とある街の片隅に、ずっと嫁を貰わずに過ごしているひとりのリーマンがいた。

 彼は、もういい歳なのに、いつまでもひとりでいたから、まわりの人間は、早く彼に、どこか良い人を見つけて結婚させたがったが、彼はまったく聞く耳を持たず、また興味もなかった。彼に何故結婚しないのかと訊いたところ、彼が言うには、女は金が掛かるから、俺はひとりのままがいいんだ、ということだった。

 「嫁なんていらない。俺には俺の生き方がある。どうせ結婚したって、嫁に財布の紐を縛られて、月に少ない小遣いを渡されて、それで我慢しろと、当然なことのように言ってくるに決まってるんだ。そのくせ自分は、そそくさと最低限の家事を済ませると、ママ友だか何だかと遊びに行って、やれ買い物だ、やれスイーツだ、やれカラオケだのと、昼間っから遊び惚けている始末だ。それで俺には、穴の空いた靴下をいつまでも履いていろと言い、煙草は健康に悪いし時代遅れで、そんなのに高額の税金を払っているのは納得がいかないだの何なのと言って、俺の数少ない娯楽のひとつを奪うつもりでいる。子供が出来ると、人生の大半を育児や子供の教育に追われ、狭い家の中で俺は肩身の狭い思いをしながら石のように辛抱強く生きていかなくてはならなくなる。だが周りの連中はそれが当然だと思っているから、救いというものが存在しない。何れ子供が大きくなり、親元を離れたと思ったら、突然付き添って来た妻から別れましょうと言われるんだ。寝耳に水とはこのことだ。妻は自由が欲しい、あなたとの生活はもううんざりとか、訳のわからん好き勝手なことを言い出して、家を出ていく。いや、或いは、場合によっては俺が家を追い出されるかも知れない。路頭に迷った俺は、早期定年退職で仕事も住む家も失い、子供からは何故か悪者扱いされて、ひとり寂しく余生を送り、誰からも相手にされずに孤独に死んでゆくんだ」

 男が叔父にそう言うと、叔父は暫く黙って何かを考えているようだった。いつものことだった。叔父が男に結婚話しを持ちかけてくる度に、男はそんな叔父に向かって、実際にそうなってもちっとも可笑しくない、結婚することによってもたらされるであろうマイナスの要素のありとあらゆる可能性を、それ見たことかと言わんばかりに並べ立てることが、この頃では習慣になってさえいたのだ。

 逆に言い包められた形になった叔父を見て、男は何だか彼が可哀そうに見え、同情してしまう時さえあった。叔父は、男が結婚生活に対してデメリットばかりを並べ立てられたような境遇ではなかったけれど、当たらずとも遠からずという言葉からそんなに遠くはなかったからだった。違うところと言えば、まだ叔父の妻が、彼と一緒に生活しているところだろうか。

 叔父は煙草を探すような素振りを不図見せたが、叔父はかなり前に禁煙していた。そして半ば納得したような、今回も最初からそう言われるのはわかっていたんだというような諦念の相で男を見遣って言った。 

 「お前の考えが変わらないのはわたしも知っていたよ。だけどな、兄貴にとっちゃあ、お前がただひとりの子供なんだよな。兄貴も生きている内に、孫の顔を見てみたいと思うのは、何も不自然なことではないと思うけどな」

 兄貴とは叔父の兄、つまりリーマンの父親である。彼はどういうわけか、結果論になるが、リーマンをやっている男ひとりしか子供を作らなかった。因みにその弟である叔父には、何故か子供が4人いた。

 「お前もいつまでもひとりでいるのは忍びないだろう。まだ今は若いからいいかも知れないが、人間なんてすぐに歳を取っていく。気が付いたら、自分の健康面をあれこれと心配せにゃならん年齢になってくる。そんな時に、子供や妻が居てくれたら、心境だって違ってくるというものだよ」

 やがて叔父は夕闇が迫る頃に男の家を後にした。確かにあいつの言っていることも、分からなくは無いのだがと、心中密かに思いながら。

 男も叔父の言わんとすることはわかっていた。ただ、どうしても、結婚する気になれなかった。付き合った女は何人かいたが、結婚となると話しは別だった。というか、結婚の話しに進む途中で、別れることになった。何か違う。こうではない。これなら別れた方がお互いの為にいい。死ぬまで同じ狭い家の中で共に暮らしていく自信や実感が沸かないし、想像するのも難しい。別に結婚とかに拘らなくてもいいのではないか。そもそも誰が一体結婚なんてものを考え出したんだ。ひとはもっと自由であるべきだ。男のそんな考えは、彼が歳を重ねると共に強くなっていった。 

 だから男は彼に結婚を勧めて来る御節介な人たちに対して、何時からか、決まって言う科白があった。

 「お金が一銭も掛からない嫁なら、一緒になってもいいよ」

 勿論男は冗談のつもりで言っていたのだが、年月の移ろいと共にその言葉は、彼ら御節介な連中のなかで、次第に現実味を帯びて響くようになっていった。

 今日は休日の土曜日ということもあり、男は家のインターネットで映画を観ることにした。トム・ハンサム主演の映画 『プライベートいいやん』だ。

 男は『プライベートいいやん』のお供に、昨日仕事帰りに、休日の為にスーパー石井に寄って買ってきた、ちょっと贅沢なワインを飲み、宅配ピザを食べながら思った。家族が尊いなんていうことは、映像や文章の世界でしかない、作り事なんだ。現実は決してそんなことはない。いや、家族は尊いよ。それでいいんだ。そういうことにしておけば。建前としては、それが普通なんだからな。と。

 

 

 

 

 

 

 ある平日の仕事帰りに、男は家の前で不審者らしき人影がウロチョロしているのを認めた。だが距離が縮まると、それが叔父であることが判明した。

 「よう!正太」

 叔父が片手を挙げて男を呼んだ。正太とは、リーマンの男の名前だ。

 「叔父さん、どうしたの?こんな夜に家の前に居たりして?」

 「実はな。お前に良い話しがあって、居ても立っても居られずにすぐに飛んできたんだよ」

 「でもそれなら、携帯に電話するか、留守電くらい残してくれてもいいのに」

 「それをやると、またお前に逃げられると思ってな」

 確かに、近頃の甥に対する叔父の用事といえば、見合い話しが殆どだったから無理もない。

 「ということは、やっぱり見合いの事で来たんだね」

 男が言うと、叔父は素直に白状した。

 「うん、そうなんだ。だがな、今回はな、今まで持ってきた話しとは違うぞ!こんな良い人を逃したら、もう何時これほどの人に出逢えるかわからんぞ。まあ兎に角、家に上がらせてくれないか。仕事帰りで疲れているだろう。さっさと帰るから。5分でいいんだ。写真を見せてやる」

 叔父はまるで自分の事のような喜びようであった。そんな叔父を見て、男も無下には出来なかった。

 二人は家の中に入り、テーブルを挟んで座り向かい合った。

 叔父から写真を見せられた男は、その美しさにはっとした。その様子を見た叔父が甥に言った。

 「どうだ。別嬪だろ。だがな。それだけではないんだ。このひとはな、話しによると、お金が掛からないらしいんだ」

 叔父が何を言っているのかわからないまま、男はぼんやりと叔父を見つめていた。叔父は続けて説明した。

 「つまりだな。この方の実家は一寸した農家なんだよ。聞くところによれば、米と野菜、鶏肉とたまごは好きなだけ食えるらしい」

 「何それ。江戸時代じゃあるまいし」

 「まあ聞きなさい。その上この方は小食で、器量も良いというのだ。どうだ?お前のカネの掛からない女という理想に近いだろ。一度会ってみるだけでも会ってみないか?」

 男は日々単調でメリハリに欠ける日常にも退屈していたから、会うくらいなら別にいいかと思い、会ってみることにした。それに写真で見る限り悪くなかった。たまには年頃の女と色々と世間話しでもするのも悪くない。

 

 

 

 

 

 

 男はお見合いというかたちではあったが、叔父が言っていた通り、器量の良さそうな女だった。それに写真と違わず美人でスタイルも良かった。ふたりはまた逢う約束をした。何度かデートをした時も、浪費癖があるようなひとにも見えなかった。男はすぐに女に惹かれていった。時を待たずに、ふたりは結婚することになった。はじめて出会ってから、3か月後のことであった。

 

 

 

 

 

 

 二人は男の家で新婚生活を送った。妻となった女は、彼の給与からお小遣いとして彼に毎月2万円を渡すようになった。光熱費を払った後の残りの殆どは、家族の将来の為に貯金した。

 女が男の嫁となり家に住むようになってから、女の実家からは、定期的に大量の米と野菜、鶏肉、たまご等が宅配便で送られてくるようになった。なので食費も全くといって良いほど掛からなかった。殆どの食事が、妻の実家から無償で送られてくる米と野菜と鶏肉とたまごで占められていたからだ。だがそれは多過ぎると言っても過言ではないほど大量に送られてきていた。余りにも多かったので、夫となった男は、叔父家族や他の近しい者たちにお裾分けしなければならなかったほどだった。

 妻には趣味があったが、それは極めて健康的でお金の掛からない趣味だった。それはただ歩くということだった。〈一人歩き〉。妻は自分の趣味をそう呼んでいた。一日にトータルで最低4時間から、多い時で8時間も歩くことがあった。それを毎日、雨の日であっても欠かさず繰り返すのだ。しかもそこには決められたルールが存在した。必ずひとりで歩かねばならないというのがそのルールだった。例え相手が恋人や夫でも、彼女が趣味としている〈一人歩き〉に、猫一匹ついていくことは許されなかった。趣味としている一人歩き以外の、日常的な通常の徒歩なり歩行に関しては、勿論そんなルールなど無かったが、〈一人歩き〉だけが違っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 結婚して半年近くが経ったある休日の土曜日の朝、男は妻が〈一人歩き〉をする為に、スニーカーを履いて玄関を出て行くところだったので、いつも通り玄関先に出て気軽に声を掛けた。

 「気を付けてね」

 女の趣味である〈一人歩き〉は習慣的に行われ、毎日欠かさず継続されていた。それは女が男の嫁としてこの家にやって来た次の日からずっと止むこと無く続けられていたのだった。

 女はいつも通り身体を捩じるように半身だけで振り返ると、暖かく見守る夫に対して軽く頷き、玄関の戸を開けて外へ出て行った。その仕草は男にとっては得も言われぬ魅力として映った。当たり前のような表情でこちらを見る時の、あの真面目腐った顔つきがまた魅力的だった。それは男が週二日、家に居る時に〈一人歩き〉へと向かう妻を見送る、休日のいつもの光景となっていた。

 しかしこの日は違っていた。男は妻に内緒でこっそりと、妻の〈一人歩き〉の跡を付けてみることにしていたのだ。あれほど強く禁止されていたにも拘わらず、男にはどうしても妻の〈一人歩き〉の様子をこの目で確かめてみたくてどうしようもなくなっていたのであった。悶々とした日々を耐え忍び、漸く男は妻との禁を破ることに自分なりの正当性で武装して臨むことに至ったのだった。俺だけが知っていれば良いのだ。相手に気付かれなければ約束を破ったことにはならない。それに破られたところで、客観的な立場から見て重大な秘密である可能性も考えられた。仮にそうだとしたら、いつまでも疑念を抱いたままただ黙って結婚生活を送り続けることは出来ない。外に出て行動するということと、それに対して見るなと最も近しい者に対して禁を守らせることとの間には、やはり大きな溝があるのだ。妻はもしかしたら、昔の男と逢っているのかも知れない。普通に考えれば、それが一般的にまず最初に疑ってみるべき考え方だろう。だがこの際、仮にそうだとしても、既にこうなった以上は、もう少し様子を見て、事の成り行きを見守らなければならない。然るべき対応はその後でもいい。

 しかしそんな疑惑と同時に、男には、どうしても妻が浮気をしているようには見えなかった。新婚ということもあるが、妻はどうみても浮気をするタイプではないように見えたからだ。

 男はこの日を待っていた。妻に気付かれないように入念に下拵えをし、どうすれば上手く尾行出来るかを学び、探偵小説からヒントを得たりもした。そして計画していたこの日が来たのだった。

 妻が玄関を出てから10秒数え終わった男は、スニーカーを履いて戸を開き外へ出た。門を出ると離れた住宅街の中を貫く路上を、駅の方へ歩いて行く妻の、小さくなった後ろ姿が確認出来た。

 男は見失わないように妻を尾行した。不自然な動きなどせずに、振り向いてもひと目ではそれと確認出来ない距離を維持しながら女の跡を付けた。趣味の〈一人歩き〉とはいえ、妻の歩く速度はそんなに速い方ではなかった。空いた時間に行う一般的な〈ウォーキング〉とは違い、それは歩くことを目的にした行いというよりは、何か他の目的の為に歩いているようにしか見えなかった。やがて男の妻が駅前に来ると、迷わずに大手ハンバーガーチェーンである〈モッコリマック〉の店内に入って行った。男も迷わずその後から店内に入っていった。だがすぐに、カウンターからは死角になっている空いたテーブル席に座り、カウンターで注文をしている妻の様子を窺った。妻の声とそれを受けている店員の声を確かめることが出来た。どうやら妻はビッグモッコリのセットを頼んだようだ。そしてそれを2セット注文したことを知った。男は妻が〈モッコリマック〉で浮気相手の男と逢引きしているのではないかと思い、店内の様子を何気に検めたが、それらしい歳恰好の、一人でいる男の客は皆無だった。それで男は思い直した。そうか。もしかしたら妻は、今日は気が変わって、たまには俺の為にビッグモッコリのセットでもテイクアウトし、家で夫婦ふたりでジャンクフードでも食べてみることにしてみたのだろう。いつも実家から送られてくる同じ食べ物だけでは、流石に妻も飽きていたのだろう。それに妻の朝食はいつも小さいお椀に少量のお米とそれに生卵をひとつ掛けたものと、昨夜の質素な味噌汁だけなのだ。休日に、今日くらい俺と一緒にビッグモッコリのセットでも食べたくなっても不思議はない。かわいい奴め。

 男がそんなことを思いながら、妻に声を掛けるべく、死角から身を出そうとした時、妻が丁度注文した商品を手にして、男に背を向け、彼とは反対側にあるテーブル席の方へ歩いて行くところだった。男は後ろから妻を見たが、両手でトレイを持っているのはすぐに分かった。店内で食べるようだ。男は別の死角に移り、様子を窺った。すると妻がひとりで空いたテーブル席に座り、ビッグモッコリのセットを一人でふたつ分食べているのを目撃することとなった。

 あのボリューミーなビッグモッコリのハンバーガーを、誰に気にするでもなく、男が家の中でも見たとこも無い、カバの様に口を大きく開いてかぶりついている。しかもサイドメニューは二つとも、最も量の多いLLサイズだった。さっそく一つを平らげてしまうと、もうひとつのバーガーに手を伸ばす前に、ビッグモッコリのピンク色のソースが付いた人差し指を、口に入れてしゃぶり、舐め上げていた。人差し指が済むと親指、中指、薬指、そして小指の順へとすべての指を長い舌を出してチョロチョロと蛇のように舐めていった。そうしてから二つ目のビッグモッコリを両手でしっかりと捉えると、目元がへの字に折れ曲がるほど口をまた大きく開いて、顔をくしゃくしゃにしながらかぶりついていった。目からは思わず嬉しさの余りだろう、涙が頬を伝い落ちていくのを確認することが出来た。

 先ほどと同じ要領でビッグモッコリを捕食すると、次はフライドポテトにターゲットを定めた。するといきなり全ての指を使ってまだ熱の残るポテトを鷲掴みにすると、ビッグモッコリの時と負けない程の大口を開けてポテトたちを数十本単位で一気に奈落の底へと放り込んだのも束の間、すぐさま口を閉じると、頬をいっぱいにして頬張り始めた。その様子はまるでオタフクの面の様であった。そしてあっという間にポテトを処理すると、赤い容器を片手に持ち、その先端を口に運んで斜めに接続させると、底に溜まっていたポテトの残り滓をシューターよろしく滑らせ、全てを無慈悲に放り込んだ。そしてバーガーの時と同じく、全ての指に付いた塩を蛇舌を使って舐め上げていった。そうして何時の間にかLLサイズの特大ドリンクも2本とも飲み干していた。男が見ていた場所からは分からなかったが、恐らくげっぷのひとつもしていても全然不思議でなかった。

 男は打ちのめされていた。彼は妻の隠されていた本性を今はじめて目の当たりにしたのだ。家ではご飯を食べる前に必ず妻は、両手を合わせて、瞼を閉じ端正な顎を軽く下に向けて、そのままの状態で数秒経った後でなければ箸を手にしようとはしなかった。そして間食など一切せず、3食決められた時間に、決められた少ない分量だが身体に優しい自分で自炊した少量の食事を摂り、食べ方も上品で賢かった。その同じ妻が、たとえファストフードとはいえ、余りに目を覆いたくなるような、下品な食事の仕方をしていたのだ。それを見た者は必ず抱くであろう思いは、間違い無く下品であり、だらしがなく、知性の欠片も無いものだった。赤子が巨大化して食物を漁っている図に似ていたが、そこには赤子が持つ純粋無垢な要素はどこにも見当たらなかった。それだけにより一層おぞましく見えた。魔女が悪い行いによって得た獲物を欲望丸出しで貪っているといった様子にそれは似ていた。魔女という要素を差し引いたとしても、少なくとも現時点では他の要素はそのまま当たっていた。女は特大サイズを2セット食べたばかりであるというのに、まだ物足りない様子で、バーガーやポテトの容器の裏側を、長い舌を蛇のように使ってペロペロと舐め始めていた。

 しかし一方で、そんな女の夫であるリーマンの男にとっては、嫁の意外な一面を知った後に、可愛いとさえ思えるようにさえ心変わりしていた。少なくとも、当初危惧していた不倫の要素が無いと知った今、その想いは安堵と共により一層強くなっていくのだった。

 彼は今妻の元へ飛び出して行き、約束を違えた事もお構い無しに、裏切られた妻の不機嫌を他所に、彼女に対して率直に優しさと多少の冷やかしも含めた言葉を掛けてやりたくなった。

 だが男は家に帰るまで黙っておこうと思い直した。家の中でなら、お互いに言いたいことが言え、やがて会話も弾むと思ったからだ。

 妻が店を出た途端、男は死角から出て、カウンター越しに呆気に取られている数人の店員の視線を浴びながら店を出た。妻が言うところの〈一人歩き〉に要する今までの経過時間からみて、家に戻るにはまだ早過ぎたけれど、もう少し跡をつけてみたくもなったのだった。家を出て30分位しか経っていなかった。最低でも残りの3時間以上の時間を、彼女は果たしてどうして過ごしているのか最後まで確認しておきたかった。男の予想では、流石にビッグモッコリのLLセットをふたつも平らげた後だったから、それこそ運動の必要性が確固たるものとなって、〈一人歩き〉を何時間もするのだろうと決め付けていた。もしかしたら妻は、いつも〈一人歩き〉をする前に、駅前のモッコリマックで、今日のようにビッグモッコリにむしゃぶり付いているのではないかと思った。それも趣味である〈一人歩き〉の歩くこと以外の、プログラムのひとつとして組み込まれているのだと。

 案の定、店を出た男は、妻が家とは反対側の方向へ歩いているのを見つけた。人通りの多い、街の中心街の方へと、ウォーキングしているようには見えない、周囲の歩行者と変わらぬ歩の進め方をして歩いて行く。やがて女は赤い提灯を下げた店の中へ姿を消した。

 男が近付くと、そこは一軒のラーメン屋だった。豚骨の脂っこい匂いが店の外まで洩れている。さっきハンバーガーを食べたばかりだというのに、ラーメン屋に入るとは、男は信じ難かった。流石に店の中に入るわけにはいかない。男は建物の陰からラーメン屋の出入口を見張った。妻が出て来るのを見逃さないように待ち続けた。

 30分程して妻が出て来た。やはり食べる為に入店したようだった。女は夫に禁を破られ尾行されている事にも気付かずに、再び街中を歩いて行く。すると女は銀行のATMに立ち寄った。リーマンの男が毎月の給与を妻に渡し、それを預金しているのと同じ銀行だ。妻は出て来ながら、ズボンのポケットの中に片手で何かを捻じ込んでいる仕草を少し見せてから再び歩き出した。

 だが男はまさか妻が夫婦の貯蓄を切り崩しているとは、その時はまだ考えられなかった。というか考えたくなかった。あれは良く出来た嫁なのだから、間違えてもそんなことがあるわけがない。しかし男が妻の跡を追う内に、妻はその後も様々な飲食店に入って行き食事を摂った。ラーメン屋を出た後はファミレスに入った。そこでは1時間過ごした。男も店内に入り妻の様子を盗み見た。女はまた実に色んなメニューを注文し、それを完食していった。男は妻が、大食いのタレントになれば良いと、ドリンクフリーのコーヒーだけでやり過ごしながら思った。

 その後はステーキハウスに入った。その次はモールにあるフードコートへ行き、ミシシッピー・フライドチキンをバーレルごと買い、大量のドリンクと共に店内で食べ始めた。周りの客が気になり、女を見ていた。その後はお好み焼きを食べ、中華料理を食べ、ひとりしゃぶしゃぶをし、天ぷら定食を食し、とんかつ屋に入り、回転すし店に入った。アイスクリーム屋でお腹を壊しそうになるくらいの量のアイスを食べたが、胃に穴でも空いているのかと思うほど、平然とした様子でモールを出て、家の方角へと歩いて行った。外は夕闇が迫り、妻が夫に見送られながら家を出てから、たっぷり8時間以上が経過していた。

 男は打ちのめされていた。浮気ではなかったことが唯一の救いとでも言おうか。しかし、と男は思った。これは妻とふたりで真面目に話し合わなければならないだろう。放っておく訳にはいくまい。尋常ではないからだ。食べた量といい、当初は可愛いとさえ思っていたあの食べ方にしても、まるで獲物に喰らい付く獣の体ではないか。金額だってかなり掛かった筈だ。もしや、こんなことを俺に隠れて毎日やっていたのか?これでは〈一人歩き〉ではなく、〈一人食べ歩き〉ではないか。

 

 

 

 

 

 

 男が家に着くと、妻は既に家に帰り着いていた。男は妻に話しがあるからと言って、テーブルを挟んで向かい合って座った。男が妻に、今日の妻の跡をつけていったこと、多くの飲食店に入って大量の食事を摂ったこと、そして最後に、家族の為に、男の毎月の給料から、その殆どを預けているのと同じ銀行のATMに妻が入って行ったのを確認したことなどを話した。

 女は黙って夫の話しを聞いていたが、男が一通り話し終わり問い詰めると、妻は夫を真っ直ぐに見つめて言った。

 「あれほどついて来るなと言ったのに、あなたは私の言った禁を破り、見てはいけないものを見た。よって、私はあなたとはもう一緒に居ることは出来なくなりました。離婚しましょう。今すぐに」

 男は不意を突かれた格好で、思わず前のめりになると、空いた口が塞がらなかったが、怒りを通り越して、相手にするだけ無駄なものに対して抱く無力感と諦念観で女に言った。

 「別れよう。君の言う通り。今すぐに」

 二人は別れた。後で男が、彼の給与の殆どが残っている筈の、妻が管理していた口座を調べたら、預金残高が12円しか残されていなかった。あの女は俺の給与の殆ど全てを暴食に使ったのだ。何が一人歩きだ。笑わせてくれる。週7日、毎日俺の給与を騙し取り、騙し取った俺の給与から馬鹿みたいに一人で喰い歩いて、家では何食わぬ顔で食卓に着いては少量の米と味噌汁で平然と俺を誤魔化していた。あいつはそうするのが当たり前のように、日々俺を裏切り続けていた。だがそれも半年という短い期間で気付いて良かったのだろう。下手をすれば何年も経過しても気付かずにそのままあの女を信じてカネを渡し続けていたことにも成り兼ねなかったのだから。男は当然怒りを覚えたが、それと同時に己の詰めの甘さを顧みて、自らに責任を感じた。やはりひとりのままで良かったのだ。まともな女もいるかも知れないが、今回のこの女は今まで出会った中で間違いなく最も最悪な女だった。しかもそんな女を嫁に貰ってしまうとは、何という不覚だろうか。この俺としたことが。それとも俺には、はじめから女運など無かったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 それから数か月が経ったある平日に、男は仕事の関係で一人で街の反対側までいかねばならなかった。男は地下鉄を乗り継ぎ、2時間以上掛けてある街に辿り着いた。駅前は人出も多く栄えていた。用事を済ませた後、その日は帰宅するだけだったので、男は腹も空いていたから、普段訪れることのないような界隈の、見知らぬ街の駅前で適当に旨そうな料理屋でも見つけて、昼食兼夕食を摂ろうかと思い立ち、駅の周りをぶらぶらすることにした。とんかつ屋にしようか、焼き肉定食が食べられる、昔からある定食屋にしようか、白い唐揚げを出す中華料理店にしようかと、想いは膨らんでいったが、どこにでもあるチェーン店ばかりが眼に付いて、なかなかそれらしい店が見つからない。電車だから、ビールも呑んで寛げる昔風情のお店が良かったのだが。とそこへ、男は思わぬ人物を目撃してしまった。前に3か月間だけ彼の妻だった女がいたのだ。男の前方数十メートル先を歩き、男には気が付いていない様子だった。男は一瞬反対方向へ、元来た道を引き返そうかと思ったが、すぐに彼を揺るぎのない直観が襲った。あいつは今、恐らく食べ歩きをしているところだ。あいつが今どんな生活をしているのかは知らないし興味も無いが、真実を知ったあの時のように、少し奴の跡でもつけてってみるとするか。それに少しは気の利いた料理屋にでも入って行くかも知れない。いや、やはりそれは無いかな。あんな暴食漢だ。奴はきっと油滓だって大量に喰うだろうからな。

 男はそんなことを思いながらかつての妻の跡を追い始めていた。すると人気の無い路地裏に入っていったので、男もその路地に入った。女は薄暗がりの中、ひと一人いない細い路地を次から次へと急ぐでもなく通り過ぎて行く。あの女は一体何処へ向かおうというのか。男は何時の間にか辺りがあっという間に暗くなったことにも無頓着に、狭いだけの、塀に挟まれた見知らぬ路地を女を尾行しながら思った。家にでも帰る途中なのか。だがあいつの実家は遠くの農村の筈だ。ということは、あれから街を出ずにここで暮らしているのだろうか。俺の住む区域の反対側とは、奴らしい。あいつはまだ俺の方が悪いと思っているのかも知れないな。何て馬鹿な奴だ。一体今までどんな人生を送って来たのか。叔父の言う、ちょっとした農家で、甘やかされて何不自由無く育てられたのかも知れないな。

 女が角を曲がったので、男も数歩遅れて、物音を立てないように角を曲がった。しかしなんて路地だ。一体いつまでこんな路地が続くんだ。いくら旧市街地とはいえ、これはやり過ぎだろ。しかもさっきから塀と電柱と、その上にぶら下がっている古く黄色い常夜灯しかないではないか。

 突然男の目の前に、かつての彼の妻である女が立っていた。

 男は不意を突かれた格好となったが、即座にかつての妻に向かって強張った笑みを作ると、多少の罪悪感を感じながらも、平然と開き直った態度になり、前に立ちはだかる女に言った。

 「いやあ、声を掛けようと思ってついて来たんだけど、タイミングが掴めなくてね。まだこの街にいたんだ」

 男は言葉は乾いた日没後の大気に吸い込まれていくかのように虚しく響くだけだった。女は無表情のまま、じっと男を睨み付けていたからだ。男は不愉快になり、何か言おうとしたその時、女は面が変わった。それはまるで鬼のような恐ろしい形相であった。

 「まさかわたしの禁を二度も犯すとは」

 女のその声は怒りに満ち、聞く者すべてに恐怖を与えた。

 「お前、一度は見逃してやったものを」

 女の顔は化け物へと変化していた。

 「喰ってやる。お前を喰ってやる」

 化け物はそう言ったかと思うと、頭の上がぱっくりと開いて中から何本もの長く巨大な舌が現れた。

 男が叫ぶ間も無く、幾本もの舌は男を捕らえ、男は声を出す事も身動きすることも出来ずに、長い幾本もの舌に巻き付けられた状態で化け物の頭の中に連れて行かれた。化け物の頭が男を吞み込んだまま閉じると、中から男を嚙み砕く咀嚼音だけが不気味に静まり返った路地裏に響いた。

 しかしそれも短い間で、女は再び人間の姿に戻ると、何も無かったかのように路地裏を歩き続けた。やがてその姿も闇の中に消えて見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 幾日かが過ぎたある日、行方不明者名簿に男の名が付け加えられた。