クララ・シューマンの伝記と感想の続きです。

 

 結婚へ

前回

 

クララの父の結婚妨害の中身。

非情さに、

同じ親の立場として許せない気持ちでいっぱいに。

 

その後も

ロベルトの誹謗中傷を関係者にばら撒き、

娘と婚約者ロベルト両方のメンタルをズタズタに。

娘の評判も一緒に下げ、

公演も失敗させたいという父に絶句。

 

この件は名誉毀損で

父は2週間の禁固刑となりました。

 

1840年に裁判所の許可を得て結婚。

 

父とロベルトとの不仲は、

クララの2人への限りない愛と働きかけによって、

1843年に仲直りします。

 

 ロベルトとの生活

 

結婚生活の幸せと共に

父の予想通りの困難が音楽家クララに。

 

ロベルトとの結婚で、

家事が優先に。

 

家にはピアノが2台。

隣り合った部屋にありますが、

壁が薄過ぎてうるさく、同時に弾けない。

 

ロベルトが作曲中は

1時間弾くことさえ叶わない。

テクニックの衰えをクララは嘆きます。

 

ところが、

音楽家としてのクララにとっては

メリットが。

 

ロベルトと、

バッハやベートーヴェンらの作品を

一緒に分析、勉強。

 

ロベルトの知識は豊富で

クララは多くを学びました。

 

テクニックは練習不足で衰えはしても、

アナリーゼのお蔭で、

演奏に深みが出ました。

 

こういった知識を、

後年ブラームスらに伝えるなど

本人にも次の世代にとっても有益だったことでしょう。

 

父が教えて始めたクララの作曲は、

リストらにも賞賛されましたが、

ロベルトの作曲の才能に圧倒されます。

 

比較して

自分はダメだと思い込み、やる気を失います。

家事や子育てにも追われ、

ロベルトの励ましがあっても気は進まなかったようです。

 

 ワーママ

 

ロベルトは、

クララがピアニスト活動をせず、

主婦でいることを望んでいたようです。

 

ところが、

父がまさに結婚の反対理由に挙げていた、

 

ロベルトの収入が少ない

 

ことが逆に、

クララがピアニスト活動を続けられる理由となりました。

 

家庭を経済的に支えるために、

人気ピアニスト、クララが求めに応じて活動を再開。

 

第一子出産後の国外公演には、

子供を預けて

ロベルト同伴で行きましたが、

途中でロベルトだけ家に帰ります。

 

ロベルトは家で仕事をするタイプ。

移動先で作曲などもできません。

クララだけ招待される場もあり、

自尊心も傷つけられ、

うつ状態に。

 

必要な収益を得るために

クララは公演を続行すべきと考え、

ロベルトも賛成。

 

これがワーママの出発点。

 

クララは

ロベルトが心置きなく作曲活動に専念できるための生活費を稼ぎたかったと書いています。

愛のため。

 

ロベルトもうつ状態になっていますが、

クララのピアニストの才能は絶賛していて、

 

妻という身内なのに拍手喝采してしまった

 

と書いていてるところが微笑ましいです。

 

クララが公演を終えて、

ロベルトの元へ帰った時、

(帰宅に合わせ、家の中は至るところ花輪で飾られていたそうです)

夫の姿を見るや否や、

彼の胸に飛び込んでいったと書いているので、

ワーママのスタートが上手くいってよかったです。

 

この後、

ロベルトと共にロシア公演に。

 

ロベルトはひどい風邪を引いたり、

やはり付き添い的扱いを受けるためか、

うつ状態に。

家を離れるのが向いていないようです。

 

ロシアでは、

ピアニスト、クララは大人気。

 

貴族や王室にも非常に歓迎され、

夫ロベルトのメンタルに悪影響。

 

帰国して気力が回復したものの、

またすぐ悪化。

 

悪夢にうなされ、不眠症に。

 

続いて

ロベルトが希望していた

ケヴァントハウス管弦楽団の指揮者メンデルスゾーンの後任に

デンマーク人のゲーゼが選ばれたこともあってか、

 

歩けないほどの神経衰弱に。

 

回復のために、

住まいをライプツィヒからドレスデンに変えました。

 

この精神疾患は、

躁うつ病なのか梅毒による脳障害なのか、、、。

 

当時、日記や手紙を書いていた時は、

ロベルトは梅毒が完治したと思っていましたし、

クララは夫の感染自体も知らない。

 

クララの死後

この伝記が書かれた頃も、

梅毒感染は公にはなっていないので、

その記述はありません。

(梅毒が脳に影響したとわかる病理解剖書は1991年まで行方不明)

 

どちらが影響したのかわからないなぁと思いました。

 

ロベルトが自信喪失した一方で、

クララが書き残した文が印象的です。

 

ロシアからの帰国後、

ライプツィヒでの元の暮らしに慣れない。

全てがわびしく空虚。

我が家で再び子供達といるというのに。

 

ロシア公演の大成功や歓待で、

ピアニストとしての日々が充実していたのでしょう。

 

ずっと先ですが、

ロベルトの死後、クララは経済的理由で、

子供達を引き裂かれるような気持ちで家に残し、

ピアニスト活動を続け、

体力的にも精神的にも大変な生活を続けます。

 

けれど、

クララはお金が十分にあったとしても、

きっとこの暮らしを選んでいたことでしょう。

 

ワーママでいることは

生活費を得るだけでなく自己承認の場でもあり、

音楽が人生と切り離せないほど重要であったでしょうから。

 

娘オイゲニーも書いています。

 

母は音楽か子供かどちらかを選ばなければならないとしたら、

どちらを選ぶのだろうか、と。

 

でもそれは子供を大事に思ってないわけではなく、

彼女にとって

子供達も音楽も同じくらい大事であったということ。

 

オイゲニーの回想録や

他の子供達とクララとの手紙を読んでも、

愛に溢れています。

 

ワーママで離れて暮らす時が長くても、

互いの愛や母への尊敬の念でいっぱいです。

 

一緒にいる時間が長ければ良いというものではなく、

離れていても、

気持ちが通じ合い、家族の団結は築けるのだと、

クララと子供達の手紙は伝えてくれます。

 

 

お読みくださりありがとうございました。

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