私は少女に問わずにはいられなかった。やはり少女は、私が愛した彼女のことについて何かを知っているのだ。そう思うと私は感情が昂り、理性がそれを抑え、また再び、今度は感情以外の何かが高まるのを感じずにはいられない状態の中にいた。まるで底無しの何かに向かって投げ出されたあるものが、必死になって這い上がろうとする内に、別の底にいたことに気付いたかのようにだ。もしかしたらそこにあいつがいる。俺もその底無しの観念のような何物かの内側へ向かえば、そこに彼女がいて、また再び出逢えるかも知れない。しかし今のままでは駄目だ。言葉で目の前の少女に諭さなければいけない。俺はそういうのは苦手だ。君は私にとって救世主になるかも知れない存在だ。私を救ってくれたまえ。そうしなければ、私は、もう本当に気が狂いそうなんだ。お願いだ。この家から出してくれ。すべてを私に話してくれれば、私はもうこの家にいる理由など無くなる。早く彼女のいる場所に行かなければいけない。もうこんなところになど用はない。それでも君はまだ、奴らと手を組んで私をここに幽閉する為に、暗示を掛け続けるのか。一体何の為に?そもそも君は一体誰なのだ?何故こんな茶番を続けて来た?俺にはとっくの昔からそんなこと、気付いていたというのに。この少女は何者だ?私の彼女と一体どういう関係なのだ。知っていることをすべて話すんだ。秘密にする理由など何もない筈だ。そうだろう?
「君はやはり知っているんだね。僕の彼女のことを」
私は辛うじて組立てることが出来た言の葉を、無害な声帯の振るわせ方でもって淡々として少女に訊ねていた。少女は握っていた私の手を離した。するといつの間にか胡蝶のような不思議な飛来物が少女の後ろをジグザグに飛んでいるのに気付いた。先と同じ蝶だ。だがただの蝶ではない。それはまるで少女の意思を継いだ魂の一部のように見えた。
「知っている。私と同じ時代の人間だからだ」
少女は揺るぎない樹木のように確信に貫かれた鋭い声で答えた。但しそこには先ほど私を否定した感情の昂りはなかった。平静さを取り戻したのだ。私の手を離してからは、その表情にはある種の余裕さえ生まれていた。まるで私のことなど遠い昔から見透かしていたかのように。
「でも本当は何も知らないのかも知れない」
少女は心に病を持った人間にしては、相手をはぐらかすようなことを言い出した。私は隣りに腰掛けている少女の横顔を見つめ返した。
「まだ彼女に逢えるんだね」
「逢える」
「どこで逢える?彼女は今この同じ時代に居るんだね。一体何処に行けば彼女が居るんだ。教えてくれ」
私は少女の手を握り締めていた。少女が痛がっている。私ははっとしてその手を離した。桜の花弁が風に吹かれて散っている。幾つかのピンクの花弁が彼女の髪に落ちる。此処はどこでもない世界。二人がいるのは収容施設の敷地内にある公園ではなく、無限の蒼穹へと続く未知数の大地だ。私はこの同じ時の中で、彼女の生存を知った時から、此処は無限の可能性を秘めた特別な場所として、私の中に位置付けられた空間になっていた。しかしそれとは矛盾することに、私はこの場所を出なければ彼女には会えないのだ。ただ彼女のことを知っているという、ベンチの隣りに腰掛けている、ここで知り合った少女から彼女についての情報を聞き出すことに生きていく術を見出している憐れな自身の像を、散っていく頭上を覆う桜の枝に覆われた古い樹木に投影するような感覚を不図覚えることにある種の慰めを見出そうとしている生活が続き、それが当たり前になっている日常が日毎に私を彼女から遠ざけているという事実にただ愕然としながら、私はここから出る案を誰からも悟られずに模索していたのだ。
私は夜眠っている時に、夢のなかで過去の事をフラッシュバックすることがあった。あれはまだ彼女に会う前の世界、私にとってはつまらない、刺激に欠ける世界だった。だがそれでもそこにはある種の安定した生活があった。漠然とした、予測不能な未来に対して、取り敢えず今の事を続けていれば、10年後や20年後も今と大して変わらないのだという事実を私は半ば受け入れて生きていたのだ。酷くとも今より悪くなることはないし、仮になったとしても、それは個人的なことではなく、世の中がそうなったから俺もそれに巻き込まれたのだという、同じ時代を生きる、いま生きている世界中のすべての人間、この国のすべての人間たちと同じなのだから仕方がないという保険のような考え方の出来る生き方をしていた。運命共同体というやつだ。同じ社会の中で、あなたや君らと同じように働き、外に出たら似たような行き場のない世間話しをする、社会人と呼ばれる、不特定多数の大人たち。朝は時間がなく、昼はほぼ外食で済ませ、平日の夜はささやかで僅かな余興にほんの数時間を捧げ、また明日の仕事の為に時間通りに床に就く者。パソコンやスマホが無いと不便を強いられる世界に共に生きるようになった者たち。
だが今の私は違っていた。ここでは時間を気にして生活することがなくなった。早朝から夜が更けてゆくまで、ずっと桜の木の下のベンチに座っていられた。そして正確な名やどのような事情でここへ来たのかもわからない少女と、まともな人間が聞いたら狂っているとしか思えないような話しをしているのだ。
彼女は未来から来たんだ。
私しか知らない。
なぜ君はそのことを知っているのだ?
君は僕の救い人になるかも知れない。もっと詳しく彼女のことを聞かせてくれたまえ。
それらの言葉に対して、年端の行かぬ少女は次のように答えた。
間違いない。わたしは彼女のことを知っている。
彼女は遠い未来から来たと言っていた。
今もこの同じ時間が流れている世界のどこかにいるはずだ。
貴方の知り合いだったとは知らなかった。
しかし彼女は今慎重に行動しているに違いない。
音声を拾っている可能性がある。
わたしたちは監視されている。
ここも油断できない。
わたしたちはオカシイ人間と思われている。
同じ事柄に執着して話していてはいけない。
間を置き、あいだに無関係な事柄を挟んで会話しなければならない。
ゆっくりと、根気強く。
暗号だね。
そう、暗号だ。
あんこうもち。
あんこうもち。
桜の木の下には何がある?
私は少女に問うた。すると少女は迷うことなくすぐに答えた。
桜の木の下には真っ青な木製のベンチがある。ベンチには本を開いている少女がいる。すると少女のいるベンチにあるひとりの旅人がやって来る。旅人は少女に一体何の本を読んでいるのかと訊ねる。すると少女は顔を上げ、答える代わりにこんなことをその旅人に言う。
『一緒にこの先にある森を抜ける者が来るのをここでずっと待っていた』
少女は言うと、頭上の空を埋め尽くす桜の花を見上げて言った。
しかしそこにあるのは桜の木ではなかった。プラタナスの木だった。
少女はそう言うと、ベンチから立ち上がり、私を振り返り、無表情に見下ろした後、いつものように何事も無かったかのように歩み去っていった。見下ろし私と眼が合った間も、いつものように少女の視線からは何も読み取ることは出来なかった。
私はその後もベンチに腰掛けたまま、この施設を脱出する案を夜がやってくるまで考察し続けた。
君は一体誰だったんだ。何者だったんだ。
何故僕を選んだんだ。そして先に行ってしまったんだ。
すべてが謎のままで、僕の理解を超えている。