本席・存命一つの理(明治三十七年七月二十七日) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 現教団が『おさしづ』を軽んじ、天啓継承の可能性を無視しながら、教祖(おやさま)のひながたの道をたどりなさいと諭達四号で、強調されております。存命の理をはきちがえて、教祖(おやさま)は存命であると言っても筋が通りません。

 

 改めて、存命一つの理について、『おさしづ』にどのような書かれているのか、復習してみましょう。

 

 本稿の参考資料として、植田義弘氏の『おさしづに啓示された理の研究  第一部 天の言葉』(なるほど編集室、昭和52年改訂4版、42頁)に引用された、『おさしづ』を利用します。

 

 本席の声は、本席様が神がかりの状態、いわゆるシャーンのような状態の中での発言を周囲の筆取り人が書き写し、あらためて清書したものです。本人に後から確認を取ったものですが、中には書き損じも有るかもしれません。どんな漢字をあてるか、音声言語、話言葉を誤って聞き取ることもあるかもしれません。

 この点が、教祖が直々執筆された「おふでさき」とは異なります。

 

 神や神霊、大霊など、超自然からのメッセージを聞き取れる方は、ウェブサイトに溢れていて、玉石混交です。このサイトもそんな大海への一滴にしか見えないでしょう。心ある人にお届けします。  

 

 本席様を通じた神の言葉、存命一つの理と同じであることについては、以下の刻限話の最期の箇所に書かれれてありました。

 

 人間側に神意が十分に治まらず、神様はじいっと人間の心を認識しています。現象界における浮き沈みの事態に人間の心は右往左往しています。その中、本当に理を信じて心倒さずに誠の心を立てられるか、たんのうの精神が治まっているかが信仰心として問われるのです。 

 そして本席の言葉は、教祖存命の理と同じであることが改めて明かされているのです。 

 

 教祖や本席様を通じて、人間の肉体や世界は一切、かしもの・借り物の理であること、人間の心通りに神が守護する世界であるという普遍的な真理が何度も何度も語られました。

 そして人間には自由の心があり、その主体性・創造性に喜びの源泉があることが、全人類に普遍的な真理として明かされたのでした。

 しかし人間は心が弱く、形の世界に左右され、真の心の建て替えができません。国際政治の世界でも、NHKスペシャルであるように拒否権という仕組みを作って、一部の大国のエゴがまかり通るのです。 

  

 教祖が存命であることが、本席の言葉が教祖の言葉であることが何度も説かれたのでした。 

 

 お道とは、神直々の言葉を頂き、それにしたがって神の道を歩む、神と人の応答の中で、道が歩まれるのです。

 

 草がしこりて道知れずとは、本当の道を通っていない今の教団体制を神様が預言したものでしょう。

 

 天啓継承の存命の理を真に信じる中に、この道の偉大な役割があり、世界の未来をはぐくむ大責任があるのです。   

 

・・・・・・・・・以下引用・・・・・・・・・・

 

 明治三十七年七月二十七日
 本席身上障りに付願

 さあ/\日を以て尋ねにゃならん日が出て来る。さあ/\日を以て尋ねにゃならん日が出て来る。もうこれ一度どうでもこうでも、どうにも行かんから、一日の日を以て尋ねにゃならん日が出て来る/\。
 皆々よう聞き分けにゃならん。あれこれ取り混ぜの話する。もう長い話ではない。夜が明けたら明かい、日が入ったら暗い事、決まったもの。二つ三つ程の理を諭し置く。よう聞き分けにゃならん。身上どうもならん/\と言うて、日が経った/\。今日の日どういう事諭すなら、皆々これまで餘程の苦労、年限置いたであろ。年限を経た中に、楽しんだ日があれど、苦しみ多い。楽しみは四分、六分は苦しんで居る。ならん/\の日を経った。そこで明らかな事待つであろ。明らかな事待てば、日々に明らかな心を持って、日々運んでくれにゃならん。それはどういう事に思う。どういう事なら、心はめん/\の持ち寄りの心、鮮やかな心に皆々の心治まればよし。一日の日あるによって、日が詰んで了うてはどうもならん。若き者にも、よく仕込まにゃならん。これまで残し置いたる席という。これだけの理諭し、場所とさしづ、これまで時々諭したる事ある。よく心に辨えてくれにゃならん。治まる事もあれば、治まらん事多い。治まらねば、どれだけの事運んでも何もならん。初めは軽き些かな心を傅えて道出けたもの。一時初めから一分始終出けやせん。よく聞き分けてくれ。これまでの道容易ならん道、教え一つの理から年々に道出来て来たる。よう聞き分けにゃならんで。これがいかん、どれがいかん、教え一つの理を放って了て、世界一つの理取り運び、通ろうと思たて通れやせん。餘程難しい。これまでの日を数えてみよ。年限の内一箇年経ったら、これだけ/\と世界映りたで。國々まで及ぼした。世界映し難くい/\と、一寸話して置く。そら何もならんとは言わん。世上の道三四十年以来の道から諭すなら、萬人の中ほんにそれから出来て来た道かいなあと、何處へ行ったとて得心出けんではない、と諭し置こう。成らんと思て行ったとて、さっぱりの日成ってからどうもならん。これまで國々遠く厭わずして出て来る者に、皆諭したであろう。若き者に仕込まにゃならん。柔りこいものは、年寄りも若きも子供も皆々喰うであろ。今席と言うたら教祖とは違うなれど、萬事入り込んでの話すれば、教祖一つ理も同じ事、と諭し置こう。

 

・・・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・・・

 

「今席と言うたら教祖とは違うなれど、萬事入り込んでの話すれば、教祖一つ理も同じ事、と諭し置こう。」(明治37年7月27日)

 

 「詞を失ったものは 草がしこりて道知れず 元の悪因縁に戻る心
  神の残念が見えかける ただ現れた神を 澄んだ心で
  見ることが出来る人間が 誠の思案をする 
  誠の思案の土台は 神の広大な守護に守られて 
  人間心を すっかり落とした魂が 魂の性質から思案する神の心
  そこにかしものかりものの教理の 真髄がある」(平成00年9月25日「命捨ててもの覚悟」)

 

「存命のをやの声 忘れて どんな道もないのやで」(平成●●年7月12日)

 

「をやの道 草がしこりて 道知れず 世界並では 世は治まらん」 (平成■■年7月22日)