軽自動車の白ナンバーがむず痒い派、でもある。
いま仕事と生活の拠点になっている東京や神奈川車で乗っていると、やたら目に付く気がするのが軽自動車なのに白ナンバーにしている車両。それに、いかにも「これが良くて指定しました」という数字の並びになっているナンバープレート。
近所に、「は19-19」とかのナンバーを付けたそれなりに高そうなクルマがとまっていて、その所有者がたぶんシティーハンターの冴羽りょうのミニクーパーのナンバーが「あ19-19」だったのに影響を受けているんだろうな、世代だな、とは思うものの、どうしても微笑ましい気持ちになれない。
これらは、人のクルマなのでどうでも良いといえばどうでも良いのだが、じつはけっこう大きな問題というか議論の余地を孕んだテーマだと思っています。ひとつずついきます。まず軽自動車白ナンバー問題について。
これは高速道路で出会うとかなり緊張させる。
普通車が白色で軽が黄色であることは、この制度が設計された当時に意図されたされていないに関わらず、そのクルマの性能をおおまかにでも、間違えようなく表すサインとして交通の安全に寄与していると思う。
たとえば、高速での合流や車線変更のときにバックミラーやサイドミラーに映る後方車両の挙動を正しく予測して自分のクルマをどう操作するか判断しようとするとき、自車と他車の動力性能のちがいはザックリとでも瞬間的に把握できないと危ない。
「やつの加速はさらに伸びるのか?そうでもなさそうか?」
たとえ危険がなくとも気をもむことになって疲れる。だから最大660ccなりのパワーしかないのに普通車の顔をして走るのはやめてほしいと思っている。
これは例えば、上司から一緒に組んで仕事をするように言われた若手が、顔合わせのときに「彼はアレも経験しているし、コレも経験していて、うちのエースだから!」と上司に紹介されていたのに、じっさい仕事をしてみたらヘッポコすぎて完全に一から十まで指導しなきゃいけない案件だったのと似ていて、仕事場での能力評価の話しであれば、「部下のスペックを正しく伝えてくれないと正しい役割配分ができずに困りますよ。現場で俺が走ることになって足くじいちゃったじゃないですか」くらいに文句を言えば済むのだけれど、車と車のあいだでそういう事がおきるとそれは即ち事故なのであって、看過できない。
ちまたでは「これまで黄色が恥ずかしかったけど、白ナンバー付けられるようになってから引け目を感じることもなくなってうれしい」、とか「愛車の軽オープンの車体の色に黄色が合わなかったが、白ナンバー付けたらキリっとした面構えになってうれしい」、とか諸手をあげて喜んでいる向きが多いように思うが、バカじゃなかろうかと思う。黄色だと恥ずかしいとか、ナンバーの色が車体になじんでうれしい、とか。
そういうひとたちはなんと言うか、クルマのことをなんだと思っているのか、分かる気がする。
で、そういうひとたちが多いと感じるということは、この世のなかがクルマというモノを評価するときの軸というか物差しがなんだかずれてしまっているように思えて寂しい。
クルマは、そのクルマがプロダクトとして優れているなら、そのことが喜ばれるべきなのではなかろうか。
そのクルマがチャーミングなのであれば、他に何か必要なのか?と思う。
ナンバーの色くらいで気分が上がったり下がったりするということは、そのクルマそのものがひょっとして語るに足らないプロダクトなのじゃないか?違うのかな。
続いてふたつめ。「ナンバーの数字を指定したい人問題」。
「黄色恥ずかしい問題」が長引いたので簡潔に所見をのべると、
(こればかりは人にどうこう言われるいわれは無いという向きもあろうし、異論も多いと思いつつではあるが)
おおまかに言ってそういう人は、人事を尽くして天命をまつ、というか「おまかせにする事の豊饒」を知らないのかもしれない。
日ごろ一生懸命やっていて、もうこれ以上心を尽くせないと思えるほどやれることをやって、それでもなおコントロールの及ばない事は残るものだけど、そういうときはあとの成り行きをお任せにしていると、なんだか何かのお導きのようにしてものごとがまとまる事がけっこうある。というか自分の場合いつもそうだ。
そういうふうに生きていると、クルマのナンバーなんてお任せにしたくなる。「そこで出た目がいまの自分が受けとる答えだよ」、と思う。



