近所を歩いていると、何気ない人々の会話から、僕はあることに気付かずにはいられなかった。
それはいつか見た、ただ青いだけの単調な空の下や、今日の様な灰色の空が果てしなく続く平日の昼過ぎでもそうだったし、横殴りの雨が暴風と共に路上に叩き付ける荒天の寝静まった夜中でさえ聞こえてきた。彼らは常に僕の耳元で囁き、僕を不思議な気持ちにさせた。時折聞こえてくるかたち作る前に消失していくそれらの言葉から、ある意味不明な会話から零れ落とされた単語に形成されていく言の葉の断片を拾うこともあった。それらの単語の一つひとつは大した意味を持たず、ただそれだけを耳にしただけでは何を伝えようとしているのか、目的があるのかさえ定かでないものばかりであった。例えば駅前の交差点で信号待ちをしている最中も、誰かが連れ立った傍にいる者や携帯電話に向かい、或いはイヤホンを耳に当てこの場所にはいない誰かに向かって言われた言葉やその断片が、まるで鳴門海峡の渦潮の様に所々に際限なく溢れているのであった。そして僕はいつしかそれらを拾うことになっていたのだ。意味の無いことと知りつつも。
Sのいつもいる酒場にはかわいい女がいた。名をCと言った。彼女はアルバイトだと言い、大き
くてかたちの良い乳房を、目の前のテーブルの上に柔らかく揺らせながらジョッキやビール瓶を置いた。その乳房の片側の上にお店の名札がピンで留められており、そこにはJとあった。
「ありがとう!Jさん」
Sが何度目かの来店の際に、カウンターの席でひとりで吞んでいる時にビールの小瓶を置きに来たJという名札を付けた店員にそう言うと、酒場の店員は首を振ってSに答えた。その時に大きな乳房も僅かだが一緒に首を振るように左右に揺れた。
「わたしの名前はCよ」
そして自分の大きな胸の片方を見下ろし付け加えた。
「名札の名前は源氏名よ」
そう言い、微笑しながら他の仕事に戻った。Sはその後もカウンター席でひとりビールを呑み続けた。結局4本くらい頼んだが、それ以降誰とも喋らず、一人静かに前を向いたまま自分自身の世界にでも浸っているかのようであった。二度ほどCが彼の横に来てはビールやつまみを置いていったが、Sは顔を向けるわけでもなく、ただ黙って腰掛けたまま前の空間を見つめていた。
ある日僕はSと一緒に呑むことになり、お互いの最寄り駅である近所の酒場に行った。かわいい女がいるあの店だ。テーブル席に座り、一応メニューに眼を通して、ジョッキをふたつ注文した。例の乳房の大きな店員はいなかったが、その時の僕はまだ彼女の存在すら知らなかった。後で知り振り返っても、その時のSも別に気に留める様子もなく、その店員がその店で働いている事すら忘れているかのようであった。
季節は真夏だったが人々はコートを着て外出していた。異常気象だ。こんなのは初めてだった。実際まだ降っていなかったが、何時雪が降っても不思議でない予報が連日出ていた。夏特有の積乱雲も無ければ眼が覚めるような真っ青な青空もなく、姿を隠し、もはや想像上のオブジェとなったような太陽は、冬に見る、灰色の空の彼方に弱々しい点となって棚引く雲の間に隠れていた。樹木は早くも紅葉し、蝉の鳴き声は聞こえなかった。鳥は慌ただしく飛びまわり、穀物は育たず、野菜の価格は高騰した。季節外れの冬の日々が二週目に入った頃から、多くの駅前や街頭で、コートの襟を立てて行き交う人々に何かを叫んだり訴えようとしている人たちをよく見掛けるようになった。人々は毎年決まって訪れていた酷暑から解放された歓びを控えめに感じながらも、何とも言えない先の見通せない不安を抱えて凍て付いた舗道を何もなかったかのように通り過ぎて行くのだった。
そんな日々を過ごしている内に、いつしか僕は雪女の幻影を見るようになっていった。
不思議な冬、ではなく夏だった。何故に、伝説上の妖怪の幻影を見るようになっていったのか、説明などできない。ある時気付いたら、それが見えるようになっていた、ただそれだけのことであった。或いはこのような前代未聞の異常気象は、元はと言えばその雪女やその仲間が引き起こしたことなのかも知れない。仮に僕が見た雪女の存在が世間に広く知れ渡ることにでもなっていたなら、彼らは必ずこの異常気象の原因を雪女に充てていたに違いないのだ。
ある夜、僕は雪が降りしきる真夏の停滞した街の中を彷徨うようにして歩いていた時のことだ。防寒用のズックや手袋をしていても爪先や手指の先は冷たく、目出し帽から覗く睫毛は白く凍り、視界に入る街は、埋もれていく雪と氷の中で僅かに灯る常夜灯とネオンの光が、最期の灯のように死にかけた明りを降り積もっていくだけの白い怪物の上に無力に投げ掛けているだけであった。
街路樹の細い枝から順番に、太い枝、樹木の細い幹や太い幹さえも降り止まない雪の重さによって折れ、倒壊し、コンクリートの電柱は電線を張ったまま路上や建物の屋根や壁に向かって倒れ、大きな被害をもたらした。軍隊が来て、電柱が突き刺さった家の中にいた人々を救助した。普段冬でも滅多に雪の降らない街は、真夏に降り始めた雪によって、本来あるべき都市としての機能を縮小し、完全に麻痺させていた。会社や学校は臨時の休みを取った。人々はスキー板を着けて移動するようになり、エンジン音を立て雪飛沫をあげて走るモービルを多く見かけるようになった。誰か知らない人たちがひっそりと作ったとされる雪像が、雪に覆われた街のあちこちで見掛けるようになった。最初雪女を見た時、僕はてっきり、精巧につくられた雪像や氷像のひとつではないかと思った。動かないそれは、つい先ほどツーブロック先で見た、艶やかな氷像とよく似た姿をしていたのだ。それは角にある、あの堀田万(ほったまん)ブラザーズのフランチャイズ店である、有名なロブスター店を曲がった、舗道があったとされる道の反対側の先にあった。しかしそれは居たと言うべきなのだろう。その時はまだ気付いていなかったが、それは物ではなく生物だったのだから。僕は氷像か雪像の方へ自然に歩を向けていた。惹きつけられていたのだろうか。わからない。さっき見た氷像が美しい女だったからか。堀田万の角を曲がった瞬間に、僕はそこに氷像か雪像があるのを知った。そしてそれがツーブロック先で見た氷像のように艶やかで美しい容姿をした女であったことを。それもあり、自然に足が向いていたのだ。曲がり角にはドラマがあるとよく言われていることを思い出しながら。だが、これがもし生身の血の通った女であったら、ずけずけと歩み寄ったりはしなかっただろう。しかし、雪が降り続ける仄かに常夜灯に映し出された、夜の降りしきる暗青色に染まった雪景色の中、ひとり動くことなく佇むものに、生命の確証など有り得ようか?気温は零下を二桁まで超え、雪に閉ざされた街はかつての街などではなく、あれだけ人がいた街が、今は廃墟に閉ざされたかのように雪が作り上げた静寂の森と化し、人や物や時間などもすべてを呑み込んだがらんどうの夜に佇む支配者は、人ではなく、彼らが残していったあるモノであるということ以外に。かつての世界なら、それが当り前であったかも知れない。しかし今はかつてあった世界ではなく、その時代は雪がどこかへ連れ去っていった。そしてもうその時代は戻っては来ない。人々は外での長居を控え、まるでその代わりであるかのようにして街に雪で作られた像を残した。今ではそれすら当たり前の光景となった。雪は音を吸い込むように、かつてあった時代を過去のものに変えた。現れたのは雪や氷が支配する雪像や氷像であり、最低気温を更新していく中で、人々は何かに気付き出したかのようにして、或いは何かに憑りつかれたかのように、まるで自分たちの何かしらの身代わりであるかのように、それらのものを残すことを決意したのだ。やがてオブジェの数は増えていき、新しい時代が到来した。
手の先や足の先が非常に冷たい。睫毛はこれ以上凍ることが不可能であるくらい凍っている。鼻は感覚がない。そして鼻先に軽い痛みも感じる。夜に出歩くは無謀といえた。少しなら問題ない。だが既に1時間以上外にいた。異常だ。一体俺はどうしてこんなことをしているのか。目的もなく。だが目的があれば、こんなことはしていなかったはずだ。目的などなかったから、僕は1時間以上も酷寒のなかを彷徨い続けていたのだ。
あるオブジェの前に来る。それは人間そっくりだ。若い女の像だ。まるで生きているようだ。そして実際にその像が生きた人間であることを知った。何故か遠慮も無く顔を覗き込んだ。すると長い睫毛の下から、その生気に満ちた眼差しが僕を見つめ返していることに気付いたのだった。僕は一瞬後退りした。静寂の中、雪を踏む鈍い音だけが聞こえた。また静寂が降りたからだった。だがそれは沈黙と呼んだ方がよかった。若い女は沈黙を守ったままずっと僕を見ていた。動かず、白い息すら吐かずに。僕もまた後退りしたまま動くことを忘れたかのようにその場に留まり、凍ったように動くことを止めていた。そして女をじっと見ていた。何故か知らないが、暫くの間、そのようにして見つめている内に、僕は気付いたのだった。彼女は人間ではない。人間である筈がなかったと。何故ならその銀色と白が入り混じったようでいて透明性のある肌が、防寒着の僅かな隙間から覗いた眼の周りの微かな範囲ですら、そう確信させる真実を宿していたからだ。雪女であると。その美しさと危険性を併せ持つ死の中に、偽りの、妖艶な生を見出していたのだ。なんという事だろうか。僕は死ぬほど寒いにも関わらず、女の傍から離れることが出来ずに、ずっとそうしていたのだ。その女に凍らせられでもしたかのように。
眠りから覚めた時、僕は知らない部屋の中にいた。病院ではない。どこか知らない家の中の、誰か見知らぬ個人の部屋の中のようだ。部屋の中央に丸テーブルがあって、その上にはパンやチーズの入ったバスケットがあった。その隣りに、果実酒のような細長い緑色の瓶とそのグラスが置かれていた。そして栓抜きもあった。肘掛け椅子がふたつ、丸テーブルを挟んで向い合って置かれ、そのひとつに見知らぬ女が腰掛け、僕に向かって微笑んでいた。
「気が付きましたか。気が付いて良かったです」
女は外国訛りのある母国語で言った。言葉は不自然だが、表情は柔らかかった。
「発見がもう少し遅かったら、あなたはあそこで凍死するところでした」
女は続けて言った。
「あそこ?」
僕は思わず問い返した。すると女が答えた。
「雪女の氷像の前です」
僕は朦朧とした意識のまま、過去を思い返そうとした。すると女が話した。
「はじめ見た時、私は確信致しました。あなたもあの女の氷像によって、凍らされ、命を奪われてしまうのだと。そうならないように、私があなたをあの魔女から引き離しました。間に合って良かったです。ありがとう」
「例を言うべきは僕の方です。ありがとう」
僕はよく意味のわからないまま外国訛りの母国語を話す元は外国の見知らぬ女に対して、救済された事に依る礼を述べていた。そして女に訊いていた。
「僕はあの氷像の前で倒れていたんだね?」
僕はここに運ばれてくる前の記憶をすっかり取り戻していた。だが女の返答は不思議なものだった。
「違います。氷像の前にいたのは事実です。しかし、倒れてはいませんでした」
「どういう事ですか?」
僕も女に敬語で問い掛けていた。
「あの氷像、魔女の前に立っていました。いいえ、ごめんなさい。正確に言うなら、氷像と抱き合っていました」
僕は一瞬女の言った言葉が信じられなかった。何で僕が氷像を抱いたりするのだろうと。酒を飲んで酔っ払っていたわけでもなければ、もともとそんな酒の飲み方や、いくら酔っ払っていたとしてもそんなことは僕はしない人間なのだ。この酷寒の中、氷像を抱いていたなんて到底受け入れられなかった。すると僕の気持ちを察してか、外国訛りの言葉を話す女は慰めるように僕に言ったのだった。
「大丈夫よ。私はあなたがまともな人だと知っているから。悪いのは魔女であって、あなたではない。あなたはヘンタイなんかではない。だから私はあなたを氷像の前から離した後、私の家まで運んで来て看病した。そうでなければ、救急に電話していたから」
女はそう話し終えた後、白い顔に俄かに紅が差したように見え、下を向いた。形の良い頭が窺えた。
僕は女の話しの内容もそうだが、敬語を使わずフランクに話してくれた事に嬉しさを感じた。それにしても魔女って何だろう、と思った。確かに僕を強く惹きつける何かがあの氷像の女にはあった。それこそまさに死への誘惑であったのだろうか。僕は明るい笑みを浮かべてこちらを見ている女に訊いてみようと思った。彼女から訊かなければならないことは他にも色々とあったが、今話題に上ったばかりの魔女のことについて訊いてみた。すると女は言った。
「たとえ人の手によって作られたただの氷の像であったとしても、一度形を与えられたものには、魂が宿るのよ。あの女の氷像には、男を破滅させる悪しき魂が吹き込まれていたのよ。でももう大丈夫よ。私があなたを家に連れて来た後、私は再びモービルに乗ってあの氷像のところまで行ったの。そして家から持って来た魔法瓶の中の熱湯を掛け、スコップとツルハシでメタメタに破壊してやったから」
女はどこか誇らしさすら見せて殊勝に言ったのだった。僕は女が何故僕を病院ではなく、彼女の家に連れて来た(多分モービルで)のかを問いたかったが、訊かない方が良いような気がして敢えて訊こうとはしなかった。だが彼女は僕にこう向かい、当たり前の事のように説明をした。
「私は看護師だからわかったのよ。あなたには一刻も早く、暖かさが必要だということが。一刻を争う事態だったから、病院よりも近い私の家に連れて来たのよ」
僕は彼女に感謝した。果たしてそうせずにいられようか?言うなれば、彼女は僕の命の恩人なのだ。偶々看護師である彼女に、凍死の一歩手前だった僕を見つけ、迅速且つ的確な判断で救出してくれたのだ。僕は彼女に何と礼を言って良いのかわからないほど、また、彼女に何をしてあげたら良いのかわからないほど、彼女に対し恩を感じていた。しかし彼女はそんな僕の様子を見越していたのか、微笑み、やさしく、言うのだった。
「私からお願いがあるの。何だか恩着せがましい事を言う様で、申し訳無いのだけれど、私の友達になってくれない?こうして逢ったのも、何かのご縁だと思うし」
僕は何か甘い夢を見ているような気にさえなっていた。そして思った。あの氷像は本当に魔物であったのかと。勿論彼女を疑っている訳ではなかった。ただ、これほど甘美な出逢いが訪れたのも、あの氷像の女のおかげとも無くはないと思っていた。死んでいこうとしている感覚や記憶、恐怖心や諦念感、生への焦燥感や悟性すら多分無かったであろうあの場面で、僕はあの人間のような女の氷像に魅入られていた。そこまでだ。その後の記憶は、気付いたら、この家のベッドの上で、布団に包まり眠りから目覚めたという事実だけだった。そして今度は暖かい肉体と心を持った美しい女がいたのだ。
魔物がこの氷河期を齎したのだろうか?あの、氷雪に覆われた白く青い世界の中で、新しいモニュメントとして、悪意の無い街の人々が幾日も掛けて造り上げたあの一見芸術作品と呼んでも過言ではない、溶ける心配の無くなった、雪や氷で形作られ、美しさと不滅性を兼ね備えた完璧な雪像や氷像に、何故悪意など入り込む余地があったいうのだろうか。どう考えてもわからないのだ。それは所詮、僕が人間で、それ以上の存在でも、或いはまた、それ以下の存在でもないからなのか。人間の答えではない答えだから、僕には知りようもないことなのかも知れなかった。
世界の大財閥である、堀田万ブラザーズによるタイタンからのメタンの抽出は、氷河期に突入した我々人類にとって至上義務であった。数か月前に土星めがけて飛んで行った宇宙船は、土星の衛星であるタイタンに到着した。堀田万ブラザーズは数日掛けてタイタンからのメタンの抽出に成功し、巨大なタンカーを積載した超大型宇宙船は、黄土色に発色したガス惑星タイタンを離れ、地球への帰路についたと、昨夜アースコミュニティが報じた。これから続くであろう永く厳しい氷河期に備えて、タイタンからのメタンは重要な燃料であり、資源であった。