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紫式部に恋をして
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三十六帖柏木
夢にも予想できなかった女三の宮の密通を、突きつけられて以来の、源氏の受けた驚愕、狼狽、焦燥はさておくとして、その後の女三の宮と柏木の関係はどうなったのか、読者としては最も気になるところである。
「若菜」に引きつづいた柏木の衛門の督と女三の宮の道ならぬ悲恋の結末が描かれ息もつかせない。
前巻「若菜」上下では、聡明の定評がありながら、女三の宮の愛猫を、さまざまな計略をめぐらして入手し、まるで女三の宮の身替わりのように、人に見たてて可愛がるという柏木が描かれていた。
純情一途とも、滑稽とも見える柏木の性格が語られていた。
若さの情熱にまかせて、前後の思慮も理性も見失う。
女三の宮の寝所に闖入ちんにゅうして、理不尽に恋の思いを遂げる大胆不敵さがあるかと思えば、密通が源氏に知られたとなると、たちまちその一睨みで萎縮してしまう小心さも持つ。
この性格の矛盾が柏木の悲劇を生んだとも言えよう。
女三の宮のほうは、無理強いで、一方的に柏木に犯されて、妊娠までしたと思っているから、柏木に対してはあくまで冷淡で、憎んでさえいる。
柏木は十二月の朱雀院の御賀の試楽の日に源氏に招かれ、盃も無理強いされ、痛烈な皮肉を浴びせられ、睨み据えられたため、それがこたえて、ノイローゼになり、どっと寝ついてしまった。
病気は重くなる一方で新年を迎えている。
源氏四十八歳、柏木三十二、三歳、女三の宮二十二、三歳の正月からその年の秋までの話しである。
主に柏木の懊悩おうのうと死が描かれる。
柏木は昨年暮、父の前大臣の邸に引きとられたままで、妻の女二の宮とは別居中である。
わけを知らない両親は自慢の長男の思いがけない病状に、悲しみ惑うばかりで、為すすべもない。
柏木は死を覚悟している。
柏木は女三の宮に苦しい息の下から手紙を書く。
小侍従がもたらした女三の宮の短い返事には、はじめて「あなたの死に後れるものか」という激しい言葉があり、柏木を歓喜させた。
その夕刻から女三の宮は産気づき翌朝、男の子(後の薫)を出産する。
その子を自分の子と信じている柏木は、無事出産に感激するが、女三の宮は産後の衰弱と、生まれた子に冷たい源氏の恐れから出家を望む。
夜陰、ひそかに見舞った朱雀院は、女三の宮の懇請を容れ、源氏の反対を押し切ってその場で出家させてしまった。
それは女三の宮にも取り憑いていた六条の御息所の死霊のしわざであった。
柏木は女三の宮の出家を聞き、ますます重態になる。
親友の夕霧が見舞った時、柏木は源氏の不興を買っていると告白し、そのとりなしと、あわせて、自分の死後、一条の宮邸に残されている妻の女二の宮を見舞ってくれと遺言をする。
女三の宮の身替わりのつもりで異腹の姉宮と結婚した柏木は、この宮を不器量だと思い、落葉になぞらえて蔑視し、夫婦仲は冷たかった。
死に臨んで女二の宮へのすまなさがこみあげてきたのである。
柏木は間もなく他界する。
女三の宮はさすがにあわれだと感じひそかに柏木のために泣く。
女二の宮のことを柏木の歌によって落葉の宮と後世の読者は言い習わしているが、本文にはその呼称はほとんど使われてないし、これはさげずんだ言葉なので私の訳では、女二の宮で通している。
源氏は赤子の五十日の祝いなど、表向きの儀式は自分の実子らしく、ことさら盛大に執り行うが、すすんで赤子を抱こうともしない。
女の子なら、人目に触れさせずに育てられたのに、男の子なので人目につき易く、もし実父の俤おもかげを伝えていたらどうしようという不安がある。
日が経つにつれ源氏は赤子の顔つきに柏木に似たところを見て複雑な気持になる。
夕霧は柏木の遺言と、女三の宮の唐突な出家を思い合わせ、もしやという疑惑が心に芽生えている。
後のほうは夕霧が柏木の遺言を守り、女二の宮を度々見舞うようになり、母御息所とも親しくなり、想像よりもしっとりとした優雅な女二の宮の気配から次第に同情が恋心に育っていく様子を描いている。
しかし何と言ってもこの帖は、純情一途な柏木の激しい恋の情熱の破局と女三の宮の思いがけない出家という劇的な話が、緊張した筆つきで息もつがせぬ面白さで書かれていて「若菜」についで小説の醍醐味を味わわせてくれる。
あの意志のない思慮の浅い女のように、これまで書かれてきた女三の宮が、出家を決断して以来、別人のような強さと気高さを現すことにも目を見張らされる。
この瞬間、女三の宮の心の丈が、泣いて取りすがる源氏よりぐっと高くなったことに読者は愕おどろく。
逆縁の不幸に泣き惑う、日頃は強く剛毅に見える柏木の父の前大臣の人間らしさにも涙を誘われる。
源氏物語巻七
瀬戸内寂聴 訳 引用
柏木はなぜ死んだか
因果応報の構図
柏木の密通事件は源氏の藤壺との密通事件と類似点が多い。
ともに密通の相手は
帝の妃ー準太上天皇の妻であり、その恋は少年時代の思慕に始まり、形代(源氏は紫の上 柏木は唐猫)によって心を慰め、夢によって懐妊を知り、犯した罪の恐ろしさにふるえ、不義の子(冷泉帝-薫)の誕生となるなどである。
藤壺と女三の宮がともに出家したという共通点もある。
柏木の密通事件は源氏の藤壺事件と重ね合わせるように語られたのであり、これは源氏の藤壺事件に対する因果応報という構図になっていると考えてよい。
二つの密通事件を対応させることで、第一部以来の光源氏の宿業の物語は完結するのである。
光源氏の報復
柏木は光源氏にもありえた藤壺事件による破滅という運命を引き受けられたと考えられる。
予言に支えられて初めて可能であった源氏の密通と栄華の物語は、背中合わせに源氏の破滅の可能性を孕んでいた。
柏木の破滅は源氏の栄華の物語の陰画として理解できる。
その柏木の破滅の形象はもっぱら彼の内面のドラマとして構成されたのが特色である。
六条院での試楽には、柏木も当然招かれた。
彼は病気を理由に断っていたが、断り切れずに出席する。
源氏は罪の意識で幽鬼のように痩せて青白くなった柏木を庇の間に招じ入れて、自分は母屋の御簾の内にいて柏木を見据えながら話をした。
源氏の態度は慇懃で穏やかであったが、久しい無沙汰や女三の宮のことに言及する言葉に肺腑をえぐられた。柏木を名指して皮肉を浴びせた。
柏木が頭痛のため酒宴の盃を干すふりでごまかそうとすると源氏はそれを見咎めて、むりやり盃を持たせて何度も飲ませる。
柏木は気分が悪くなって宴の中途で退出した。
柏木の死
この日を境に柏木は再起不能の床に就いた。
源氏の言動は柏木を奈落の底に突き落とすに十分なほど毒気を持っていたのである。
すでに柏木は密通の直後から生きてはいかれなくなったと思うほど怯えていた。
それは道義的な罪責感であったと同時に、六条院光源氏に睨まれたら破滅しかないという現実的政治的な畏怖でもある。
柏木は光源氏への畏怖の前に自滅したのだった。
柏木は光源氏の幻影に敗れたのである。
柏木鎮魂
柏木の死を悼まない者はいなかった。
彼の情け深い人柄を身分の上下を問わず惜しみ残念がった。
源氏は女三の宮やその子の薫を見るつけて、また生前柏木が朝夕親しく源氏のもとに出入りし、源氏も目をかけていたから、何かにつけて思い出すことは尽きない。
一周忌にはひそかに薫の分を合わせて黄金百両を追善供養の志とした。
その手厚い追悼に柏木の父、太政大臣は恐縮した。
そうした源氏の手厚い供養はすべて生前の柏木が予測していたことであった。
彼は自分が死ねば源氏は許してくれるだろうし、恨みも消えよう、密通以外には過失はなかったから、長年親しくした関係から憐れみ惜しんでくれるだろうと考えていた。
源氏は、そうした柏木の予測を見通していたかのように申し分のない追悼や供養をした。
柏木は夕霧が見舞ったとき、この世の別れには
心残りが多いと言い、親に先立つ不幸、帝に対する不忠、立身できなかった恨みとともに、源氏に対して不都合なことがあり、許してもらえればありがたいと離した。
こうした柏木の謝罪に対して源氏は手厚い供養で応えたのである。
源氏物語の世界
日向一雅 著 引用
六條院へ出かけよう
監修 五島邦治 編集風俗博物館
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