プラタナスの木の下には青い木製の長椅子が置かれていた。

 そこにひとりの少女が腰を掛け、本を読んでいた。周りを見渡しても他に誰か居る様子はなかった。こんな何もない道の途中で、樹木の下に長椅子があるのも場違いのように思えたが、そこに年頃の少女が座って本を読んでいるのも何だか奇妙な光景だった。近くに家でもあればそうも映らないのかも知れないが、家はもとより、小屋ひとつさえない森の外れのような場所だった。森を抜けてきた僕は、目前の開けた光景の大半を占めた草原の中を、未舗装の道が続き、遠くに黒く見える別の森へと吸い込まれていくように伸びているのを認めた。草原は広く、民家や小屋のような建物さえなかった。あるのは鬱蒼と茂ったすすきの野原に僕が歩んで来た未舗装の歪んだ細い道が伸びている、ただそれだけだった。僕と彼女の他に人の気配さえ無かった。そんなところに若い女がひとり、木陰の椅子に腰を降ろし、本を開いて読んでいるのだ。

 彼女は一体どこから来たのか?

 僕が彼女に対して最初に抱いた疑問は、恐らくそのようなものであった。そしてその次に問いたかったのは、彼女が読んでいる本の題名と内容であった。ただ純粋にそれが知りたかった。

 でも結局、彼女が何処から来たのか、彼女がどういう本を読んでいるのかも知ることは出来なかった。不思議な話しだった。僕は後に彼女のことを殆ど知ることになるにもかかわらず、最初に彼女と出逢った時にほぼ同時に生まれたその二つの小さな素朴な疑問が、遂に解決されないままに終わることになってしまうなんて、その時の僕には想像することも出来なかった。そこに知られて困る可能性すら考慮になかった。そしてこれから起こる出来事についても同様だった。そもそも見ず知らずの少女が僕の旅に付いて来るという、そんな突拍子もない事になるなんて、普通の思考の働き方をしている大方の人間には予期せぬ出来事だった。

 僕は彼女に声を掛けた。すると彼女はおもむろに顔を上げ、僕を何か胡散臭そうな感じで見つめた後に、再び顔を下に向けた。しかしそれは読書の続きをする為ではなかった。再び面を下に向け、太腿の上に広げられた本のページを追い始めたのではなかった。その眼は文字を追ってはいなかった。文字が並ぶページと顔との間に存在する中空を見つめていた。その顔つきは何かを考えているようでもあった。そして暫しの沈黙の後に、再び僕は彼女に言葉を掛けようかと思ったその時、彼女は僕から最初に掛けられた言葉とは全く関係の無いことを、再び僕を見たその顔に先ほどとは反対に、微笑のような表情をして言ったのだった。

 「日暮れまでにあの森を超えなければいけない」

 そう言うと少女は、広大な草原の先に黒く沈む森の輪郭を見つめた。そして再び僕を見て言った。

 「しかしその為には、男と女が一緒に通る必要がある。そうしなければ、あの森に住む魔物に喰われてしまうからだ。いくら屈強な男だけが大勢いようとも、勇気と知恵のある女が何人いようとも、男だけ、女だけでは駄目なのだ。一人づつでも構わない。男と女が居れば、あの森を抜けられる」

 僕は少女が突然そんな非常識な事を言い出すのを黙って聞いていた。もっと何か女の子らしいことを言うのではないのかと思ったからだ。それがあろうことか、魔物だの喰われるだのと、まるでホラー映画の世界ではないか。しかもさっき言われたことは、みな年頃の娘らしいが、どこか凛とした高貴さと言える論調で述べられたのである。恰も自分の生まれ育った家の庭に咲く、一輪の名も無き花について述べているかのようにだ。そしてその儚さと美しさを言葉で表現し、相手を魅了するかのようにだ。だが彼女は少し柔らかな表情さえ見せながらも、その言葉には何かしら相手を警戒させる意味と話し方が含まれていたのも事実だった。僕は未だに話しの本筋が掴みかねたままに彼女に問うていた。

 「あの森に、魔物がいると?」

 「そうだ」

 少女が簡潔に答えた。「それも複数いる」

 僕は暫し考えようとしたが、少女が本を閉じると、それを真っ青なペンキで塗られた長椅子の上に置いた。そして立ち上がり、僕の傍まで来た。そして顎を上げ、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。

 「来るのを待っていた。私と其方なら、陽が沈む前にあの森を抜けれらるはずだ。さあ行こう。時は待ってはくれない」

 少女がそう言うなり、道の先を歩き出した。その動作は軽やかで、人喰いの魔物が大勢潜んでいる森へ向かう者には見えない。

 「どうした?なぜ動かない?」

 突然の事にその場に立ったまま考えあぐねていると、少女が数歩先で振り返り、僕をまじまじと見つめるような視線を送りながら訊いてきた。僕にはわからないことだらけだった。森に魔物?人喰い?ここはどこだ?文明の進んだ時代の、平和な場所であったのではなかったか?僕は己の心に自問した。それにこの少女は一体何者だ?何故この場所にいる?少女の話しが真実なら、彼女は僕が来るのを待っていたということになるのか。彼女が女で、僕が男だから。男と女が揃えば、偏った性別のみの人を襲うという、あの森に棲む魔物に喰われずに無事に森を抜け出すことが出来るからか。それも今日の陽が沈む刻限までに。それまでこの少女は木の下の真っ青なベンチにすわって、男なら誰でもいい、誰か連れが来るまで、黙って読書しながら平然と待っていたとでもいうのだろうか。

 「君はだれだ」

 僕は少女に問うた。すると少女はその表情をきりっとさせて答えた。

 「私はただの旅人だ」

 そして僕に問うた。「其方は旅人ではないのか」

 「否、俺も旅人だ」

 僕がそう言った後、ふたりの旅人の間に暫しの沈黙が訪れた。

 僕はまだ続く沈黙の中、待っている少女の方へ歩を進めた。少女はそれを見て、前に向き直り、毅然とした姿勢を保ったまま僕に背を向け道の先を進んでいった。

 その時にはもう、僕の頭の中から、彼女があのベンチで一体何の本を読んでいたのかという疑問は忘れ去られていた。そして、彼女と出逢ってから今までの短いやり取りの間に、真偽はどうであれ、この少女が反対側の森から来たのではないということはわかった。すると僕が抜けて来た森から来たということになる。それでもう少女がどこから来たのかという問い自体を、僕は少女に投げ掛ける必要性を感じなくなってしまい、かなりの時が経つまで、僕は少女に訊かなくなっていた。しかし時が経過した後も、僕は少女がどこから来たのか、正確に知ることは出来なかった。恐らく永久に。

 

 

 

 僕はあの時、その少女が長椅子の上に読みかけの本を置き去りにしたことについても、その本が何の本だったかも、その少女の美しさに圧倒されて、そこまで気を配る余裕を失っていたことを認めねばならない。後になって彼女にあの時プラタナスの木の下で読んでいた本は何だったのかと何度か訊いたことがある。すると彼女はその度に、ただのつまらない本よ、と答えただけで、僕もそれ以上のことは訊かなかった。彼女と出会った時は尚更そうだった。本のことよりも、いま僕の数歩先を、人喰いの潜む森へと果敢に進んでいくどこか常人離れしたところのある、美しい少女の存在に圧倒されていたからだ。まるで何か神々しいものを見た時のような感じだ。或いは美しさとは裏腹に、その毅然とした少女の行動に、僕を突き動かす何かがあったのだろう。僕はそのまま少女の後に従い、黒い森へと歩み出したからである。

 

 

 

 結局、二人は何事も無く日暮れまでに無事に森を抜けることが出来た。鬱蒼とした深い森のなかを歩いている時でも、魔物やそれらしき怪しい気配すら皆無であった。鳥が囀り、森の上空を吹き抜けてゆく南風が、梢を揺すってカサコソと音を立てていたくらいだった。たまにどこかで細い木の枝らしきものが折れる音が数回聞こえて来たのを除けばである。

 彼女のことについて詳しく書くとものすごい量の文章になってしまうので、これは彼女との出会いについての、ほんの一コマの描写に過ぎない。しかも極めて稚拙な描写であり文章である。まあでもこれは取り敢えずこれで良しとしよう。その内、彼女や彼女とのその後の事は、僕なりに頑張って書いてみるつもりである。あくまで僕個人の為に。いつになるか定かではないが。

 彼女があの時、プラタナスの木陰に忘れ去られたようにポツンと置かれたような、真っ青な木製のベンチに腰掛け読んでいた本について、この前また久しぶりに彼女に訊ねてみた。すると彼女は僕に言った。

 「例の話しね。あれはただのつまらない本よ。それに古すぎてあなたには読めないわ。でも不思議な話ね。私はこの世界の住人ではないのに、貴方を含め、誰も私の正体を知らないし、知ろうともしないなんて」

 そう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。偶に僕にだけ非現実的な事を言っては、面白がる彼女。彼女が何処から来たかなんて、意味のない質問に過ぎないのだろう。それは彼女は何者で、これから何処へ行こうとしているのかという質問と同じくらい無意味な問いでしかないのかも知れない。

 僕たちはいつものように朝食にマーガリンを塗ったトーストを食べ、彼女がフライパンで焼いたベーコンエッグを食べ、カットトマトと千切りキャベツのサラダを食べ、ローストした珈琲を飲んだ。数十分後に、僕が仕事に出掛け、その後に彼女がやはり職場に向かう為に玄関の扉の鍵を掛け、僕らの住むマンションを出るだろう。いつもの平日と何も変わることなく。いつもの日常をふたりで積み重ねる生活が続き、何れ僕は彼女が何処から来たかなんて、疑問にすら思わなくなる時が来るのだ。あの時の非現実的な二人の出会いが、その時に浴びた太陽光の明るさやプラタナスの枝葉に覆われた斑模様の影の濃さが記憶の中で何物かへと移ろい変化し、あの時に出会ったばかりの彼女と共に聞いた筈の蝉の声が、遠い声となり、今夏の蝉の鳴き声と異なるように、僕が当時抱いた彼女についての謎も、時が経つに連れ、彼女の一部となっていったのだ。人間には誰でも謎がある。概ね寝食を共にするふたりだからこそ、謎が必要な事もある。彼女が偶に僕に向かってだけ言ってみる、不可解で意味不明な事も、それ自体が彼女の一部とも成っている彼女に纏わる非現実的でミステリアスな謎も、そのままだからこそ刺激的でありまた面白くもあると言えたからだ。

 だがあの場所へ行こうとしても、どういうわけか辿り着けない。地図やネットで調べても出てこないのである。やがてあの魔物が潜む森やそれに続くすすきの野原の中の道、プラタナスの巨木やその日陰にあった真っ青なベンチ等といった空間自体が、僕と彼女のふたりだけが共有していくことになる遠い記憶の中の特別な空間として存在し続ける事となっていたのだった。ダムの底に沈められた村のように、記憶という深い湖の底に沈められたのである。

 しかしダムに沈められた村と同様に、あの土地は現実に存在する場所であった。現に僕と彼女はそこで出会ったのだから。存在しない筈がないのだ。だが、何処の水底の村は探せば見つけられるが、今までふたりで何度か試みたにもかかわらず、あの場所を見つけ出すことは不可能だった。何故そのような事が起こるのか、現在に至るまで二人とも不明なままだった。無理に見つけようとしても、そこに以前の同じ道は無いのだ。あの場所へと続く道はもう見つけられないのだ。それにあの場所自体、現実に在りながら、どこか非現実的な場所のようなものだった。どこにでもあるような風景だが、決してどこにも無い場所。そんな空間だったのだ。僕と彼女の記憶にも、どのようにしてあの場所やあの場所の近くまで辿り着いたのか、どういう訳かそれすら不確かとなり、時系列すら乱れていくのだった。そうだ。そんな思いや体験を幾度か繰り返していく内に、彼女は僕に、例の不可思議な冗談を言うようになっていったのである。

 「わたしはこの世界の住人ではないし、あなたたちとは違う存在なの」

  そして彼女は悪戯っぽく微笑むのだ。