道が四又に分かれる窪地に、雨水が集まって来る。そのどれかひとつの道を窪地まで降りて来ると、路上に張り付いた幾つもの閉ざされたマンホールの蓋の底から、轟々と途切れることのない濁音が、吹き付けて止まない暴風のように急に周囲を覆い出す。地下では降り続ける雨水が物凄い濁流となり、地下を通る排水路を勢いよく流れては、別の排水路と合流するところで激しくぶつかり合い、合流した水路が更に水量を増して激しい流れとなり暗い地下の水路に轟音を響かせながら流れていく。その音は雨の降り続くこの地上の窪地に立っていても鳴り響くようで、マンホールの鉄の分厚い蓋の、ある筈もない隙間か、舗装されたアスファルトの地面全体を揺るがすかのようにして固い地中の中を這って来ているかのように地上まで鳴り響いていた。雨はずっと降り続いていた。もう降り止むことを辞めたようにずっと降り続いていた。それはまるでこの世の終わりを意味していた。雨が世界を覆っていたからだ。雨に覆われてしまった世界には、かつての正常な世界の面影は鳴りを潜め、大量の雨水と共に下水の地下深く、誰も訪れる者の無い不気味で孤独な地帯へと吐き出されていってしまうのだ。そこには宇宙空間に似た空虚さしかない。人間の居住不可能な世界しか残されていない。
私はずっと予期していた。いつかこんなことになってしまうのではないかということをだ。そしてそれは的中した。いつから私はこのように無能な人間になったのだろう。恐らく、永く生き過ぎたのだ。決定的な一瞬は何度か訪れたが、私はそれをすべて見逃してしまったのだ。或いは、見逃さずにいても、そのものの有りのままの姿や真実を、私は本当に見ることが出来なかった。若者には、夢は多い。彼らは沢山の夢を同時に持つことが出来るが、老人の見る夢はひとつしかない。それは、老いてから唯一の希望をそれに託そうとするからだ。ゲーテはそれを理解していた。彼はファウストを書いた。ファウストの願いは若くなり、再び恋をすることだった。悪魔と取引をしてまで、ファウストは一瞬の生の中でもう一度或るひとりの女性を本気で愛そうと試みたのだ。その後永久に地獄で苦しい思いをしても。
私には理解できない。そこまでひとを愛することはできない。それに、老人になれば、そんなことはどうでもよくなる。そうだろ?心安らかに過ごそうとするものではないのか。一瞬の生の輝きの為に、悪魔と契約をしてまで、死後地獄で永久に苦しまねばならないなんて、どう考えても割に合わない。女なんていくらでもいる。グレートヒェンはいくらでもいる。人の一生なんて一度生きればもう十分だ。八百比丘尼だって遂にはこれ以上生きていくことが耐え切れずに死を選んだではなかったか。私はメフィストフェレスにも会いたくなければ、人魚の肉も喰いたいとは思わない。私が望むもの。それは、若い頃も例え老人になってからも変わらないだろう。それは孤独だ。
私は孤独が好きなのだ。足元にある濡れたマンホールの蓋を見つめながら私は思う。これ以上完璧で美しいものがこの森羅万象に存在するだろうかと。それは誰も訪れる者のない、宇宙空間に浮かぶガス惑星のようだ。そこにあるのは人間というよそ者にとっては死しかない。そして星自身にとってはただ気が遠くなるような孤独しかない。誰からも認識されない孤独の中から生まれる。そして余りにも孤独だと、そこから神秘性が誕生する。誰にも理解されない、超越的な世界の片鱗をうっすらと滲ませながら、土星はその過酷な環境を内に秘めている。死の世界に存在する新たな死を。
私はマンホールの丸い蓋が宇宙の孤独な星のように見える。水は窪地に流れ続ける。いつか止むかも知れないこの雨も、今では諦めている人々が殆どだ。やがてこの世界はまた大量の水に覆われてゆくだろう。記された以前の世界のように。そしてまた、もしかしたら新たな世界が生まれるのかも知れない。だがその時には私はもうそこにはいない。生の世界に存在する新たな生が誕生するのであれば、私は死の世界の、新たな死に向けて孤独の旅を続けていくことになるのだから。そこは岩石が大半を占める惑星でも無ければ、毒ガスで形作られたデススターでもない。まだ誰にも知られていない、未知の世界だ。私はそのような時空へ旅立つのだ。そしてこの窪地には、私がいなくなったあとも水が流れ続けていく。このような特別な事態にならなくても、私はそれをもっと早いうちに知るべきだったのだ。この、ついさっきまで確かにあった世界、その中にあった、ある街の片隅を流れる何の変哲も無かった日常の川の動きにも、私はそれを見つけられたかも知れないのだから。だがもう遅い。水は溢れ出し、猛威を振るい、私を何処へ流そうとしている。
街の灯が点燈しはじめたたそがれ時に、私は一頭の白い竜が紫色の空を飛ぶのを見た。竜も私に気付いたようだ。何故なら、私の方を見て、軽く頷いたからだ。その時私の周りには、職場から帰宅していく勤め帰りの者をはじめとする大勢の人たちがいた。彼らは通り過ぎたり、立ち止まっていた者たちだった。だが彼らの誰ひとり、あの竜の存在に気が付いた者は私の他にはいないようだった。私はその白い竜と目が合った途端、すべてを理解したからだ。あの真っ白い、暮れなずむ空を飛んでいる一頭の竜は、私にしか見えていない。だが竜の方は、私以外の者すべてをあの空の上から見ているのだ。その竜が己の存在を見ることができるものを見つけた時、竜はその黄緑色の細長い目で私を見て、軽く頷いたように見える仕草をして見せた後で、私から視線を逸らした。その時の私は、立ち止まり、大空を飛ぶ竜は、紫色に染まった雲の下を飛ぶ竜を見ていた私を、不思議そうな面持ちさえ漂わせながら、ある時不図私と目を合わせたのだ。白い竜は頷いた後、長い胴体を翻させると、南西方面へと飛び去った。それは一瞬の出来事だった。私は白い竜が去っていった空を見つめた。陽が沈もうとしていた。私は暫し突っ立ったまま、舗道の端で現実世界に戻る為の確認作業を始めていた。今日は外で食べて帰ろう。ビールが飲みたい。あの店に寄ろう。暫く行っていない。今起こった事は既に過ぎ去った事であり、後で思い、回想し、考えを巡らしても遅すぎるということはない。もう既に無くなってしまった出来事であるのだから。
店員が現れる。店内は金曜の夕方で、仲間同士飲みに来た客たちの喧騒が早くも渦巻いていた。一人で来た私は、席数の少ないカウンター席に腰掛け、店員にビールと単品料理を注文した。普段はもっと静かで落ち着ける店に行くのが大半だが、空飛ぶ竜を見た後では、巷感が溢れ出すかのような騒々しさに満ちた呑み屋に来た方が、現実味のある世の空気に安易に触れられると思ったからだった。今の私はそういう空間を必要としていた。すると女の店員が来て、ジョッキを私の前に置いた後に言ったのだ。
「もしかしたら、あなたも白い竜を見たのね。実はわたしも」
女がそう言うと、もっこりとした尻ポケットからスマホを取り出して、私にその画面を見せた。
画面には確かに白い竜が映っていたが、それはただの絵だった。正月に、年賀状で印刷されたようなただのコミカルな絵だ。私は訳がわからないまま、あまりよく思考を纏めることが出来ずに、若い女の店員に訪ねていた。
「その絵と俺とに、一体何の関係があるんだい?」
すると居酒屋の若い女のホールスタッフは私に面と向かって高らかに言い放った。
「大ありよ。だってあなたも白い竜を見たんでしょ?」
私はその時になって女店員の顔をまじまじと見つめた。ふざけているのか、何かの企みなのか、私には皆目見当がつかない。その表情には微笑と共にイノセントな雰囲気も漂わせていたからだ。私は訳が分からないまま、女を無視し、女が運んできた生ビールを片手に取って飲んだ。ビールは冷たく、店のエアコンはカラカラに利いていた。店内の騒音が一気に耳に入って来た感覚を感じた。するとその女の店員はどこかへ行ってしまい、私は再びカウンターに一人で向き合った。
私は、私がついさっき暮れなずむ外で見た、私だけが知っていたはずのあの白い竜が、実は他にも知っていた者がいて、それを一人で秘めた孤独から生じた世間恋しさにうるさい店に来たことに対する、思い知らせてやる為に行われた行為であるのかも知れないと思ってみた。そんなのはわたしや他の誰にでも既に知られていたことであり、全然特別なことではないのだと。そしてそんな私を嘲笑うかのように、年賀状の竜を私に見せたのではないのかと。でもだからどうだっていうのだ?もし仮にそうだとして、一体それで何だというのだ?私に対して、あの白い竜は、何の特別な存在でもないと思い知らせてみたところで、彼らにとって、或いは私にとって、一体それが何だというのか。誰かの徳にでも成るとでもいうのか。
私はこんな五月蠅いだけの野卑た居酒屋になんか来るべきではなかったのかも知れないと思った。私はまだ半分残っているジョッキに嫌悪感に満ちた一瞥を送ると、席を立ち、出入口のレジスターの前に来た。レジに立ったのはつまらなそうな顔をした青白い若い男だった。学生のバイトか何かだろう。私はジョッキ一杯分の会計を済ませると、その店を出た。扉を開けて外の廊下へ出ようとした時に、後ろでけたたましい笑い声が響いた。私は逃げるように後ろ手にドアを閉めさっさと外へ出た。
外は陽が暮れて辺りは暗くなっていた。私はただひたすら家路を急いでいた。そうしなければ、また変な女が現れて、それが私の所為であるかのような態度をして、また私に要らぬ要求をしてくるかも知れないからだ。舗道に落ちた私の影が私の意志に反するかのように伸びたり縮んだりを繰り返しながら私を愚弄していた。