一日一思想 -9ページ目

一日一思想

考えることは生きること

大変ご無沙汰いたしております。
あっという間に2014年になってしまいました。

4月に長男が高校に入学し次男が幼稚園に入園し、
家庭内でも私個人でもめまぐるしい変化とともに多忙になりました。
ブログにアクセスする時間がなかったわけではないですが
再開するタイミングを完全に失ってしまっていました。

書きたいことはたくさんあるけどまとまって書く時間がない。
このことを書くのであれば前にあったこんな事件も書かなければ。

と先延ばしにしてしまっていましたが
アウトプットをしないことでたまってしまうことが増えているという弊害もあり
ブログを再開することに致しました。

取り急ぎ長男も次男も元気に通学通園しておりまして
私自身も勉強したいことがたくさん出てきました。
というのが近況ですが、ぼちぼち更新を続けていきたいと思います。

ただ長男の行動範囲が思ったより広くなってきたことに私のメンタルがついていけずに
ネットで発信することがいいことなのかというジレンマもでてきました。
嬉しい悲鳴なのでしょうか、考えながら模索するのを今年の目標としたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。
車いすだから入店を拒否されました。

よくある話?
サービスの問題?
人権問題?

今出ている事実関係を整理すると
 銀座の人気隠れ家レストラン(テーブル席2つ、あとはカウンター)
 土曜日の夕食時、予約をしていた
 エレベーターは店のある2階には止まらない
 店のHPや食べログには「車いすでご来店の際はご一報を」とある
 
そこに著名な車いすに乗った「乙武さん」が予約をして来店。
待たされた揚句に入店を拒否されたそうです。

ここで「予約時にきちんと伝えなかったから店側に落ち度はない」
「店名を晒して営業妨害にでるなんて卑劣」
という意見が当たり前に出ることに違和感というか恐怖感を感じました。

障害のある人が、障害があるがゆえに障害がない人と同じことができません。
だからこそ配慮が必要。
障害がない状態と同じような配慮を受けることができて初めて同じ権利を享受できます。
歩けないから、歩くことに時間がかかるから
そのことに努力をさせて終わってしまうよりも
今するべきことに到達できるように支援なり介助をしてまず同じスタート地点になるように
踏み台を用意することは人権上必須、しかしこれが「特別扱い、ズルイ」に見えやすいのです。

確かに学校に肢体不自由で車いすの子がいたら
先生はその子にいかにしてヘルプを求めるか、
手伝ってくれた人にきちんと「ありがとう」と感謝できるように教えるでしょう。
そして周りの子には困っていることに対しては手伝いなさいと教えるでしょう。

でもそこの教え方、教わり方、いまいち浅いからこんな認識になるんじゃないでしょうか?
「手伝ってくれて当たり前に思われても、こっちだって忙しいんだ」
って、学校でも社会でもそんな風に過ごしているのではないでしょうか。

自分の忙しい時間を割いて駅でみかけた困った障害者を手伝うのと
介助者が付いている、またはサービス(介助そして飲食)が求められている(この場合はレストラン)場所で健常者と同等のサービスを受けられるように支援するのとは明確な違いがあります。
電車やバスなどの公共交通機関で車いすに完全対応するようになり、
乗降の際に駅員や乗務員が手伝うこと、それに時間が多少なりともかかることが当たり前になってきました。
まだまだ全てがノンステップバスになっている路線は少ないですし、駅だってエレベーターのない駅は珍しくなりましたが、それでも大変な遠回りをすることも当たり前です。
事前にノンステップバスの時間を調べてそれに乗れば済む話。
毎回毎回遠回りすれば済む話。
そうやって不便な生活を強いられている、しかも一時的にではなく毎日ずっと。
それでも障害のある方が外出をすることができるかできないかで言ったら大きな進歩ですよね。
公共交通機関でのバリアフリー化は、私達にとってはなんでもないことでも、社会参加をするうえでの大きな踏み台ではありますが、決して同等の移動性が確保されるものでは到底ありません。
そこに「急いでるのに電車がなかなか発車しなくて迷惑」と思っている人がいるというのは
学校教育現場で「車いすに乗っている人が自分とどれだけ違うルートをたどって電車に乗っているのか」という想像力さえもきちんとつけてくれていない、中途半端な統合教育の結果でしょうか。
思いやり?ボランティア精神?そうではなくてその人が持っている基本的な権利。
自分が当たり前に持っているはく奪されるとは思いもよらない権利。
肢体不自由児がいる普通級ではそんなことが当たり前に浸透しているでしょうか?
では肢体不自由児が身近にいない学級ではどうでしょうか?


そしてレストランで食事をすることを「生命を左右される重大事ではない」として
「車いすだからと言って傲慢すぎる」と障害者が批判されることが
「銀座の隠れ家レストランの偏屈店主が酔っぱらいを入店拒否すること」とは全く違うことは明らかです。

お金を払ってレストランでおいしい食事を楽しむ。
身体にハンデがあるために車いすを必要としている客が来る。
それを(通常は)補うエレベーターが機能していない。
だから入店を拒否するか、ご不便をおかけして申し訳ないと不手際を詫びるのか。

ハードの問題(エレベーターの有無)で解決しなければ
ソフトの力(人力で本人を運ぶ)で解決すればいいだけの話で。
バリアフリーがないからダメ、それを求めるのは傲慢というのは
合理的配慮が根本的に理解されていないことが明白になっているのでは。
人権問題を個々の店のサービスの裁量に置き換えられてしまうことに
「普通級ではできません」と言い放つ学校現場での傲慢さに重なりました。

こんなに見えやすい障害でこんなにわかりやすい合理的配慮なのに、
酔っぱらいやノーネクタイの入店拒否と比較されてしまうことに
なぜ軽度知的障害や広汎性発達障害、高次脳機能障害が理解されないのか、
配慮されることが難しいのかがますます明白になりました。


東京都の教育委員になられた乙武さんはどんな風に子ども達を育てていくように導くのでしょうか。
介護の勉強を始めようと思ったのは
長男が将来的に福祉のサービスや制度を利用するに当たり現在の仕組みを知っておくこと、
また、長男が福祉のサービスをする側として技術を身につけられないだろうかという偵察的な意味もありました。

偶然この三月に福祉の資格制度が変わり、
今までホームヘルパー二級と言われていた資格が
介護職員初任者研修という名前に変更になりました。
内容はほとんど移行されるものですが、取得する時に
試験がないこと、講習の時間数が少ないことなど
切り替え前に取得することが金銭的にも圧倒的に有利だったこともあって
忙しいさなかではなりましたが、先延ばしにせずにエイヤと頑張ってみました。

同時にこの資格は16歳以上から取得可能なので
あわよくば春休みで暇をぶっこいている長男にも滑り込みで一緒に受けてしまえば
8月に16歳になる時にまで実習を先延ばしにすればいいのでは?なんて思っていましたが
やっぱりそれはこの駆け込み期間だからこそ無理なようで
おとなしくあきらめました。

ホームヘルパーというとやはり高齢者の在宅介護のイメージが強いのですが
一応障害児者の制度や外出支援、ノーマライゼーションなどの理念も網羅しており、
得るものはとても多かったです。

今まで教育の視点から見てきた人(学校の先生、教育委員会)
福祉の視点から見てきた人(障害者就労先の作業所やグループホーム)
その両方の言い分がなかなかかみ合わない理由が勉強してみることでわかってきました。
まぁ、ひとまずそれは置いておいて…。

一番目から鱗だったのは「ケアマネージャー」の存在、
そしてその役割が明確に決まっていること。
高齢者介護については介護保険が始まった2000年代初頭に急速にシステムが整備され
ケアマネージャーと呼ばれる人がアセスメントやサービスのコーディネイト、
そのフォローや医療・リハビリとの連携、生活支援、全てをつなげてくれる。
それは知っていましたが、それがこれほどまでにしっかりとしたシステムに仕上がっていて
確固たるマニュアルで一定以上の専門性のあるサービスの連携を保証し、
また一方で個人の状態、家族の状況にも柔軟に対応することも前提にしていることに驚きました。
これが障害のある子ども達にもあれば…
  到達するだけでも大変な福祉の情報、サービス
  親が全てをコーディネートしながらも家庭の考えを要求していくこと
   「学習支援はできないので家庭でなんとかしてください」
   「学校で大変なのでお母さん付き添ってください」
   「愛情不足じゃないんですか、もっと無理させないで認めてあげてください」
   「おいしいご飯を作ってあげてますか」
そんなたくさんのことをこなしながら将来のことも考えて子育てしている
世の障害のある子どもがいるお母さんを支える、コーディネートする外部の力が
何が何でも必要なんだ、と改めて思いました。

療育センターのケースワーカーや学校の特別支援コーディネーターのような
場所で区切られてしまっている、「お母さんの愚痴聞き係」のような形だけの制度はいいので
具体的に動いてくれる、困っていることに対応してくれたり中継ぎをしてくれる
そんな存在が障害の重さ、軽さにかかわらず全ての障害児に必要でしょう。

予算がついた高齢者からがらりと手厚くシステム化されていったことは
ある意味「予算さえあれば何とかなるのか」という希望でもありますが、
教育と福祉の狭間にある難しさももちろんですが、
これからの世の中を担う子ども達のことが後回しにされて
票がとりやすい?高齢者の福祉が優先的に整備されてきたことに対しての
大きなつけが回ってきているのだと思います。

先週は要支援といわれる比較的軽度なケアで大丈夫な高齢者に対する
サービスの見直しをするという記事がニュースをにぎわせていました。
重い障害から対応、軽い障害は切り捨てる。
そんな簡単なことではないのはもうわかっていることでしょう。
軽い障害こそのケア、サービスの充実をもっともっと図っていかないと
近い将来の有望な働き手、納税者を作るのか、福祉の受け取り手を作るのか。

それをずっと考えていけば、
ノーマライゼーションの理念がきちんと浸透した豊かな心
→経済基盤がしっかりした経済の回る成熟した社会になるんだなぁと思います。
いじわるで自分勝手なおじいさんの家には「ここほれワンワン」と言ってくれないのだよ。