霊的真理を知り、大和魂を持つ者にとって、死など恐るるに足らない | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

さて、様々なことを述べさせて頂いてきたが、
修身編はこれが最後となり、次回からは改革編が始まる。


この最後の話も、
「この世が全てであり、死んだら全てが終わりであり、心など対した値打ちを持っていない」
と、考えている人からすれば、驚くべき事実であり、
唯物的価値観に染まって他人を苦しめながら生きている人からすれば、
大変、耳の痛い話かもしれない。


しかしこの日本最大の国難の今、日本国民、
とくに日本男児に求められていることは、
心の奥に眠りし大和魂を蘇らせることであり、
そのためには一人一人の己の心との対決、
そして修身ということが欠かすことはできない。


ならばそのために、現代の唯物的価値観とは、
かなりかけ離れた話ではあるが、あえてそうした話をさせて頂く。


マルクスが『共産党宣言』を出版した1848年を皮切りに、
スピリチュアルのうねりがアメリカやイギリスで始まるわけだが、
しかし実はスピリチュアルのうねりはそれ以前にもあった。


スピリチュアルの歴史に最初の大きな波を起こした人物として、
ヨーロッパ最大の霊能力者と誉れ高い、
エマヌエル・スウェーデンボルグというクリスチャンがいらっしゃるだろう。


彼は学者として数々の成功を治めていたが、
しかし五十七歳という高年齢で、突如として霊能力に目覚めて、
全く異なった活動を開始したのだ。
彼はなんと金魚鉢の中の金魚が、蜂を飛び出して外の世界を探検するがごとく、
魂が肉体から抜け出して、三次元世界を飛び越えて、
天国や地獄と呼ばれる霊界世界を幾度に渡って見て来たというのだ。


つまり彼は、臨死体験とは少し異なり、何度も霊界を探訪してきたというわけだ。


そして彼は、そうした霊界探訪の様子を、書物という形で発表し続けた。


確かにエマヌエル・スウェーデンボルグが語った内容は、
現代の科学社会を生きる我々にとって、お伽話の様な話でもあるから、
簡単には信じられないかもしれない。


いや、「魂が肉体から抜け出して、天国や地獄を何度も見てきた」、
なんて話は、馬鹿馬鹿しく聞こえる人さえいることだろう。


では彼は人々を欺き、世を混乱させ、後世の人々を恐怖に陥れるために、
欲望と意地悪で、
そういった内容の本に書いたのだろうか?


自分がお金を儲けるため、人から注目を集めるため、有名に成るために、
彼は適当な嘘と偽りを述べたのだろうか?


確かに世の中には、大した霊能力が無いにも関わらず、
「人から特別な人間に見られたい」という理由から、
世にも稀な霊能力がある素振りをみせる、そうした詐欺師も数多くいるが、
ではスウェーデンボルグという人物も、そうした人々と何ら変わらない、
つまらない人間であったのだろうか?


もしも現代という時代において、
「霊界を探訪して来た」なんてことを公の場で堂々と語る人がいるならば、
おそらく「可愛そう」とか、「ご愁傷様」とか、
「インチキ」などと言われることだろう。


では彼が見てきた天国や地獄の世界とは、
果たしてどんなものであったのだろうか?


我々は「あの世」という言葉を耳にすると、
ついついオドロオドロしい世界、
あるいは何か意識のもうろうとした世界、
つまりは目の前に膜の掛けられたはっきりしない世界、
もしくは何かこの地上に比べれば、遥かに面白みのない虚無な世界、
そんな世界を創造するものだ。


しかし彼が見て来た天国と呼ばれる世界は、
そこにいる住民たちは心清らかで、
さっぱりとしていて、明るくて、花の咲き乱れる美しい世界であった。


しかも天国には、この地上にある天国的なものであるならば、
霊界に無いものなど何一つなく、それは素晴らしく明るい世界であった。


しかし地獄と呼ばれる世界は、人々の心はジメジメネチネチと荒廃しており、
その心は憎悪であり、復讐であり、貪欲であり、
残酷であり、嫉妬であり、暴力であり、
不信であり、情欲であり、愚痴であり、
怠惰であり、臆病であり、そしてその世界は悪臭を放ち、
糞や尿がまきちらされた、闘争と破壊の暗いスラムの様な世界であったのだ。


天国の人々は互いに優しく気遣い合いながら生きているので、
美しい秩序ある世界を形成しているのに対して、
地獄の人々は自分のことだけしか考えずに生きているので、
暴力と恐怖によって互いに押さえつけ合いながら生きている。


そのために隙を見せると、
その力関係が簡単に崩れて、
強者と弱者が入れ替ることのある世界であったというのだ。


そして心が覆い隠された地上世界では、
天国の住人も地獄の住人も共に生活することができるが、
しかし心を偽ることのできない霊界世界では、
天国の住人と地獄の住人は、
共に生活を続けることは絶対にできなかったそうだ。


実はこうした彼が見て来た天国と地獄の様相は、
仏教の語る天国と地獄の様相と、とても共通する部分がある。


その証拠に、近代日本最大の仏教者と呼ばれる鈴木大拙氏は、
クリスチャンであるスウェーデンボルグに高い評価を与えると共に、
彼の著書の翻訳までしているのだ。


仏教徒がキリスト教徒を高く評価し、
そしてキリスト教徒の描く、「天国と地獄」の著書の翻訳をしたわけだ。


ではスウェーデンボルグは人々を混乱させ、恐怖に陥れるために、
「自分は天国と地獄を見て来た」と語るような、
そうした精神に異常をきたした人物であったのだろうか?


もしも彼が精神に異常をきたしていて、人格的に問題のある人物ならば、
たとえ天国や地獄を描写する本を書けたとしても、
おそらくは一冊や二冊であるはずだ。


しかし彼が書いた、そうした霊界探訪の書籍は、一冊や二冊などではなく、
軽く百数十冊を超えている。


そしてその内容は膨大ではあるが、常に一貫していて、一つも矛盾するところがない。


こうしたことから、彼がデタラメな虚偽を述べているのではなく、
一つの真実を伝えようとしているのであり、
また「人々に真理を伝えたい」という、彼の熱意を感じとることもできるはずだ。


ではスウェーデンボルグはお金が欲しかったのだろうか?


彼は注目を集めたかったのだろうか?


あるいは彼は人々から何らかの賞賛が欲しかったのだろうか?


いや、彼は決して詐欺師ではない。
なぜなら彼は、既に富や名誉や地位に溢れた人物であったからだ。


スウェーデンボルグは当時、ヨーロッパ最大の学者であり、
数学、物理学、天文学、宇宙学、鉱物学、
化学、治金学、解剖学、生物学、地質学、
自然史学、そして結晶学においては創始者でもあった。


だから現代であれば、もしかしたらノーベル賞を十個も、
二十個も受賞したかもしれない超天才であったのだ。


そうした当時の北欧第一の教養人・文化人であり、
そして科学者であり、さらには大成功を治めた人物が、
果たしてそれらの成功を捨て去り、世の中から嘲笑され、
批判され、抹殺される危険すらあるのにも関わらず、
百数十冊にも及ぶ書籍を、虚偽で書くはずもない。


何の成功も治めておらず、教養も科学知識も無い人物が、
「自分は天国や地獄を見て来た」と語れば、
何か邪な想いがそこにはあるのでは?と、そう疑いたくもなるが、
しかしスウェーデンボルグは当時のヨーロッパでは、
知らない人は誰もいないほど有名な人物であり、
数々の輝かしい成功を捨て去る危険を犯してまで、
自分が見て来た霊界世界を人々に伝えようとしていたのだ。


では彼の持っていた霊能力は、
果たして如何なるものであったのだろうか?


彼は霊能力者として本物であったのだろうか?


彼の霊能力が本物であったと想わせる、こんなエピソードがある。


スウェーデンボルグはある時、王妃から皮肉混じりでこの様に言われた。


「もし本当に霊が見えるのなら、亡くなった兄によろしく伝えて下さい」


するとスウェーデンボルグは、王妃の耳元で何かをささやいた。


王妃は体を振るわせながら、周りにいた人々にこう言ったそうだ。


「今、彼が私に告げた内容は、私と兄だけしか知らないはずです」


またある晩に彼が友人たちと食事をしていると、彼は突然興奮して立ち上がった。


そしてそこから480キロも離れた彼の住んでいる町が、
大火事になっていると彼は言うのだ。


さらに自分の家の近所にまで火は迫っていると彼は語る。


彼の周りにいた人々は、ただ動揺するばかりだ。


しかし少しすると今度は、自分の家の三軒手前で火の手は消えたと言った。


こうしたスウェーデンボルグの言葉は、
二日後に火災の現場検証によって、真実であったことが証明された。


なぜなら火事が起こった時間は、
彼が最初に火事が起きていると言った時間と全く同じであり、
消防隊が行った火事の報告と彼の語った内容は、
詳細な点まで一致していたからだ。


こうした事件によって、彼は当時の多くの人々を驚かせた。


そして彼の霊能力が本物であるのか、
それを検証しようと哲学者のカントも名乗りをあげだ。


そしてカントもスウェーデンボルグの優れた霊能力を、
自分の著書の中で
「いくつか理解しがたい部分もあるが、
 しかしすべてを総合して考え合わせると、やはり信じざるを得ない」
と、高く評価していた。


また彼の共鳴者の一人である三重苦の奇跡の人、ヘレン・ケラーはこう言っている。


「私にとってスウェーデンボルグの教義のない人生なんて考えられません。
 もしもそれが可能であるならば、
 心臓が無くても生きていられる人間を想像すれば良いでしょう」


ヘレン・ケラーという女性は、
三重苦という自分の重い障害を乗り越えただけではなく、
他の障害を持った方々に対してまで勇気を与えるために世界各地を飛び回り、
また人類の障害者福祉の向上に貢献してくださった方であり、
歴史に残る素晴らしい人格者でもある。


もしも彼女が努力をして下さらなければ、
現在の障害者に対する福祉は、
もっと酷いものに成っていた可能性は極めて高いと言える。


スウェーデンボルグという方は、
そんな彼女に「心臓」と褒め讃えられるくらいに多大な影響を与えていたのであり、
つまりヘレン・ケラーはスウェーデンボルグの教義を通して、
キリスト教を信仰していたのだ。


すなわちスウェーデンボルグの語る内容は、
確かに信じ難いものであるが、
しかし彼の語る内容は数百冊を通して、
決して何一つ矛盾することなく常に一貫していて、
そしてその内容は近代日本最大と呼ばれる仏教学者からも支持されていた。


しかも彼自身は、既に科学者としても大成功を既におさめていたし、
さらに彼の霊能力は、哲学者カントなどによって多くの人々からも認められていた。


しかも彼は、ヘレン・ケラーなどの人格者にさえも、
「心臓」と褒め讃えられるほどに影響を与えていたのだ。


こうした様々な要素を踏まえてみると、
現代の唯物的価値観からは信じがたいことかもしれないし、
普通に生きる我々には、到底あり得ないことであるけれども、
スウェーデンボルグは霊能力によって、天国や地獄を見てきたと考えるのが自然だ。


スウェーデンボルグは次のように言う。


「天国と地獄という二分する世界がただ存在するのみではなく、
 こうした世界は、その心境に合わせた様々な世界があり、
 そしてそうした霊界とはどこか遥か遠い天空や地中にあるのではなく、
 我々が今生きている世界の中に、同時に存在しているのだそうだ」


これは数学者のリサ・ランドール氏の
「宇宙とは三次元空間+(プラス)時間などという簡単な構成ではなく、
 宇宙は我々の目には見えない次元が確かにあり、
 そしてその世界は、我々の三次元世界に、何らかの影響を及ぼしている」
という意見とも噛み合う。


さて、天国があり、地獄があり、
己の想いと行い次第で、
自分が還っていく世界が異なる、というならば、
どうして己の心を放置して生きることができるというのか。


天国と地獄が異次元世界に現実に、そして同時に存在しているというならば、
どうして己の想いと行いを振り返り、
善に生きようと努力せずに生きることができるというのか。


今、この日本には、己の心との対決を忘れ、
心の赴くままに、あるいは感情や欲望の向かうままに、
自己中心的に生きている人々も、大勢いるだろうが、
しかしそうした人々はただ知らないだけなのだ。


ただ無知なだけなのだ。


自分が死後、己の想いと行いによって、
あるいは己の人生によって、
天国や地獄に還っていくことを。


この霊的真理を、ただ知らないだけの人間が、たくさん溢れかえっているのだ。


そのために「正しい心」という言葉の意味が完全に忘れ去られ、
「修身」ということもまた、人々から忘れ去られている。


しかしどんなにうまく法律の穴をかいくぐり、
検事や判事を誤魔化すことができたとしても、
水が重力に引かれて高き処(ところ)から低き処へと流れ落ちていくように、
自然法則を欺くことなど到底不可能であり、
真理は誤魔化すことも、欺くこともできない。


そして我々人間とは、たかだか数十年の人生を生きて、
そして肉体が滅んだらそれで消滅してしまうような、
そんなくだらなく、はかなく、虚しい存在ではなく、
たとえ肉体が滅び去ろうとも、魂は生き続け、魂を成長させている、
そうした尊い値打ちを持った存在なのである。


もしも天国や地獄が無く、そして転生輪廻も無いならば、
この世界は、なんとつまらない世界だろうか。


なぜなら悪いことをしても、その報いを受けることなく、
逃げた者勝ちであるし、
あるいは誰かに騙されたり、陥れられたり、殺された被害者たちは、
ただただ可愛そうな存在だけで、
二度と人生を満喫することもできないではないか。


しかしそうではなく、
ボールを壁に投げれば、「作用反作用の法則」という物理の法則にしたがって、
必ずボールが跳ね返ってくるように、
我々人間は、他の人々に与えた喜びも、苦しみも、
必ず自分自身に返ってくるのであり、
そうした原因と結果が、常に連鎖した因果応報の世界の中で、
魂修行をしているのである。


もちろんその結果から原因までは時間がかかるために、
他人を苦しめながら生きても、あるいは他人に愛を与えながら生きても、
全ての報いを受け取ることはできずに、人生を終えることなど山のようにあるだろう。


しかし原因と結果の自然法則、
つまり仏教で言うところの「因果の理法」は、
なんぴとたりとも、誰一人としてくらますことはできない。


この事実をきちんと知った時、

今、日本で流行しているオレオレ詐欺、
あるいは無差別通り魔殺人、政治家や企業の汚職など、
恐ろしくて誰も行えないことだろう。


そしてもしも自分自身が、
己の想いと行いを振り返り、
己の人生を振り返り、
「自分は善なる人生を少しでも生きようと努力してきた」と、
そう感じることができたのならば、
どうして「死」というものを恐れることがあるというのだろうか。


地獄に落ちていく人間にとっては、
この「死」というものは、悲劇と恐怖の始まりであり、
彼らにとって「死」は最悪な出来事であり、
最も恐れるべき出来事であるだろうが、
しかし日々、善なる人生を生きていこうと努力する者にとって、
「死」というものを恐れるということは、
幼い子どもが注射に怯えて泣いている姿にも似ている。


確かに子どもからすれば、いや大人にとっても、注射針は痛いだろう。


これと同様に、日本を護るために命がけで生きて、
そして中国共産党工作員にリンチされて殺されたら、
その瞬間は確かに痛いことだろう。


しかし多くのキリスト教徒たちが、
十字架にかけられ、手足に釘を打ち込まれたように、
あるいはかつては多くの日本男児が、
切腹して、時には自分で腹部に刃を突き立てように、
その瞬間だって確かに痛かったことだろうが、
しかし痛みなど注射の痛みと同じで一瞬であり、
死や痛みの恐怖にかられて、
その場で信仰を捨てたり、志を捨てたら、

後悔は永遠に続く。


ならば永遠の後悔をしないために、
あるいは無様な姿をさらけ出さないために、
我々は霊的な人生観を築き上げて、
そして修身を心がけて生きていくべきではないだろうか。


なぜなら霊的人生観を築き上げ、
そして修身を心がけて、善なる人生を生きようと努力する者だからこそ、
死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死すべし、
生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつまでも生くべしと、
生死を度外視して、死を恐怖することなく戦っていくことができるからだ。


霊的真理を多少なりとも知る者だからこそ、
真実の大和魂を持って、
優しく勇ましく戦って生きていくことができるからだ。


時代を超え、土地を超え、民族や人種を超えて、
これほどまでに多くの人間が、
霊の存在証明を行い、
転生輪廻(生まれ変わり)の証明を行い、
天国地獄という霊界証明を行っていることを、
我々人類は、もうそろそろ、
時代の常識に流されることなく素直に受けとめるべきである。


そして中途半端に発達した科学に慢心して、
「霊など存在しない」などと述べている愚かな知識人たちを、
むしろ哀れに思うべきである。



そうやって我々は、霊的人生観を築き上げていくからこそ、
この日本最大の国難の最中において、
家族のため、友人のため、恋人のため、そして自分のためにも、
優しくそして勇ましく、この国を護っていくことができるのだろう。



かつて私は、「私の心臓はここにある」と、

つまりは、「殺せるものなら殺してみろ」と、

そう中国共産党を煽る内容の発言を、

あえて行なったことがあるが、

もしも私が、たとえ狡猾な手段で殺されて、

しかしその死によって国難が日本中に知れ渡り、

日本の国難回避に役立つのならば、

私は生涯に何ら悔いを残すことなく、喜んで先に天に還るだろう。



私の死生観など、そんなものであり、死など恐るるに足らない。