「言葉、これが第一道の寶やで。」(明治40年6月6日)ー真柱はいかに受けたか? | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

SNSで情報が飛び交い、何が真実で、何がフェイクなのかが日々問題となっている。

 

虐殺があったのか、なかったのか。

 

そこには言葉の信頼性に依存する我々は社会の在り方、秩序が関わっている。

 

教祖(おやさま)が始めたこの道は、一人の女性が発した神の言葉によって始まった。

 

そのお言葉を真実と受け入れるか、軽く扱うか、信じるか。逆に疑うか、反対するか、弾圧するかは人間次第であり、

人間の自由にゆだねられる。  今でも世界でも数%以下も信徒がいない。

 

この道はじまり、まだ184年目である。 

 

人の心から他人の心に神のお言葉はいかに伝播したのか、しなかったのか。

 

天理教という一つの公認の宗教団体の始まりは、たった一人の女性に宿った神の言葉からすべて始まり、

 

その天啓は文字となり、言語化され、万人に普遍的に公開されている。 

 

神秘もなく、世界共通に理解できる啓示録(みかぐら歌、おふでさき、おさしづ)がある。

 

一つの新しい理念が社会に広がるには、当該社会の既存の常識や秩序を超え、あるいは破壊しないといけない。

 

それゆえ、迫害も弾圧もある。あるいは、戦争まで起きる。

 

西洋の民主化という理念を求めるウラクイナ。

正教の霊性にもとづき、専制主義で国家を統合するロシア。

二つの理念のぶつかり合いが、戦争となった。

 

このような世の中、悪しき世の中の在り方を正すために、この道が天保9年(1838年)に創始された。

 

人が人を支配するのではなく、神の理に基づく社会に立て替えるために、

神は一人の女性、特定の地で、特定の時に見だめて、この道を始めた。

 

女性一人でできるものではない、まずは夫や子供たち、その孫に理解してもらう必要があった。

 

夫の中山善兵衛さん。 嘉永6年(1853年)に出直されたので、天保9年から15年間、人間側の代表として神意を受けられた。

世間体もあり、封建末期の男尊女卑の社会で、妻の神がかり現象、その妻からの神の命令に従えるだろうか。

貧乏神に夫は辟易しただろう。親族から見離され、母屋の売却もあった。  

ただ夫婦で寄付した歴史的な資料もどこかで発見されたらしい(熊田氏のネット資料、今はない)もあるが、全面的に妻を支えたとは到底思えない。むしろ刀を出して、キツネつきを退散させようとしたくらいである。教祖も身投げされたほど、精神的に追い詰められた史話が残る。 これだけは言える。善兵衛さんは100%信じたとはとても言えない。 

神の言葉が宝だとは思えなかっただろう。

 

 

  長男の秀司さん。文政4年(1821年)生まれ。天保9年(1838年)には、17才である。その時に、母親に神がかあり、豪農が転落する中山家の姿を最後は戸主として、懸命に支えた。老母が下す「おふでさき」を彼が全面的に受け入れた気配はない。 むしろ既存の寺社の伝統に中にいかにうまく整合させるかという対面に一筋になったことがわかる。 明治14年61才で出直された。教祖の迫害の中をもっとも辛苦の中で戸主として支えた人生であった。 彼も、神意を、そして神の言葉を宝だとは決して思わなかったと思われる。

 

 

そして初代真柱となる、中山新治郎。彼こそは、生まれた時から、その魂が予告され、外孫の梶本家から中山家に養子として入ってきた人である。明治13年に中山家にはいってきて、教祖と生活を共にする。明治15年に中山家の家督を継いだときは、16才であった。この時からから大正3年12月31日に出直すまで、天理教への弾圧、そして信徒の爆破的な勢力拡大の激動時代を見た人である。明治末から大正期には信徒が600万人とも言われた時代である。

 

人類の代表:眞柱

 

「おさしづ」は刻限話を中心に、その受けては、外ならなら、初代真柱であった。神の言葉を最初に受け取るのが、真柱の役割であった。

人類を代表して、神の言葉を受けるのである。  

 

何度も何度も、本席の啓示に接したのが、初代真柱であった。その本席が亡くなる直前の言葉が、

 

「言葉、これが第一道の寶やで。」(明治40年6月6日)

”Words, This is formost the Treasure of this Path. ” (June 6th, 1907)

 

であった。 彼がどれほど神の言葉を重く取ったのか、とらなかったのか。

本席様が残された『100日さしづ』の研究が待たれる。宝のもち腐れとなっている、

 

上記は以下のさしづの中からの抜粋である。

 

「明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後二時
 本席身上苦痛激しくに付、 教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭

さあ/\/\/\、さあ/\又候々々、同じ事を/\今度という今度はもうなかなかの思わく。十分理纏まったるによって、もう話掛ける/\。前々同じ事返してある。これが第一。あちらでどうこちらでこう、言葉という理多かってはどうもならん。そこで言葉の理纏まる。先々の先の先まで定まったる。言葉、これが第一道の寶やで。寶まで諭したる處、これやり遂げにゃならん。所々は暫し一つの寶が分かったと、これだけくどう/\言うて置く。偉いものやと世界から一つ、これは諭し一つの理で、心から供えてくれる日があるによって、しっかりと聞き取ってくれ。
さあ/\日々もうこの苦しい中から、どうでもこうでも諭し掛けた道は諭さにゃならん。昨日より今日どうこう思う處、思うは理なれど、どうでもしん一つ心の事情から、皆々の心に一つ理映してくれにゃならん事である。これをよう取損いあってはならんから、これを取損い無いようにしてくれ。」

 

 

 

 

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