前回の続き、である。
日本が生んだボリビアのフォルクローレ・ギターのマエストロ、木下尊惇(きのした・たかあつ)さんの近作CDアルバム3枚を買って聴いたら、心に沁み沁みに沁みわたって涙腺が緩みっぱなしで、言葉にできないくらい感動した――というのが前回のあらすじで、今回は、その感動のいくばくかをもう少し具体的に言葉で表現したいのだが、これが難しい。
まだ自分自身がこの心に沸き起こった感動の整理がついておらず、うまく分析ができないのだ。
百文は一聴に如かず。本稿を読んで下さっている方は、このブログを今すぐ閉じて、「アンデスの家ボリビア」へ在庫確認の問い合わせをするのが、正直ベストな行動だとさえ思う。
だが、いかに変換効率・変換性能が悪くとも、傑作を耳にした今のこの感動を自分なりの言葉へ変換して文字に定着させたいと思い、以下綴っていく。
まず、一連の3つのアルバム全体について。
2020年12月から2023年4月にかけて発売された木下尊惇さんの直近のアルバムである(尊惇さんの略歴等については前回詳しく触れた)。
共通しているのは、70年代から80年代のボリビアのフォルクローレ界の著名曲と(アウトクトナを含む)伝統曲・伝承曲が、曲目の大半を占めていること(一部尊惇さんのオリジナル曲も含むが、それが上記黄金時代のスタンダード・ナンバーや伝承曲と上手く溶け合っている)。
特にギター独奏曲集の2枚「我が愛しのボリビア」(2022年)と続く「ボリビアの道の片隅で」(2023年)は、いずれも、選曲・曲順が素晴らしく、アルバム全体を通して、「一つの物語」を紡ぎだしている。
ネット配信全盛の現代において、曲目・曲順・パッケージの三位一体で一つの統合的な音世界・作品として世に出された「アルバム」の有する価値を世に問うている。
いま「一つの物語」と書いたが、それは多層的な物語でもある。
つまり、アルバムに配された個々の曲には、まず、オリジナルの作者・演奏者の想い(伝承曲ならばその曲が演奏される祭礼等の状況や情景)が込められており、次いで、それをギター独奏に編曲して奏でる木下さん自身の想い(楽曲自体やその作者・演奏者と交流その他、1980年代にボリビアへ渡って黄金期の音楽家たちと様々に関わってきた個人史的な思い出)が込められており、最後にそれを聴く私たち聴き手の想い(この曲を聴いた時代や状況、自身のフォルクローレ経験等の個人的な思い出)が前二者にかぶさり、共鳴・共振して、心に響きわたる。
この3つの想いが、尊惇さんの肩ひじ張らない、しかし卓越した熟練のギターに乗って、互いに重なり合って「我が愛しのボリビア」音楽文化へのオマージュという、一つで多層的な物語を織りなすのである(よって、聴き手の持つ記憶の参加によって初めて完成するアルバムと捉えることもできよう)。
こうした全編を通じての統一感と多様性・重層性、ギター独奏のモノクロ的な世界とモノクロであるからこそ引き立つ豊饒なボリビア音楽文化の世界、それらの調和と対比の重なり・連なりこそが、このアルバムを聴いた時に、私たちが得も言われぬ心地よい感動に包み込まれる理由なのではないのか、と思う。
アルバム「我が愛しのボリビア」に寄せて、サビア・ヌエバ Savia Nueva のセサール・フナロ Cesar Junaro は書いている;
「ギタリストの最終的な目標は、聴く人の想像を、感動に満ち溢れる世界、思いもよらぬ場所への飛翔させることにある。しかしそれは大変に難しいことであり、独奏者であれば尚更のことだ」
木下さんが確かにその域に達していることを、これらのアルバムに収められた諸演奏が如実に表している。
以上で、全体を通して、この一連のアルバムの魅力について、いまの私に言葉で表現できる限りのことは表現した。
以下は、個別の感想のつぶやきである。
上記のように、これらのアルバムは、聴き手自身の音楽経験やボリビアとの関わりの個人史によって、どの曲にどのように共鳴・共振するかが、大きく変わってくると思う。
だから、言うまでもないが、以下は私のボリビア・フォルクローレ音楽経験に根差す、感じ方・受け止め方であり、聴き手によって多様な感じ取り方をもたらすのが、これらのアルバムの汲めども尽きぬ魅力と底力だと思う。
1.「我が愛しのボリビア」(2022年)
もうしょっぱなの1「El Llanto de Mi Madre」から、「アンタ、アンタ、なんちゅう曲を聞かしてくれたんや…( ;∀;)」と、「京極さんの鮎」(by漫画「美味しんぼ」)状態である。エドガル・ヤヨ・ホフレの歌声が脳裏に聞こえてくる。
最後にご紹介するのは、ギタリストである木下さんによる、チャランゴ独奏オンリーの小品(全6曲のミニアルバム)。
ボリビアのフォルクロリスタは、本職以外の楽器も達者な人が多い。例えば木下さんと同じギター奏者のフリオ・ゴドイ Julio Godoy も、ハイラス脱退後から晩年にかけて少なくとも3枚ギター独奏のアルバムを残しているが、その中で数曲チャランゴを弾いている。
なので木下さんのチャランゴが玄人はだしに達者なこと自体に、さほど驚きはないのだが、ミニアルバムとはいえ、チャランゴ独奏オンリーで一枚作ってしまうのは、やっぱり驚きだ。
しかも、十分以上に聴きごたえがある。
1「Piedras Peregrinas」は、エルネスト・カブールのアルバムのタイトル曲にもなり「石の巡礼」の訳で定着しているが、ここでは「巡礼する石ころたち」と訳されている。なるほど「石の巡礼」というと重々しく厳粛な感じがするけれど、本来は、アンデスの風にあおられて、道端の石ころたちが、道をころころと転がりゆく微笑ましい光景を巡礼に見立てて描いた曲だったのかも?と思わせてくれる演奏。
3でドン・マウロ・ヌニェスの「Estudio para Charango」が聴けるのも嬉しい。
だが本アルバムの白眉は、オリジナル曲の4「鳥の舞う木の下のポルカ Polka Bajo El Arbol Donde Cantan Los Pajaros」だろう。
独特の旋回感・開放感がある。自分が佇む木の上をチチチ...とさえずりながら自由に飛び回る小鳥と一体化したような気分になる。聴いた後の余韻がとても良い佳曲だ。
――以上で、全2回にわたる思い出話、雑感とレビューを終わる。
最後までお読みくださった皆さん(いるのかなw)に感謝します。
私も一仕事終えた気分です。
ぜひ、木下尊惇さんの今後の活動に注目していきたい。■