギリシャ神話の中のシーシュポスにとっては、神は確かに存在しています。だから、否定というより、神々も運命も「すべてよし」と肯定してありのまま受け容れる事によって、彼は主体を「運命」から「自分」に持っていくことに成功したといえるかもしれません。
「人間が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互に繋がりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてかれの死によって封印されるであろう運命と変るのを凝視しているのだ。」
「ぼくはシーシュポスを山の麓に残そう!…このとき以後、もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけでひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がけるその闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。(最終頁)」