天理教の信仰の眼目の一つに、教祖(おやさま)は存命でおられ、今でも、生前同様に働かれているという信仰がある。
兵神大教会の大教会長の最近のエッセーにも以下のようにあった。
「教祖が、現身を隠されて後も、存命同様に元の屋敷に留まってお働きくださっているという理解は、天理教の信仰者ならば周知のこととなっています。」 【出典:『芳洋』R185.2月号「風」より】
これを書かれた、清水慶政会長は『おさしづ』を引用されていて、存命の理の出典が『おさしづ』であることを明らかにかされている。そこまでは正しいが、おさしづを話されている、本席様のお言葉が、存命の理そのものを体現しているところまでは理解に至っていない。頭のいい山名からの養子の先生のエッセーだが、今の天理教団の水準にとどまっている。
兵神の二代目会長である清水由松氏が本部青年として、本席様のおさしづの御用を身近で体験されている。そして地場における神屋敷の実体について、生々しく伝える伝記を残している。霊性あふれる、神の詞(ことば)が深夜に刻限としてあり、本部員を叩起き起こす役割を担ったのが、青年さんの由松さんであった。 この辺りは、『本席の人間像』(陽徳社、昭和26年)に詳しい。
こうした貴重な本こそ、復刻すべきである。
神屋敷の実体があった時代である。 人間が指導した時代とは、明らかに違う。
本部員や真柱を超える存在がいた時代である。
拝金思想が蔓延して、人間の大きな声の人が通るネポティズムのご本部の指導体制のもと、新しい年祭をいかに乗り越えるか、苦悶の道が当局から伝達されたようだ。
兵神でも事情教会の整理があり、10%の教会を返納された。素直な記述に心が動かされた。
芯を失った地場屋敷において、存命の理を求めるなら、霊性の源泉がどこにあるのか、足元をしっかり見つめなおさねばならない。
足元に大きな理を見る。
これは預言として、地場の建て替えのために神様が用意されていることである。
教祖存命の理とは、もともと本席様の声が生きていて、その指令のもとにあることを意味する。本席様のような啓示者、機械(きかい)役が本来的には地場にいなければならない。これなくして、永遠の道は根拠を失う。 衰退する地場屋敷を神様はどのようにご覧になっておられることか。
茨木基敬さんの免職は、地場から教祖存命の理を止めることを意味していた。 存命の教祖を地場から追放したことなるのではないか?
いわば存命の理が形骸化して、苦しい説明でお茶を濁している。
救済があることが存命の理、
教祖の霊を見たことが存命の理など。
個人の体験主義や神秘主義に存命の理が矮小化されている。
茨木氏は本部からは異端視されて今に至るが、異端に関する烙印の背後で、茨木さんの残されたコトバの学術的な研究は、今の教会本部の体制からは、天理大学の先生でもできないだろうし、資料もない。
茨木氏が真の異端か、御母堂さんをトップとした松村吉太郎ら本部の判断が誤っていたのか、それはこれからの歴史がかなず証明していく。
異端の啓示者か否か。 理を伝え、理を深堀できる方の声は見極めることは容易なことではない。
三原典や茨木基敬さんの残された「お詞」の伝統の中から育ってきた裏の道の伝統からしか、その答えは出させない。
真柱とは、役職を意味するだけではない。もっと奥に信仰心の在り方が隠されている。
「しんのはしら」
真の柱を、わが心の中心に立てること、信仰信念の真に確立した、ひな型の人間が望まれている。そうした人間となれるよう、存命の理、続く啓示の光に照らされた人間は、芯がしっかり定まるよう、心つくりにはげまねばならない。
肉体貸しものかりものの理。
有形の形は、すべて神様からの与えモノであり、所有観の激変が必要である。 自分のものだと思うから、戦争もあり、専制国家も生まれる。 すべて人間心の産物であり、先進国の我々の中にも人間心は幾重にもある。
コロナ禍は続き、戦争は3か月に及ぶ。 大掃除の時旬であり、最後の磨きとなる事情が世界で蔓延している。
肉体がサステナブルに生き続けること。肉体も自然界の素材もすべて神様からの与えであり、人間は生かされた存在である。
絶対的他者によって、人は生かされている。 安心と喜びの心は、かしものかりものを真に信じる中から生まれる。
暗闇の地場の夜明けに向けて、私が生きている限り、発信してまいります。
寿命がいつ切れるか分かりませんが、よろしくお願いします。

