ターミナル猫。

 この想いだけが、抑え切れずに、ひとり悶々とさせる。

 

 昨日の午後、何をしていたかなんて知らない。そんなことはもう忘れた。思い出せない。

 そういえば、道であの娘に逢った。でもあの娘はまだ三面犬のことは知らないだろう。直に知る時が訪れるとも知らずに。のほほんと笑っていたっけ。遠い昔のように。

 

 

 道で三面犬に出くわした。顔が三つあるが、胴体はひとつだ。なんてイカシタ犬だろう。私は犬に声を掛けた。

 「ハウ、アール、ユー。ご機嫌いかが?」

 すると犬が答えた。

 「アイム、ファイン、サンキュー。アンド、ユー」

 私はそれを無視して犬に言った。

 「君は言葉が話せるのか?」

 すると犬が答えた。

 「だってそう思ったから、聞いて来たんだろ。おいおい、しっかりしてくれよ」

 それを受けて私は答えた。

 「人間は、相手の動物が人間の言葉を理解していないと分かっていても、人の言葉で話しかけるものなんだ」

 「でも日本人がいきなり犬にヘタクソな英語で話しかけるのも稀だと思うぞ」

 「確かにな」

 私たちは暫しのあいだ路上でそんなことを話し合っていたのだった。

 「それにお前の眼には俺の頭が三つあるように見えているらしいが、実際に俺の頭はひとつしかない。第一、犬に頭が三つもあるわけがないだろ。ケルベロスじゃあるまいし」

 「そんなものなのか。私にはどうしても頭が三つあるようにしか見えないのだが」

 

 「人間は仲間を作りたがる。同じ餅でも、仲間の作った餅の方を食べたがる」

 「それは犬も同じだろ」

 「さっきから言い聞かせているように、我々はただの犬ではない。友人や恋人の捏ねた餅であっても、我々は本当にうまい餅しか食さない。そこが君ら大雑把な人間たちと違うところだよ」

 「お前がそんなことを言うとは意外だな」

 「そうか?」

 「ああ。顔が三つもあるくせに。よくもそんなことが言えたものだ」

 「さっきも言ったように———」

 「まあ、いい。少し疲れた。それに腹も減った」

 

 

 

  公園の脇にクレープを売る車の屋台があった。

 「クレープでも食いながらそこのベンチに座って暫く話さないか。ここでずっと立ち話しをするのも野暮だし。それと、俺はグレープ味でいい」

 「犬もクレープを食べるのか」

 「たまには甘いものもいるだろう。世知辛い世の中だしな」

 犬はしたり顔で言った。

 

 

 「君らは何もわかっちゃいない。我々は、私とここまでの話しが出来るようになるには、君らの世界だと何年も月日が要るだろう」

 

 

 

 犬は最後にそう言い残すと、勝手にどこかに行ってしまった。

 

 

 私は犬を追い掛けていくべきだったのか。でも考えてもみてくれ。大のおとなが、犬を追い掛けるなんて実に滑稽だとは思わないか?

 

 

 

 

 

 緑色の瓶に入った酒を飲むと、普段見えなかったものが見えるそうだ。

 そこに教会を建てることに決めたそうだ。そうしたら、泉が沸いたんだ。

 でも決して人に言ってはいけないよ。それはここだけの秘密だからね。

 その穴を除いてみるんだ。何が見える?言ってごらん。そうだ。それだ。

 参面犬。その犬は君が見れば面が三つある犬であるということなのだ。

 参面犬。その犬の正体は不明である。ある日突然出会う運命にある。

 参面犬。その犬の正体は今もって不明である。しかしそれは実在する。

 

 

 

 ターミナル猫。

 

 

 

 あそこに変な女たちがいる。固まってなにやらヒソヒソと話し込んでいる。時折私の方へ指を指してはクスクス笑い、またすぐに大人しくなり、ヒソヒソ話しになる。その内のひとりのおなごは、可能ならば是非とも仲良くなりたい美しい容姿をしている。だが不思議なことだ。その彼女だけが私に自然な微笑みを向けているのだ。他のふたりは防御線を引いているのがここからでも解るが、彼女には防御線は無かったし、あったとしても他のふたりよりは極めて希薄なものだ。見ていると、私の中で彼女の呼び名が自然と分かってしまった。その名はターミナル猫。理由などない。どうしてそんな名前が浮かんできたのかとか、私にも分からないのだから。ただ分かっているのは、彼女の名前がターミナル猫ということ。それ以来、私は彼女をターミナル猫と呼んだ。

 

 

 

 

 

 その数日後に、私はターミナル猫となった。だけどそれ以来、私を見掛けなくなったみんなは、私が死んでしまったのだと思った。

 

 

 

 

 

 私は何もその女と仲良くなりたくてターミナル猫になったのではなかった。ただ、彼女の目線で物事を見たかっただけだ。それなのに、私の存在はこの世から抹消され、やはりターミナル猫などではなかった彼女だけが私の前から立ち去り、そのことで初めて私は彼女がターミナル猫などではなかったと気付いたのだった。その後も、私はターミナル猫のまま街中を彷徨った。幾日も彷徨った。雨の日も、風の強い日も、暑い日も、雪の降りしきる日も、雷鳴が轟く夜もだ。何か目的があってそうしたのではなかった。ただ当てもなく彷徨い続けた。誤解して欲しくないのだが、何も女々しく、ターミナル猫と勘違いした彼女やその面影を求めて彷徨い続けた訳でもなければ、世を捨てて隠者になったつもりでもなかった。ただ単に、純粋に、ターミナル猫として他に行き場が思い付かなかったから、毎日毎夜、知らない街や知っている街を含めて昼夜問わず彷徨い続けていたに過ぎない。ただそれだけだ。しかし彷徨い歩いている中で、私は記憶や心を空っぽにすることなど不可能な話しだった。何かを見ては、その都度、その時に私の中に訪れた既視感に襲われ、回路が繋がれば、それは時間を遡り、私の更に内奥にある別の回路へと結ばれていった。そんな時のある曇った日の午後に、私は突然あの奇妙な男のことを思い出してしまっていたのだった。一度思い出したらもう二度と、忘れ去ることは出来なかった。一体何を見て私はあのイカレタ男を思い出したのだろう。それすらも、今となってはもう私には知る術はなかった。確か場所はあるカフェの前だったと思うが、街にはカフェは沢山あった。そしてどの街での出来事だったかも定かでない。ただカフェの前で、突然不意にあの男のことを思い出したということだけが、あの男を唐突に思い出したことと関係するであろうと思われる、唯一の共通点であったのだと言えなくもなかったというだけのことだった。

 「君は知っているかね?」

 見ず知らずの男が、ターミナル猫となって舗道を歩いている私に近寄り、いきなりそう話し掛けて来た。私はこの男には私の存在がわかるのかと思い、半ば信じられない思いでまじまじと見知らぬ男を見つめた。すると男がそんな私の様子など意に介することなく、先を喋り出したのだ。

 「タイムワープは実在している」

 「はあ」

 私は気の抜けた返事を返してしまっていた。男が何を言いたいのかということもあったが、その前に、男が何を言っているのかが呑み込めなかったからだ。

 「言っている意味が解りませんが、何か困り事ですか?」

 私は紳士らしく、見知らぬ男を慮り訊ねた。もしかしたら外国人かも知れない。もっと他に、本当に話したいこと、伝えたいことがあるのに、この国の言語を知らないが故に、適切な言葉を使えないでいるのだ。

 「もし宜しければ、この先の駅前にポリス・ボックスがありますから、そこで訊ねてみてはどうですか?」

 私は他人に親切にしている自分自身に満足しながら、この国の言語を知らぬ外国人らしき見知らぬ妖しい男に向かって、この国の言葉を使って丁寧な物腰で応えていた。但し、交番と言えば良いものを、どういう訳かポリス・ボックスと言ってしまった自分の抜け作的な箇所はとっとと忘却の彼方へ追いやることにして。しかし、見知らぬ男にとってはそうもいかなかったらしく、逆にその単語に衝撃を受けたようだった。何故なら男はこんな事を口走り出したからだ。

 「交番?それはまずい。公安も奴らの仲間かも知れない。否、きっと仲間だ!」

 「奴らって誰?」

 私は相手が共通の言語を知る者であるらしいのを知り、変なことを言い出した男に向かい、猜疑心の入り混じった口調で問うていた。すると見知らぬ男は辺りを素早く、だが何気ない風を装い見回すと、ターミナル猫となった私の肩にそっと片手を置いて言うのだった。

 「すまない。いきなり赤の他人がこんな事を言い出して驚いただろう。今言った事は全て忘れてくれ給え。ただの酔っ払いの戯言なんだ」

 男はそう言い終わると、私の顔をまじまじと見た後、咄嗟に私の横を通り過ぎ、私が歩いて来た方角へと歩み去って行ってしまった。私は訳が分からず、暫くその場に立ち尽くし、遠ざかってゆく男の黒いハーフコートの背中をただ黙って、見送りでもしているかのように小さくなり、見えなくなるまで食い入るように見つめていたのだった。

 私は再び街中を彷徨い出したが、その後はずっとあの男の事が頭から離れなかった。あの最後に私をまじまじと見たあの男の眼や表情は、気狂いには見えなかった。酔っ払いにすら見えなかった。だが言っていることは明らかに気狂いだった。突然見ず知らずの男、否、ターミナル猫に向かって、タイムワープは実在していると言い出す始末なのだから。何か秘密結社に追われているSF映画か小説の主人公にでも影響を受けた、はみ出し者のひとりだろうくらいにしか思えない。だが考えてみればこの私だって今ではれっきとしたはみ出し者の仲間であるのだ。以前は違っていた。私は誰が見てもまごうことなきひとりの人間であったのだ。それが今ではターミナル猫だ。何故私はターミナル猫になったのだろうか。彼女の影響だ。だが彼女の所為にするつもりはない。私が勝手に自分の意志でターミナル猫になったのだ。誰の所為でもなければ、ターミナル猫になったからといって悲嘆することなど何もないのだ。ただ以前の様な人間ではなくなったという、ただそれだけのことで、そしてそれと共に、一種の郷愁に似た想いが、晩秋の、冬の予感を感じさせる隙間風のように、時々私の小さな胸を通り過ぎてゆくだけに過ぎなかったのだから。

 私は今現在、あの時の男の事を思い出していたのだった。実際にあの男が狂人であったとして、それで一体何の問題なり不都合が私なりあの男なりにあるというのか?狂っていた方が生き易い世の中なのは言うまでもないことだが、私にしても、特に迷惑だったわけでもなかったのだから。寧ろ見知らぬ奇妙な一人の男について、街を彷徨い歩く際には事欠くこののない考察をひとつ増やしてくれたのだ。それで私はあの男の事について色々と勝手な考えを巡らしてみることにしたのだ。タイムワープは実在する。確かに。それは私も知っていた。ただあの時は、見知らぬ男から急に道端で、しかもターミナル猫とった私に向かってほざき出したのだから、訳が分からなかったまでだ。世界には、無数の時間の線が存在するのだ。だからあの男も、きっとその内のひとつからタイムワープしてきたに違いない。そして追っ手がかかっている。追っ手は既に、あの男が私に言った通り、警察の上層部と懇意な関係なのかも知れない。或いはまた、私がまだ人間だった頃、あの一見、日々平和そうに映っていた近所の公園の、住宅街の中を通る路上で遭遇した、あの三面犬のことだって知っているかも知れないのだ。或いはもう既にお互い自己紹介を済ませ、信頼出来る関係を築いているかも知れなかった。もしそうなら、あの犬、あの三面犬は、あの男に、昔、グレープ味のクレープを奢ってくれた私のことを、何かの話しの折りにでも話してくれる事だってあり得るかも知れない。だがあの後すぐに別れた、というよりは、犬の方が勝手に、クレープを食べ終えると、奢ってくれた礼一つ言わずに私の前からさっさと去っていってしまったのだが、もしもあれから三面犬と親しい仲にでもなっていたのなら、私はあのタイムワープして来た男とまた何処かで会うことだってあったのだろう。しかし現実にはそうはならなかった。私は彼女のあの類稀無き魅力に圧倒され、支配された。それから私はターミナル猫となった。だがターミナル猫となってからはじめて私は知った。彼女がターミナル猫ではなかったことに。それで私はターミナル猫そのものに興味を抱くようになり、やがてそのようにして生きて来た。そして私は事実上、彼らの世界から存在しなくなった。だが偶に私に話し掛けてくる者がいる。その中でもあのタイムワープして来たであろう奇妙な男は特殊なケースだったが。今日も街中を彷徨っていると、私の存在を認知する者がいる。だがあれ以来、三面犬との邂逅はもうなかった。きっと三面犬は私の知らないところで、彼を認知できる相手に何かを奢らせているに決まっている。晴れた日の、ある住宅街にある公園のベンチか、街中の、人混みで賑わう商業施設にあるベンチにでも座って、グレープ味のクレープでも齧りながら、訳知り顔で取り留めのない話しでもしているのだろう。しかし彼女は三面犬と会った時、きっとこう言うに違いないと私は確信していた。

 「まあ、かわいいわんちゃんね。どこから来たの?」