天理教には多くの教会がありますが、人から人へと伝播しているのですが、とりわけ大きく布教した人も中にはいます。
天理教の伝道史では、河原町大教会(斯道会系)から分かれた大教会が36カ所もあり、今でも斯道会の別席団参もあるそうで、歴史を感じさせます。
天理教秩父大教会の青年会のブログから。
http://titibuseinen.seesaa.net/article/404601204.html
斯道会(しどうかい)の設立は、明治17年で、教祖がご在世の時でした。
天理教への迫害弾圧が激しく、教祖が監獄へ収監されている明治17年に、弾圧をも覚悟して、講社の設置を神様に願い出る真実の人たちもいたのでした。
神様の預言通りの本当に大きな信徒を拡大しました。その教祖の預言の「おさしづ」は記念碑的な神の詞だと思われます。
たった一言ですが、それは斯道会の盛大な発展をへとつながったのです。
天理教越乃国大教会史料編纂部 編『おさしづ』(昭和13年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1034618
の本文1頁にありました。深谷源次郎さん(河原町初代)と宇野善助さん(越乃國初代)たちが教祖(おやさま)にお伺いを立て、お許しがあったとのことが、以下引用する教祖伝逸話編にも掲載がありました。
3月上旬といわれますが、3月24日から4月5日に教祖は監獄に収監されておられました。
明治15年から屋敷住まいをされていた飯降伊蔵様もこの時期、言上の伺いの御用されていて、その「おさしづ」とも大変似ているように思いました。
http://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/315552615.html
より以下、転載
稿本天理教教祖伝逸話篇一四一 ふしから芽が切る
明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に 京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖(おやさま)にお目通りしてお許しを願った。すると、
「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん。 さあ/\このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。 だん/\だん/\これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、という。」
とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから、」と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、
「さあ/\/\真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあさあ今日よりさあ/\埋んだ。さあ/\これからどれだけ大きなるとも分からん。さあ/\講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という。」
と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実 は、親神様にお受け取り頂いたのである。
「さあさあ、これからどれだけ大きなるともわからん。」は確かに実現しましたが、さらに世界に広がる種がまだまだ埋まっているかも知れません。

