「人のもの借りたるならば」(明治7年1月) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

教祖が明治7年1月に書かれた、『おふでさき』第3号のお歌の一節として、以下のものがあります。

 

人のものかりたるならばりがいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり      (III28)

 

「人の物 借りたるならば 利がいるで 早く返済 礼を言うなり」

 

というように、人間関係の貸借において、利息を返すようにという意味でよく解釈される。

 

 ここで、「貸しもの借り物の理」という根本教義の理をより深く理解するには、そのような人間相互間の道徳律の解説では間にあわない。

 

 ヒトは他人であり、自己以外のヒト、他者としての神と見なす必要がある。

 

 ヒト=神 という新たな地平がある。

 

 神様が何ごとも創造され、万物を貸し与えておられる。それが貸しものの理である。

 

 ヒトは神様から何ごとも借りている。己の身体も身の回りの全てが神様からの貸し与えられたモノという考えである。

 

 その神様の与えに対して、人間には理(り)が必要である。この理とは、喜びの心を意味する。

 

 貸しもの借り物の真義が分かったら、即、神様に対して喜びの心、感謝の心が先に出てこないとおかしい。

 

 そうした感謝の心が「返済」だとか「礼」というコトバでたとえられている。

 

 神は親であり、いつでも人間を守護されていて、どんな心でいるのかをいつも見ておられる。

 

不平や不満を抱えて生きているのか、喜んで勇んで生きているのか。

 

 人間が生きていること自体が、神様が人間を創造してきたことの最大の証であり、人間にはいつまでも自由な陽気暮らしをして欲しい。

 

 ところが他国の領土を自分の領土だという人間心により戦争が起きている。

 

 そこには貸しもの借り物の理を知らず、人のモノは自分のモノだという所有観念に縛られ、とらわれている世界の悪理が蔓延している。

 

 このような悪理の掃除として、コロナ禍が続き、戦争も起きている。

 

 しかし、世界の事情は神様が新しい時代を創造させるために見せているという。  

 

 形の姿に、異常な高温が続く6月の末日において、心汚すことなく、神様の思惑を求めていきたい。