ある荒野において、二匹の大きな鹿が戦っていた。
どちらの鹿も、まるで牛のように体は大きく、
そして何とも立派な角を持っている。
その二匹の鹿は、互いに角を絡ませ合い、
押したり、引いたり、駆け引きが続いている。
どちらも相手に勝ちを譲ろうとはせず、
自分が勝つことばかりに真剣であるために、
戦いはなかなか決着がつかない。
結局、その二匹の鹿は両方とも、朽ち果ててしまった。
実際に、そうした大きな鹿の棲む荒野に行くと、
二匹の鹿が角を絡ませ合ったまま、白骨化していることがあるそうだ。
この二匹の鹿の角を、我々人間の心に譬えたら、果たして何になるだろうか?
それは「自分が、自分が・・・」という心、すなわち執着と言えるだろう。
夫婦仲も、恋人の間柄も、友人関係も、
全ての全ては「自分が、自分が・・・」という傲慢な心、
つまりは執着心によって壊れていく。
今、日本は最大の国難を迎えている。
それは一つには、
幾度となく述べてきた中国共産党による日本侵略であり、
あるいは二つ目は、
民主党の未来への投資と現状の無駄を区別できない政策による不況の拡大であり、
さらに三つ目は、
民主党の支持団体である日教組教育による日本国民の心の荒廃と言えるだろう。
一つ目の話は、幾度となく述べてきたために、あえて省くが、
二つ目、三つ目も深刻だ。
たとえばこのデフレ経済の日本において、
吉野家は値下げを続けているために、
個人でやっている定職屋はなかなか太刀打ちできず、
店じまいをするところが増えている。
それなのにその吉野家自体も、悲鳴を上げているそうだ。
失業率が上がれば、
自然とそうした安い大型のチェーン店も、大打撃を受けることだろう。
不況がさらに深刻化して、失業率が上がれば、
人々は真面目に働く気が薄れ、詐欺や窃盗が増えることだろう。
また日本の教育界も、日教組などに牛耳られているために、かなり問題は深刻だ。
かつては不登校と言っても、学年に一人か二人程度であったが、
今では一クラスに一人や二人が当たり前になりつつあるらしい。
現代の日本における不登校の子どもたち、
彼らは日教組教育による犠牲者だと、私は考える。
つまり大抵の場合が、彼ら不登校児に何らかの過ちがあるのではなく、
日教組にこそ大きな過ちがると、私はそう考えているわけだ。
なぜなら日教組は、「おはよう」という挨拶があることは教えても良いが、
それを朝、言いなさいというのは、強制であり、思想教育である、
などと何とも訳のわからないことを教えている。
つまり彼ら日教組の考えの基本、
それは自由と権利なのだが、
しかし彼らは完全に自由と権利をはき違えているのだ。
たとえば、幼い小学校のうちから、
性器の名称や性行為の行い方を教えることさえあり、
中学生や高校生になると、酷い教師は平然と、
「性行為をいつするのを決めるのは、親や先生ではなく、貴方たち本人です」
などともっともらしく、間違ったことを教えるわけだ。
そして幼い子どもたちは、
「そうなのか。自分の自由でいいのか」
などと考えてしまい、若者の堕胎が増えている。
また彼ら日教組には、性差というものがない。
つまり彼らは、
「男も女も肉体に違いはあれども、心や精神に男女の違いは無いのだから、
『男らしく』、あるいは『女らしく』などと言葉を使うことは、
人権の侵害であり、自由を奪っている」と、
そうした考え方になってしまうわけだ。
そのために、
「体育やプールの際、中学生でも、高校生でも、同じ教室で着替えるべきだ」、
などという発想さえ出てくる始末だ。
まったくもって笑止千万。
まぎれもなく男と女には、魂としての違いがあり、
男が固い枝のような強さを持っている一方で、
時に心折れてしまうことさえある一方で、
女性にはどこまでもしなやかに曲がる枝にように、
また違った強さを確かに持っているのであり、
男女はどちらが上で、どちらが下ということもなく、
右と左、陰と陽の関係である。
こうした狂った教育によって、
イジメや不登校、あるいは時には自殺さえ起こっている。
ある生徒がイジメを苦に自殺して、お葬式が開かれた時、
イジメを行っていた生徒は、罪の意識を感じて後悔したり、
あるいは反省するどことか、お棺の中の亡くなった生徒の顔を見て、
ニヤニヤと笑っていたと言う。
この自殺の一番目の被害者が、自殺した生徒で、
二番目の被害者が、ご両親や遺族や友人たちだとすると、
三番目の被害者は、
日教組教育によって心を腐敗させてしまったイジメを行っていた生徒と言えるだろう。
まさしく日本中の多くの学校が今、すでに地獄となっているわけだ。
いつの時代も、政府が狂った時、
被害を最初に受けるのは、女性であり、お年寄りであり、
そして幼い子どもたちに他ならない。
ならば日本の教育を変えていく政治的な動きと共に、
現状の教育の中で苦しむ子どもたちに、
愛の手を差し伸べ、彼らの成長に手を貸す動きも、
必要不可欠と言えるだろう。
しかし日本国民は無関心だ。
私は同年代で、政治の話がきちんとできる人間を、ほとんど知らない。
100人の友人を集めたら、七割が政治について自分の考えを持っていない。
かつてフランス革命の際、政治家たちはバラバラには座らず、
同じ考えを持った者同士で座った。
こうしたことから、政治的な考え方を、
右とか左とか呼ぶようになったわけだ。
つまり伝統や歴史を大切にする保守的な考え方を「右」と呼び、
時代を進めて革新させていこうとする考え方を「左」と呼ぶわけである。
しかし多くの日本国民が、文字通り右も左も分からない。
なんとも情けない現状だ。
その証拠に、昨年私も、負けを知った上で、
あえて衆議院選挙に出馬したが、
多くの日本国民が、
「自民党がダメだったから、一度民主党に任せてみよう」とか、
「自民党にお灸をすえる意味で、民主党に投票した」などと、
なんとも愚かなことをホザいた。
しかし自民党と民主党は、政治的な考え方が右と左で正反対である。
自民党は右であり、そして社会党という政党が左であった。
そしてその社会党が社民党へと名前を変える際、
横路孝弘という者を筆頭にして多くの議員が社会党を去り、横路グループを作り、
そして戦術に長けた小沢グループと手を組むことによって築き上げてきた政党、
それが民主党である。
だから民主党の政治的な考え方は、左であり、社会主義である。
つまり昨年の夏、自民党政権が崩壊して、民主党政権が誕生したということは、
この日本において、ついに社会主義革命が起こったということであり、
マルクス革命が僅かばかり成功した、ということである。
大人には子どもたちを守り、そして育てていくという社会的使命がある。
そのために、二十歳を超えたら、
「一応は政治的な判断が下せる大人になっているだろう」
という考えのもとに、一人一票が与えられているのだ。
しかし今の日本の大人たちは、政治について右も左も分からず、
そして子どもたちを守るという使命が全く果たせていない。
自分の持っている選挙権の正しい使い道を日本国民は知らないのだ。
そのために、イジメを生み出し、不登校を呼び起こし、
そして時には幼い命が自ら絶たれている。
ならば日本の大人たちは、ただ大人の素振りをしているだけで、
本当は子どもなのかもしれない。
実は本心を明かすのならば、
私は、政治について右も左も分からない人間を、ガキだと思っている。
むしろ小学生でも、中学生でも、政治ついて基本は知っている人々を、
大人だと思っていて、彼らにこそ選挙権を与えるべきだと思う。
自民党と民主党の違いも分からず、
「自民党がダメだったから、一度民主党に任せてみよう」
などと考えている者は、クソガキ以外の何ものでもない。
なぜなら子どもたちを守ることもできなければ、
日本を滅ぼす勢力に手を貸しているのだから。
「自分が、自分が・・・」と、自分のことばかり考えて、
天下国家について何も考えず、
そのために政治については、
右も左も分からないガキどもの集まりと成り果てた国、
それが日本だ。
そのために今、この国はゆっくり、ゆっくりと滅びようとしている。
9月に民主党の代表選挙が行われるらしい。
この不況期において、
この学校が腐敗して子どもたちが苦しんでいる時代において、
この中国共産党による日本最大の国難の時に、
まだ愚かな政治家どもは、
政(まつりごと)を知らず、
「自分が、自分が・・・」と権力争いを続けている。
しかしそうした愚かな政治家を選ぶのは、
「自分が、自分が・・・」と、
自分の生活や遊びについては真剣に考えても、
世の中のこと、自分たちの国のことについては何も真剣に考えない、
クソガキである我々日本国民だ。
もし、小沢一郎が勝つようなことになり、小沢首相が誕生したら、
小沢政権は、
右も左も分からずに利用されているだけの鳩山政権よりも、
左の思想を明確に持っている菅政権よりも、
はるかに恐ろしい政権となることだろう。
なぜなら小沢氏は、確実に独裁者タイプであり、
おそらく次々と、これまで民主党が行えなかった政策を、
断行するエネルギーを持っているからだ。
外国人地方参政権も、人権擁護法案も、国会法改正案も、
そして地域主権と沖縄の一国二制度・・・。
まさしく日本は中国共産党に侵略され、
日本は日本国民の愚かさによって終わりを迎える。
日本国民が己の無知さによって、日本を滅ぼすのである。
私が日本国民に対して言いたいこと、それは一つだ。
己の無知さを恐れよ。
せめて政治について右と左についての基本くらい知るべきである。
そうでなければ日本は滅び、苦しみを受け取るのは、我々日本国民に他ならない。
すでに「この国には革命が必要である」と述べた。
そしてそれは「暴力を伴うようなマルクス的な革命ではなく、
日本国民一人一人の心の革命である」とも述べた。
では「心の革命」とは何か?
それはクゾガキと成り果てた我々日本国民が、
「自分が、自分が・・・」という執着心を少しずつでも取り除き、
そして天下国家のことを少しでも真剣に考えていく、
そんな心の革命に他ならない。
二匹の鹿が荒野で朽ち果てたように、
今、この国も滅びようとしているわけだが、
その執着心という角を取り除くという心の革命が、
この日本には必要なのだ。
「自分が、自分が・・・」と、自分のことしか考えず、
日本国民、とくに日本男児が、
天下国家のことをもう少し真剣に考え始めた時、
この国に大和魂は蘇り、日本は国難を打ち払うばかりか、
この国はさらに発展繁栄して、
女性も、お年よりも、そして子どもたちも、
何とも住みやすい世の中となることだろう。
私はただ、そんな時代が見たいだけである。
その心は、
「おもしろき ことも無きを世を おもしろく」
と詠んだ高杉晋作と同じである。