クルマにまつわる記憶を泳いでみる。
乗る日も乗らない日も、車庫の206を見ながら毎日思う。
「むかしはこういう実用車が日本車にもたくさんあったのに、、。」
昭和が終わった年に中学生になったわたし。
母親がどんなクルマに乗っていたのか思い出せる限り記憶をさかのぼってみると、スズキ・キャリィバン→スズキ・ジムニー→ダイハツ・ハイゼットバン、これくらいで小学校3年生くらいにはなっていたような気がする。
軽のバンの後部座席がそのころの自分の定位置で、出かけるときに重たいスライドドアを開けて見ていたこの景色が懐かしい。
冬のクルマのなかは外気と同じ冷え冷えした空間で、ペナペナの冷たいシートがちょっと苦手だったけどそういうものだった。
母親がキコキコ動かす丸いシフトノブに刻まれていた1-2-3-4-(5あったのか?)-Rの表記の意味を聞いてみたことがあったけど、その説明に納得できたという記憶はないし、いま自分の娘に聞かれて説明をしてみることがあるが、やっぱり子供には伝わらないものらしい。
一皮むくと鉄板、スプリングむき出し、というつくり。これで「貧乏くさい」とかいう世の中じゃなかったのが良い。
(それと同時進行で、父は父で通勤車にカムリ→クレスタ→クラウンといったいかにも昭和の終わりらしい乗り継ぎ方をしていた。なのだが子供にとって家にいる親と言えば母親で、朝早くに父とともに車庫からいなくなり、起きているうちには帰ってこない父親の車にはついぞ親近感というものを持つことがなかった。)
もう細かいことは忘れてしまっているけど、それより前にも親たちが何台か乗り継いでいたのは確かだ。家のクルマにまつわる最初の記憶は、まだ幼稚園にあがってもいない頃の自分がクルマの後部座席で泣いているというもの。それは夕方、家族で買い物から帰ってきて車庫に入れたクルマの中でのことだった。とくに泣く理由がないのに泣けてしょうがなかったことだけは覚えている。家族はみんな買ってきた荷物をもって家に入ったのに、自分だけ残ってそこで泣いていた。
自分が子供をもって「黄昏泣き」というのがあることを知ったいまは、暮れていく世界の色みが赤黄色っぽく変わりながら明るさを失っていく感じとかがなんだか物悲しくて、それだけのことで泣けて泣けてしょうがなかったんだろうな、と思う。
その時はなぜか、家に入った母親がさっと作ったらしい味噌汁の入ったお椀を姉が「これ飲みな」と持ってきて、そのお椀の温かさとか火が通ったばかりの玉ねぎの甘さで気分が変わって泣き止み、クルマの中でその味噌汁を飲み干した。そして、ちょっと気恥ずかしい気分で姉の後をついて家に入り、その一件は終わったのだった。以来玉ねぎの味噌汁が大好物になったのだけど、あれは私がもともと好きだったのを「これを飲ませりゃ気分も変わるだろう」くらいに考えた母親が作ってくれたのか、そんな考えも無くただ味噌汁を作ってよこしたのか、いまとなってはわからない。
味噌汁を飲んだクルマはなんだったのか?車高は高くなくて、セダンだったのかハッチバックだったのかはわからない。白かベージュのクルマだったかな。でも味噌汁を持った姉が玄関を出てきて後部座席のドアを開けたので、5ドアだったことは分かる。はたして追求できるものなのか気になって、実家から持ち出してあった幼少期の写真を引っ張り出して調べてみた。
そうして出てきたのがこの1枚。ホイールキャップのTのロゴでトヨタだと知れる。
「70年代」「大衆車」「トヨタ」などのキーワードで検索して2代スターレットだったと分かった。
初めてまじまじと見るが、かっこいい。
1300cc 車重730kg。ヨーロッパでの長距離テストではリッター30km以上走ったらしい。そうだろうな。
もう一回、これをこのまま作りなさいよ、と思う。
ちなみに、
小学校も4、5年生になると母のクルマはターセルの5ドアハッチバックに変わり、その後コルサとかカローラⅡを乗り継いで60代の後半からは再び軽自動車に戻っていった。
大人になった今でも小型ハッチバックが一番ピンとくる自分の感性は、どうやら母親の車歴によって培われたらしい。
こうして振り返ってみると、つくづくクルマというのは時代の空気とか国の盛衰とか世の人々のセンスとかの諸々が結晶して生まれるものなんだな、と分かる。むかしは良い大衆車、つまり虚飾のない、見栄っ張りには乗れないクルマが沢山あって、ちゃんとそういうクルマを選ぶ実直さが庶民の側に備わっていた、ということなのだろう。







