今日はバレンタインデーなので

愛にちなんだ話を。。。

 

クララ・シューマンの伝記は

1846年晩秋から47年の

ウィーン・コンサートツアーの話まで来ました。

 

伝記は右の水色のKindleです⬆️

 

今回はシューマン夫妻と

メンデルスゾーンと繋がりのあるオペラ歌手

ジェニー・リンドについて書きたいと思います。

 

 ウィーンでまさかの失敗

 

このツアーは不運続きで失敗だったようです。

 

前回のウィーン遠征は1837−38年。

クララは結婚前で父同伴。

 

クララの音楽家としてのピークとも言える人気でした。

 

その分期待が大きく、宣伝もせず現地入り。

クララのピアノはそれなりに評価されたものの、

シューマンの作品は冷たくあしらわれがちで

客入りも悪く赤字に。

 

夫婦間のクリスマスプレゼントも買えぬほど追い詰められます。

 

オーストリアの音楽評論家ハンスリックによると、

3回目のコンサートは

観客も多くなく拍手も少なく、

その拍手も作品でなくクララに向けられたものだったとか。

終了後、

クララが冷たい観衆への失望のあまり不満を口にし、

周囲になだめられるも余計にイラ立っていた、と。

 

クララがそんな状態になるなんて

考えられないのですが、

賞賛されたのは自分のピアノだけで、

才能を信じてやまない

愛するロベルトの作品が評価されないことで

怒りが込み上げたのかと想像します。

 

その時にロベルトが

著者のいうところの“決して忘れられない言葉“を

クララに言います。

 

落ち着いて、愛しいクララ

10年もすれば事態は一変しているから

 

 

 ジェニー・リンドとの共演

 

1847年1月10日の

ウィーン4回目のコンサートは、

打って変わって満員御礼。

息苦しいほどの人混みで席が取れない人も。

 

この1回の公演が、

夫妻のコンサートツアーを一気に黒字にしてしまいました。

 

当時大人気のオペラ歌手、

“スウェーデンのナイチンゲール“こと

ジェニー・リンドが共演することになったからです。

 

リンドはシューマン夫妻にとって

救いの天使となり、

再会は喜びでしたが、

クララにとって、

自らの演奏や夫の作品の評価ではないため

苦い思いだったようです。

 

 リンドとの再会

 

クララは4回目のコンサートの前日、

リンドがウィーン入りしたと知り挨拶に行きます。

 

前回メンデルスゾーンのお蔭で

リンドのコンサートの席が取れ

クララは美しい歌声に魅了され、

その後の晩餐会で人柄にも魅了されていました。

 

そのコンサートでは、

メンデルスゾーンが舞台でピアノを弾く予定でしたが、

いつもクララを立てる彼は、

クララを舞台で演奏させたのでした。

 

そのことがあったからでしょうか、

リンドはクララと再会するや否や、

シューマン夫妻のコンサートで

自分も歌わせてほしいと願い出ます。

 

クララの山ほどの感謝の言葉を、

 

それは自分の務めであり

クララのために歌うことは名誉でもあるから

 

の一言でサラッと済ませる気持ちの良さ。

 

やり方までメンデルスゾーンと同じです。

 

きっと、

メンデルスゾーンからも

クララのことを聞いてるんだと思いました。

 

 リンドも愛していた、、、か

 

ウィキペディアなどには、

メンデルスゾーンとリンドには

友情以上のものがあったと推察されるが定かではない

というようなことが書かれています。

 

クララが初めてリンドに会った時のこと、

メンデルスゾーンのリンドへの想いについて書いた記事です⬇️

 

メンデルスゾーンが脳卒中で亡くなる数ヶ月前に、

リンドへ、

アメリカに一緒に駆け落ちしてほしい

それが叶わぬなら自殺すると書いた手紙を送ったと言われています。

(時期的には

ウィーンでシューマン夫妻のコンサートに出演した年で、

その後数ヶ月内と思われます)

 

記録は未公開ですが、

保存しているロンドン王立アカデミーのトップであった方と

フェリックス・メンデルスゾーンの18代目のいとこ(!)にあたる

チェリストのスティーヴン・イッサーリス氏が、

その情報源という記事が過去に出ました。

 

なので、

メンデルスゾーンのリンドへの愛はあったと思えます。

 

ではリンドはどうだったか?

 

クララは日記に書いています

 

彼女(リンド)がメンデルスゾーンについて話すこと全てから見てとれるのは、

彼女が彼を作曲家としてだけでなく

人として彼を愛しているということ。

 

リンドが夫妻のコンサートで歌った中で、

メンデルスゾーンの「歌の翼に」が突出して素晴らしく、

今までで聞いた中で最高だったとも書いています。

 

⬆️「歌の翼に」ハープの演奏と共に

 

その歌は、

彼女が彼を愛しているとクララが感じて

歌の良さを倍増させた、とも。

 

一方で、

クララによると、

ロベルトの「くるみの木」はテンポがまるで違っていて

よくなかったそうです。

(ある意味ホッとする?)

 

 ロベルトの日記

 

クララの伝記には、

同時期(ウィーンだけでなくドイツに帰国後も含めて)

に書いたロベルトの日記の内容もあり、

それによると、

彼はリンドの才能に驚嘆しています。

 

さらに、

 

リンドはクララに自分のことや

打ち明け話をたくさんしている

というのも

リンドはクララを大好きで

クララも彼女の熱烈なファンだから

 

クララと僕はリンドと

メンデルスゾーンについてかなり話をした。

リンドは

彼が最も純粋で洗練された芸術家と語った。

そして

彼女の人生に彼を遣わしてくださった神に

感謝しているとも言っていた

 

とロベルトは書いています。

 

想像の域を超えませんが、

クララでさえ何かを感じ取っていた

リンドのメンデルスゾーンへの想い

(愛にも色々ありますがら恋愛と断定はできませんが)と

ロベルトの記述。

 

打ち明け話だの

(恋バナって思っちゃうじゃありませんか)

メンデルスゾーンを崇拝するようなトークだの、

限りなく両思いを匂わせるような流れを感じてしまう。

 

クララがメンデルスゾーンとの恋愛について

仮に相談されたとしたら、

どうアドバイスしたでしょう?

 

彼女は彼の家族とも知り合いでしょうから、

彼の妻のことも考えたでしょうし、

手放しで応援はできないだろうなぁ、、、

 

ロベルトの日記にはさらにこう書かれています。

 

彼女が言うには、

ドイツで歌うのはこれで最後になるかもしれない

スウェーデンに戻ってスッパリと引退するつもりだから、と。

でも、

メンデルスゾーンの演奏を聴くためなら、

海を渡ってくる、と。

 

伝記の著者は日付を書いていないので、

どのタイミングか不明ですが、

ドイツと書かれているので、

ウィーンから帰国した1847年の2月以降で

かつ、

メンデルスゾーンが亡くなる11月4日までのようです。

 

というのも、

この記述には

*でロベルトによる追記、

 

彼女は2度と彼の演奏を聴きに戻ることはなかった

1847年11月19日

 

があるのです。

“戻ることはなかった“

戻る間もなく亡くなってしまったからでしょうか。

 

なんと悲しい追記でしょう。

 

彼女はすでに引退を考えていたのですね。

理由は不明だそうです。

 

実際には引退せず、

後にアメリカ公演をし、

映画「グレイテスト・ショーマン」にあるような活躍をするのですね。

(この映画を見ていないので、詳細は知らないのです。)

 

バレンタインデーに食べようと取り寄せたメゾン・ド・フルージュの「苺のお菓子箱」。

苺、木苺たっぷりの柔らかしっとりクッキーでした。

 

お読みくださりありがとうございました。

にほんブログ村 音楽ブログ 音楽のある暮らしへ
にほんブログ村