そこは古い世界だった。電子基板のように張り巡らされた街のある一角に、朝方までこっそりと開いているラーメン屋がある。夜勤の労働者たちが休憩時間に来店してラーメンを食べ、また仕事へと夜の中へ消えていく。朝方には夜勤明けの者たちが朝飯代わりにラーメンを食べ、朝日と共に、または季節によってはまだ暗い中を家路へと足早に去っていった。
夜の開店後に来店して仕事始めか遅い仕事終わりに立ち寄り、ラーメンを食する者たちもいた。営業開始は21時で、閉店時刻は明朝5時であったから、開店直後に訪れる客はいても、閉店間際に来る客のほぼ全ては仕事終わりの者と決まっていた。しかし例外というものもあって、これから勤めに出掛ける前に朝ご飯としてラーメン屋に立ち寄る者も極稀に居たのだった。
彼はまだ若く、まだ人生を何度でもやり直せるくらいの若さであった。彼にとっては、早朝の、まだ街が眠りから覚め切れていない刻限に、閉店間際のラーメン店に立ち寄り朝飯かわりに熱々のラーメンを啜ることは、若かりし頃の遠い過去をいつの日にか振り返る時の良き想い出となるかも知れない。
それと言うのも、彼はそのラーメン屋を気に入っていたからである。夜から深夜過ぎの営業に限定された極めて不健康でいて一見、客の立場を考えない、恐らくは経営者兼店主の自己都合と自己満足によって決められた営業時間は、またそれと同時に多くの健全な客の足を遠退かせる事にも繋がっているであろうにも関わらず、頑なに深夜帯に固辞する頑固さや社会との折り合いの悪さが反って若い彼にとってはそれもまた魅力のひとつに映ったのかも知れなかった。まあ何はともあれ、その店の雰囲気や比較的良心的な料金設定、そして何より旨かったから、若い彼にとっては早朝の仕事始めの前にラーメンを朝飯がわりに食べる事などそれこそ朝飯前だったのである。
まだ暗い早朝4時頃に、彼はまたそのラーメン店に現れた。扉を開けた時、無言の挨拶が返って来る。いつものことだった。厨房には、人生のやり直しがもう効かなくなった年頃のいつもの店主らしき男が、寡黙にラーメンを作り続けていた。作っていない時は奥に引っ込んでいるか、ボリュームの絞ったカラーテレビの画面を、厨房の出入口の中にある丸椅子に腰を降ろしてじっと何かを我慢しているかのような風情で睨んでいるかしていた。勿論そうしている時でさえ、男は客が来ても無言の挨拶を送ることを忘れたことは無かった。
彼はガラスのコップを手に取り、冷水器から水を注いだ。知る人ぞ知る人気店だけあって、彼の他に客は一人だった。午前4時過ぎにラーメンを食べる人間が、この何でもない日にも関わらず、彼の他に居たのだ。流石は深夜営業の捻くれたラーメン店にも関わらず、隠れた名店であると言えた。彼はそんなことを思いながら空いているテーブル席に着いた。天井の黄色い蛍光灯に明るく映し出されたフロアには、4人掛けのテーブル席が4席と、6人が坐れるカウンター席があった。もう一人の中年の客はカウンター席の一番端に腰かけていた。ストゥールが高い所為か、そこに座る客はテーブル席から座って見ると空中浮遊している様にも見えた。或いは個人型小型ロケットの打ち上げが、今まさに始まろうとしている様にも見えた。発射準備完了。後はラーメンを無事食べ終え、目的地へと再び向かうのだ。そしてそれは大抵は家か職場だった。ただ彼が坐るテーブル席だけはロケットの軌跡から外れていた。だが向かう目的地は結局は同じだった。彼もまた、家か職場のどちらかだった。彼の場合は職場への一方通行と決まっていた。
彼はテーブルの端にある、メニュー立てを手に取りメニューを見た。そんなものを態々見なくても、限られた少ないメニューに何があるのかはとうの昔から知っていたのだが、それが癖になっていたのだ。
味噌ラーメン
醤油ラーメン
塩ラーメン
味噌チャーシューメン
醤油チャーシューメン
塩チャーシューメン
〈トッピング〉
ネギ
辛子ネギ
バター
コーン
海苔
メンマ
餃子
ライス
半ライス
瓶ビール
コーラ
オレンジジュース
以上がメニューである。中盛りや大盛りはない。そこに深夜帯に食べ過ぎに気を遣う、客の健康への配慮があったのかどうかは定かでない。ただ、麺の量に物足り無さを感じた事は、少なくとも彼に限り無かった。
「醤油チャーシューメンと餃子」
彼はいつものように厨房に向かって注文した。店主の男はちらっと若い客の方に顔を向けただけだった。
店のテレビからは深夜映画が流れていた。ジョン・ウェインの『赤い川』だった。丁度中盤を過ぎたところのようだった。
いつの間にかカウンターにいた先客がラーメンを啜っていた。店主は今度は若い客の方のラーメンを作りはじめていた。
そう長くは掛かるまい。
若者はジョン・ウェインを見ながら心の中でそう呟いてみせた。
俺の今までの人生がそうであったように、それは放たれた銃弾のように、気が付いたら一瞬で過ぎ去ってゆくものなのだ。
若者はそう独白していた。
するとラーメンと餃子が運ばれて来た。運んで来た店主は、物静かにトレイを置くと、物静かに厨房の方へ去っていった。そして厨房出入口内側に置いている丸椅子に腰を降ろし、『赤い川』を見始めた。
若者は哲学的な物思いも忘れ高カロリーな朝食を旨そうに食べ始めた。すると食べている途中で若者は急にはっとして辺りを見回した。
何かがおかしい。
若者はまず先にそう思った。そして何がおかしいのかに気付いた。
さっきまで自分が居た場所と、微妙に何かが違うのだ。店主が別人のように見えた。似ているが、誰か別の人だ。若者は理由も無くそう確信した。そしてカウンターに居る先客も風貌が違うように見えた。だがこれは先ほど居た客と同じ客だと、若者には断言出来た。それを説明する事は出来なかったが。
若者はテレビのチャンネルがいつの間にか変わっている事にも気付いた。深夜映画から、日本の川の自然な風景を流す番組に変わっていたのだ。そしてそれを、店主に似た誰か別人が、先ほどまで店主が腰掛けていた丸椅子に座り、じっとテレビ画面を見つめているのだ。
若者は狼狽えた。それだけ何か決定的な違いがあったのだ。だがその理由や経緯が不明なままだった。若者は食欲も失せ、旨い筈のラーメンと餃子の残りも食べるのを止めた。そして席を立ち、椅子に座ってテレビで川を見ている店主に似た誰か別の人物の方へ近付こうとした。するとカウンターに座っていた、先ほどと同じ人物だが先ほどとどこか雰囲気の異なった中年の先客が、若者に向かって話し掛けた。
「あっという間だ。ほんとうにあっという間だったんだよ」