スピリチュアルの歴史の中で、
木内鶴彦氏に負けないほどの変わった臨死体験をされた型がいらっしゃる。
それはダニオン・ブリンクリーという方がされた臨死体験だ。
ダニオン・ブリンクリーはアメリカの方で、
ベトナム戦争の時には自分の国のために、数々の手柄をたてた。
そんな彼は軍隊を退役した後に、
電話中に雷に打たれて5時間ほど死んだのである。
そしてその中で彼は臨死体験をされて、息を吹き返したのは死体安置所だった。
臨死体験の中で彼は、トンネルの様暗闇の中を光に向かって突き進み、
足を動かしている訳ではないのに猛スピードで移動していったそうだ。
そしてやがて暗闇が消え去ると、彼は光の楽園にいた。
その光の明るさは、それまで見たことのないほどの明るさであったと言う。
しかしなぜか不思議なことに、
暗い所から急に明るい光の中に出た時に感じる目の痛みは少しも無く、
むしろその光は目を和らげるものだった。
そこで彼は、男性にも女性にも、天使にさえも見える
「光の至高の存在」に出合ったそうだ。
そして彼はその光り輝く天使のような存在から、
自分のこれまでの人生を全て見せられた。
しかしその自分の人生の回想は、
初めから終わりまで楽しいものとは決して言えず、
むしろ胸の悪くなるような現実を、彼は目の前に突き付けられたのだ。
つまりいかに自分が傲慢で嫌な人間で、利己的な人間で、
間違った人生を生きてきたのか、それを彼は嫌というほどに思い知らされたのだった。
まず最初に見せられたのは、荒れ果てた子供時代だった。
そこで彼が見せられた自分の幼い頃の姿は、
意地が悪く、他の子供の自転車を平然と盗んだり、
同級生に対して惨めな思いをさせたりしていた。
中でも小学校の頃、
首から腫れ物が突き出ている病気の生徒に対するいじめの場面が、
彼にはもっとも鮮明だった。
他の生徒達も、その病気の生徒をいじめてはいたのだが、
彼のいじめ方が一番ひどかったのだ。
当時の彼は、からかい程度のつもりであったが、
彼はその一件を見せられている間、いじめられているその生徒の中に入り込み、
自分がその子に与えた惨めな想い、悲しみや苦しみを、
全て自分の感覚の様に感じ取ったという。
また彼は大変に乱暴者であったために、5年生から12年生にかけて、
少なくても六千回は殴り合いの喧嘩をしていたそうだ。
しかもどの喧嘩も、ほとんどが自分から相手にふっかけるようなものばかりであった。
そして臨死体験の中で彼は、自分の人生を振り返っている間、
その一つ一つの喧嘩を再び体験したのだった。
しかしかつての時と大きな違いがあった。
その大きな違いとは、臨死体験での彼は被害者の立場になっていたのだ。
つまりパンチを与えるのは自分なのだが、
相手が倒れた瞬間に相手の体の中に入り込み、
相手の心の中に沸き起こった苦しみ、悲しみ、屈辱を、
彼は全て自分の感情のように感じ取ったのだという。
そして自分が手に負えない子供であったために、
両親に与えた苦しみや悲しみまでも、彼は臨死体験の中で感じさせられた。
彼は自分のことだけしか考えない自分本位の行為が、
いかに他の人を苦しめていたのかを切実に思い知らされた。
なぜなら一つ一つの喧嘩を鮮明に、6000回も繰り返されたからだ。
それはまさしく地獄の思いであった。
「相手を倒す」という自分のつまらない満足感のために、
他の人を苦しめた罪深さを、彼は嫌というほどに教えられたのだ。
そして彼は、大人に成った自分が、
ベトナム戦争に従軍しているかつての姿をも回想させられた。
ベトナム戦争中、彼は「敵軍の大佐を暗殺せよ」という命令を受けた。
そして彼はその大佐から遠く離れた所に狙撃場所を設けて、
狙撃のチャンスを伺ったのだ。
翌朝、敵軍の大佐の部隊が、整列してその日の行動の確認をしていたので、
彼は高性能の狙撃ライフルの照準を大佐の頭に合わせて、
何もためらうこともなく引金を引いた。
一瞬、間を置くと、遠くで大佐の頭は吹き飛び、驚く隊員たちの前に、
体をがっくりと倒れ込ませた。
狙撃を果たした彼は一目散にその場から逃げ帰り、
そして上官に報告をしたかしないうちに、もう次の命令が下されたために、
彼はその出来事をすっかり忘れていたのだ。
当時、彼が体験したのはそこまでだった。
しかし臨死体験での回想の時は、話が違う。
喧嘩の時と同様に、やはり彼はベトナム軍の大佐の身になって再体験するのだ。
大佐が頭を吹き飛ばされて、そして死んだ瞬間、
彼の心と大佐の心は一つになった。
突然に自分の頭が吹き飛ばされた時の戸惑いと混乱、肉体を離れて、
「もう二度と自分は家には帰れず、家族にも会えないのだ」
という悲しみや苦しみまでを、彼は自分のことのように感じた。
いや、それだけではない。
死亡通知を受け取って落ち込む家族の悲しみ、
家の働き手を失った家族の未来への不安、
そうした第三者の様々な感情さえも、連鎖して彼は感じたという。
国の為にやったことであろうとも、
手柄に成ったことであろうとも、
出世のためにやったことであろうとも、
自分達人間の勝手な都合で行なわれた愚かな行為が、
全てそういった具合に再現されたのだ。
そして彼はやがて後悔の中に、深く深く突き落とされていった。
またアメリカとソ連の冷戦時代において、
彼はある時、アメリカに同調していなかったある国の役人を暗殺するために、
その役人の滞在先のホテル付近で、狙撃するチャンスを伺っていた。
しかしその相手の役人は、厳重にボディガードなどに囲まれているために、
なかなか狙撃することができない。
そこでたまりかねた彼等の部隊は、狙撃から方針を変えて、
その役人の滞在先のホテルに爆弾を打ち込んで、ホテルごと吹き飛ばすことにした。
もちろんのことだが、暗殺予定の役人以外にも、
そのホテルには他の滞在客や従業員がいたから、
合わせて五十人ほどの人間を巻き込むことになったのだが、
しかし当時の彼は、その一件に対して、
「正義の国アメリカを敵に回した奴と一緒に居たのが悪い、死ぬのは当然の報いだ」
と開き直り、死んだ人たちに対して少しも同情する気持ちを持たなかったのだそうだ。
しかし臨死体験の人生の回想の時は、やはり話が違う。
自分の人生が、突然に断ち切られた人々の様々な感情が次々と彼に押し寄せてきて、
彼は圧倒されて、「正真正銘の恐怖」というものを感じ取ったという。
もちろんそれだけではない。
突然、最愛の人を失った家族や恋人など、
多くの人々の悲しみや苦しみが彼に伝わってきた。
そしてさらに驚くことに、
多くの人間が一瞬にしてこの地上から消え去ったために、
未来の世界に受けた「損失」までも彼は感じたというのだ。
まだ彼の恐ろしい人生の回想は続いた。
中米のある国で、彼は武器の荷を下ろしているかつての自分の姿を見せられた。
その武器は冷戦時代にアメリカの友好関係にある国と、
ソ連との間の戦争で使われる予定のものであった。
彼の任務は、アメリカから武器を飛行機で輸送することだけであったために、
武器の輸送が完了すると、すぐさま彼は飛行機に乗り込み帰国した。
しかし臨死体験の回想の中では、そう簡単には彼はその場から立ち去れない。
彼は武器と共にその地に残り、その武器が部隊に分配されるところを見守った。
そしてそれからその武器を実際に使って、人殺しが行われた地獄の現場まで、
彼はついて行かなければならなかったのだ。
そこで彼は、何の罪のない多くの人々が、
誰かの都合で「罪人」と決めつけられて、
虫けらのように次々と殺されるおぞましい光景を、嫌になるほど見せつけられた。
父親が殺されて泣き叫ぶ子供の姿など、その中では当然であった。
すなわちその戦争や殺戮における自分の役割が、
いかに恐ろしい結果を生み出していたのかを、
彼は臨死体験によって初めて思い知らされたのだ。
自分が直接手を下して、人を傷つけ苦しめていないことであろうとも、
何らかの役割を果たして、殺戮や戦争に貢献しているのであるならば、
「結果としてはあまり変わらない」という真実を、彼は突きつけられた。
しかしダニオン・ブリンクリーが臨死体験の中で見たそれらの人生の回想は、
全てが悪いものであった訳ではない。
たとえばある時、彼が叔父と一緒に車を走らせていたら、
見知らぬ男が、山羊を殴っているところに出くわした。
男は山羊の背中を力まかせに何度も叩いていたので、
山羊は恐怖と苦痛から、震えて鳴き叫んでいた。
彼は車を止めると、その男が振り返る前に後頭部を思いっきり殴りつけて、
叔父が止めるまで、殴りつけるその手を止めなかったのだそうだ。
そうして山羊を男から逃がしてやると、彼と叔父は急いでその場を離れた。
なんとも強引な手段ではあるが、彼は暴行を受けている山羊を、
凶暴な男から助け出したのだ。
臨死体験の中でその一件を回想させられた時、彼にはその男が感じた屈辱感と、
山羊が感じた安堵の喜びが伝わって来たという。
そしてさらに驚く事に、山羊が自分なりの言葉で「ありがとう」と、
彼にお礼を言っているのが分かったというのだ。
つまり彼は人生の回想の中で、直接、間接を問わず自分が行った行為によって、
相手に与えた感情のみならず、
自分の行なった出来事によって、第三者が感じた感情までも、
それが時には動物であろうとも、自分の感情の様に感じ取り、
そしてそれどころか未来への影響さえも、彼は見せつけられたのだった。
そして彼は、他の誰かを苦しめるということは、
結局は同時に自分を苦しめる行為に成り、
そして他の誰かを喜ばせるということは、
結局は自分をも喜ばせる行為に成るのるのだと教えられた。
すなわち我々人間という生き物が、
いかに他の人々と深く影響し合っているのかを、
彼は臨死体験を通して教えられたのだった。
それまでの彼は、自分は正しいことをしているのだと考えていた。
「愛国心」という名のもとに、多くの人間を殺し、
または多くの人間が殺される手伝い行い、
それを何も悪びれずに彼は生きてきたのだ。
もちろん彼だけが特別な悪人である訳ではないだろう。
なぜならそれが、愚かな我々人間が造り上げた、
当時の時代背景であったからだ。
もし彼がやらなければ、彼の代わりに他の誰かが、同じ行為を行ったのだろう。
また彼が行わず他の誰かがやらなければ、
自分たちの国が敵国からやられてしまう可能性さえある、
そんな危険な時代であった。
しかし臨死体験によって、己の人生を回想している時、
彼は自分の行為がいかに残忍で、いかに愚かで、
いかに自分勝手であるのかを思い知らされた。
そして自分達が勝手に「敵」だと決めつけている人間であったとしても、
それは人間たちのつまらない自我我欲によって、
勝手に決めつけているだけに過ぎないのだと、彼は教えられた。
そして彼にそうした人生の回想を見せている、
男性にも、女性にも、天使にも見える「光の存在」は、彼にこう言ったという。
「私たち一人ひとりは、人類という大きな輪なのです。
そして貴方の行動は、その同じ輪の中にある他の人に影響を与えるのです。
人間は人生での行いには気をつけるべきです。
なぜなら死んだ時、自分がやってきた行為を、
もう一度目にしなければならないからです。
しかもその時は、自分が受身の立場になっているのです」
彼はこうした臨死体験を通して、自分の送って来たこれまでの人生が、
確かに仕事において出世を果たし、富も得て、地位も掴んだかもしれないけれども、
他人に対して優しさを向けない心の貧しい人生であったことを、
嫌という程に教えられた。
手助けが必要な人間に対して、僅か1ドルを渡す愛すらなく、
自分一人だけが中心で、他の人々の不幸や涙には無知であり、
世界の平和などには眼中にすらなかった、
そんな傲慢な恥ずかしい人生であったことに、彼は気が付いたのだ。
そして彼はまるで、『クリスマス・キャロル』という物語に登場するスクルージのように、
自分の生き方が間違っていることに気が付き、自分の人生を大きく変えていった。
雷に打たれた後の彼は、心臓の状態が悪くなってしまったために、
普通の生活を営むことすら大変だったのだが、
しかしそれでも彼は、
貧しい人々、病気で困っている人々に対して奉仕活動を行い、
そして
「一人でも多くの人間に、
自己中心的な人生に陥りやすい唯物的な人生観を捨て去り、
霊的な人生観を持って欲しい」
との想いから、自分の臨死体験の話をしてまわった。
そしてあの臨死体験から十四年後、彼は心臓の衰弱によって延命治療のために、
手術を受けたのだが、その時に再び臨死体験をするのだった。
手術中に医者達が、彼の心臓が持ちこたえることができない方に、
10ドル掛けていたことを後で話して、医者達を驚かせたりもした。
彼はその臨死体験の中で再び人生の回想をさせられた時、
最初の数十年の人生は、前回と同じで、やはり見るに辛いものであった。
乱暴な子供時代、戦争での悪質な活躍、武器の輸送などによる被害、
それらを再び見せられたからだ。
しかしその後の人生を、彼は誇りに感じたと言う。
なぜなら前回の臨死体験の後、
彼は「トワイスボーン(二度目の誕生)」を果たして、
彼の人生は全く違ったものになっていたからだ。
老人ホームでボランティア活動を行い、小さな雑用までこなす姿。
立ち上がろうとする人に手を貸してあげたり、
髪の毛をとかしてあげたり、
爪を切ってあげたり、
おむつの交換などの誰もやりたがらない仕事を、
積極的に行っている姿さえそこにはあった。
ある女性のシーツを交換する時のことだ。
彼女はずいぶんと長い間、寝たきりになっているために体が固くなっていた。
そこで彼は、
「たまには違う景色を楽しんでもらおう」と想い、
彼女を抱え上げて建物の中を歩き回った。
彼女はとてもこのことを喜び、何度も彼にお礼を言った。
そして彼が帰ろうとすると、彼女は泣き出す始末であったそうだ。
この一件を臨死体験で回想させられた時、
「自分を抱え上げてくれてありがとう」という彼女の気持ちが彼に伝わってきたという。
またニューヨークの路地裏で、ゴミ箱をあさっている女性たちを彼は発見した。
そしてその境遇に同情心のわいた彼は、
彼女たちを小さな中華レストランに連れて行き、暖かい夕食でもてなしたのだ。
この一件を回想させられた時、
初めは彼女たちの名前も知らぬ男に対する不信感が、
彼に伝わってきた。
彼女たちは、もう何年も人から親切にされていないために、
人の親切に慣れていなかったのだ。
そのために彼女たちは、
「この男は一体誰で?何が狙いなのだろう?」と思っていたのだが、
しかし料理が運ばれてくると、
次第に彼女たちも人情に触れたことに感謝するようになっていき、
彼と彼女たちは、四時間ほどそのレストランで過ごし、
ビールをたくさん開けたそうだ。
またある時、ボランティア活動の関係で、
精神障害を抱えた幾人かの方々を教会に連れていく、
という試みをしたそうだ。
賛美歌が彼等の心に何らかの刺激を与えるのではないか、そう考えたからだった。
教会に連れてこられた精神障害の方々は、
最初は端の方で小さくなっていたのだが、
しかし礼拝式が終わる頃には、患者の多くが賛美歌を歌っていた。
彼等が精神的な病で苦しむ前の日々の時のように、
彼等は賛美歌を歌い、そして楽しんだのだ。
その中には十年もの長い間、一言も言葉を発しなかった人さえいたという。
この体験を思い出している間、心のどこかに狂いが生じて、
「奇人」と呼ばれる前に教会で経験した懐かしい日々を思い出している、
彼等の心地よさが彼には伝わってきたそうだ。
この他にも、ダニオン・ブリンクリーは様々な奉仕活動に携わり、
それらのことを臨死体験で思い返した。
そして彼自身が、
「二度目の臨死体験で行った人生の回想は素晴らしいものだった」と語った。
暴力や怒りに満ち、殺人にまで関わっていた最初の人生とは違い、
二度目の臨死体験では、愛と慈悲に満ち満ちていた人生を見せられたからだ。
すでに述べたように人は何も知らずに泣きながら生まれてきて、
そして何も大切なことを教わらなければ、
我々人間も狼にさえなりかねない。
そして他人を傷つけ、世の中に迷惑をかけるばかりか、
「自分は正しい」と思い込んでいても、
結果的にとんでもない破壊行為に手を貸してしまっていることさえ確かにある。
『クリスマス・キャロル』のスクルージやダニオン・ブリンクリーもそうであるし、
彼に遠く及ばないにしても、
私もやはり愚かな人生を送っていた者の一人であるだろう。
しかしウィリアム・ジェームズという哲学者は、
人間には一度生まれの人と、二度生まれの人がいると述べている。
この地上に赤子として母親から生命を受けた時を「ワンスボーン」、
すなわち一度目の誕生と呼ぶのならば、
自らの心が間違っていたことに気が付き、
そして新たな人生を生きていこうと決意して、
自らの心と闘い始めた時を「トワイスボーン」、
二度目の誕生と呼ぶことができるのだそうだ。
人は成長できる。
というよりも人は己の心は過ちを悔い改めた時、確かに人間として成長していくのだ。
大切なことは、正しい心を探求して、そして己の心の過ちに気がつくことである。
国が人生の土台となっている事実に気づかず、
そして日本が今、中国共産党に侵略されている事実にも気づかず、
己自身の持てる力を、全て自分のことだけに注ぎ込み、
そして平和に無関心で生きていることも、今はできるかもしれない。
しかし世に生きる男たちが、皆して日本の国難を忘れて生きたら、
シロアリが大木を腐らせるように、
この日本もチベットやウイグルのようになってしまう。
そんなことが現実になれば、
我々一人一人の夢も、家庭も、仕事も、勉強も、友達も、
人生の何もかもが台無しなり、
結局、一番多くの涙を流すことになるのは、我々一人一人に他ならない。
ならば我々が、自己中心的で間違った愛国心ではなく、
世界の平和に通じていく正しい愛国心を持つべきであり、
そして自分の人生を守り、
自分の愛する人々を守るために、
この日本を何としてでも護っていくしか道はない。
どんなに私が日本の国難を訴えても、なかなか人から信じてもらえず、
多くの日本国民が未だに国難に無関心であるが、
しかし私は言っておく。
狡猾で巧妙な中国共産党の侵略が、
もしも目に見える形ではっきり現れたら、
もうすでに時は遅く、
日本は国としては消滅していくだろう。
「己の身を修める」とは善なる人生を生きようとするところにあると、
私はそう考えているが、
しかし修身の前には正しい心、
「正心」があり、
自らの心との対決なくして修身は無いと私は考える。
この「日本最大の国難
」の今だからこそ、
霊的な真実を知り、
どうか己の心と戦い、二度目の誕生を果たし、
真実の大和魂を蘇らせて頂きたい。
なぜならそれが、我々のためであるのだから。
現代は大和魂が失われるばかりか、
大和魂がはき違えられているようだが、
トワイスボーンの先に真実の大和魂があると、私はそう思う。