長男は2歳8カ月でかかった急性脳症の後遺症による障害です。
今までできていたことが急にできなくなったどころではなく
そもそもたくさんの認知機能がいっぺんにダメージを受けたので
障害を否定するなんてこともとくになかったのですが。
自分の中で、昨日まで元気に遊んでいた「フツーの」2歳児が
いったいどんな風になってしまうのか、まったくわからなくなってしまいました。
それまでの人生の中で「障害者」に縁がなかった(と思っていたけど実際はそんなことなかった)私。
この子は小学校はバスで養護学校に行くの?ランドセルしょって地域の小学校に行くんじゃなかったの?
将来は作業所で働くの?工賃が5000円くらいって聞いてるけど?
普通の子ども達とは同じように育たないの?
ということくらいしか考えられませんでした。
無知ゆえの発想の貧困さと言うか、なんともお恥ずかしいです。
でも一般的な障害者のイメージってやっぱり最重度なのかなと思います。
今でも「障害」という単語を使って長男を説明しようと思うとひっかかるところは
障害=最重度というステレオタイプなんですよね。
だからうまく相手に伝わらないことが多いのです。
知的障害なのにしゃべってるし、いろいろやってるし。
漢検準二級でスキーが好き?ハーフマラソン走って、和太鼓を叩いてる?
今書いていても、やっぱりこういうことって書きにくいです。
後ろめたいというか、だって重度の人を見下しているみたいだし。
決してそんなことではないのですが、だからこそみんな知らないんじゃないかな、
知的障害にもいろいろあるっていう現実を。
そこでまず第一段階のいわゆる障害受容があったと思うんです。
どんな程度であろうとうちの息子には障害がある。
フツーにできることができないことがある。
それは脳機能に直接影響を受ける病気だったので、私の場合はわりとすんなりできたと思います。
そして次に「障害児がそのうちフツーの子に追いつけるなんて甘い夢見るな」という
なんだか身も蓋もない暗黙の了解、もしくは押し付けられた概念があったのではないかしら。
軽度の知的障害者とは小学校6年生くらいの知能のこと。
大体みんなそんな風に育ちます。
だから、ほら、わかるでしょ、言わんとしていることが。
期待したって所詮その程度なんですよ。
と。
早期発見だの早期療育だのと言われ始めていた時期ではありましたが、
結局障害は「治らない」。
いつかは普通の子になるんじゃないかなんて甘い夢を見るのは
子どもに無理をさせるだけ、かわいそうなエゴは捨てましょうというキャンペーン。
その最たるものが「支援級から普通級には事実上移籍できない」という
個々のニーズもへったくれもない「教育」ですらないお粗末な現状が
全国のそこかしこの特別支援の現場でおきているのではないでしょうか。
うちの子に障害があるのはわかった。
で、障害ってなんなの?(この場合知的障害や自閉スペクトラム)
成長もするけど(この部分も誤解を生みやすい説明をされている人も多いと思うけど)
どうしてもできないところもあるから無理をさせると二次障害や自尊心の低い子になるよ。
刑務所の中にも障害者が実はたくさんいるらしいよ。
障害があるのにフツーのふりしてるとお宅のお子さんもそうなるよ。
そんな風に言われているような強迫観念。
いや、本当にそんな風に感じてしまいます、実際母親ならば。
個々のニーズに合わせた支援なんていわれると、母親だったら
「うちの子にはこんな風に支援してくれるはず、だってそれがニーズだもん!」って思うけど
大抵は公教育の現場での長年の慣習により突っぱねられていると思います。
普通級なら普通級なりに、支援級なら従来の障害児学級の伝統にのっとった
仲良し少人数生活単元スタイル(多学年混合バージョンは基本!)のどちらかを選んでくださいね、と。
可能性があるのならやっぱり普通級で頑張らせてあげたい。
誰でもそう思うと思います。
一度支援級にしてしまうと基礎学力も交友関係も学年相応に維持していくのは難しい。
それならば少しくらい落ちこぼれていてもみんなと一緒に学校生活を送ってほしい。
ここに第二の障害受容があるような気がします。
うちの子には障害があるので支援級になってもしょうがないです(というと語弊がありますが)と
うちの子には障害があっても支援級に入れてみんなとかかわれなくなるほどではないです という
二者の間には同じ障害を受容していても大きな隔たりがあるように感じます。もちろん
うちの子には障害がありますが普通級にいれてみんなと一緒に
生活することが何よりもこの子の成長と発達に必要です
という方もいるでしょう。そして
うちの子には障害と言うほどの障害はありませんが学校生活を送っていく上で
文句を言われるのがいやなので支援級でのんびりやらせたいんです
という方もいるでしょう。
じゃあ本当はどうなの?適正就学ってなんなの?って考えた時に
結局当の現場の先生は現状を理解してないんじゃないですかという
不信感にも似た思いに親は陥るんだと思います。
障害ってなんなの?という説明をきちんとできる先生がどれだけいるのでしょうか?
先を見越して親の希望に寄り添って、ではあなたがとるべき道はこちらです、と
胸を張って言える現場の先生ってどれくらいいるのでしょうか?
障害受容の過程とはスパイラルであるとはよく言われます。
行きつ戻りつでも確実に受容の道筋をたどっていくと。
でもこの表現ってどこかひっかかる。
障害を受容するとはそもそもなんなのか、究極の受容とはなんなのか
そこがぼんやりしたままになっているからではないですかね。
結果的に障害があるかないかを受容するかどうかよりも
その子の特性、個性を理解して支援していくというのはどんな子でも変わらないはず。
障害があればこっちの道、障害がなければあっちの道というステレオタイプがあるからこそ
障害があることに対して身構えてしまうんですよね、親としては。
一人ひとりのやり方が違うのは障害がない子も一緒。
一人ひとり違う道を進んでいくこと、得意なことを探したり進路を決めるのも一緒。
ただし一般的に支援がない場で進学でも就労でもしていく上で
能力的な問題で選択肢が狭くなるのは事実ですよね。
でもすごく狭くなるか、そこそこ狭くなるか、無限の可能性なのか、なんて
それこそ「フツーの子」だってそうじゃない。
むしろ親が環境を整えることによって能力的な制限をゼロに近づけていけるんじゃないかって。
で、それが「支援」なのかな、と。
全然まとまらないけど、とりあえず親としての率直な気持ちはこんな感じです。
じゃあ、私が受容していますか?と言われた時になんて答えたらいいかわからないくらい
大人になりました。
少なくとも「受容しないとスタート地点に立てない未熟な親」なんて一蹴できるくらいに。
発達に何らかの遅れがあったり偏りがあったりする子がいると
最初に気になるポイントは「集団の中でやっていけるか」というのが
早い段階でやってくると思います。
なんせ子ども同士で真似をしながらでももまれて生活をしていると
大人が教えるだけではとても提供できないような新しい刺激と経験
そして意欲が出てくる効果を私達親はよく見ることができます。
そこで就学時に「どれだけ座っていられるか」が最初のハードルになることが多いです。
もちろん、そこがゴールではなく一斉指示の理解だったり困り感の表出だったり
集団生活の中で必要なスキルとはたくさんあるのですが。
でもやっぱり理解力が乏しい子に「わからなくてもいいからとにかく座っている」というルール
結構大変ですよね。
それは私達が難解な外国語での講義だったり高等数学だったり自分の理解の範囲や興味を越えていたらやっぱり座っているのは辛いし。
大人だから何とかして座っていられますけど。
ノートの端に落書きをしたり爪をいじったりしながら、ポイントやみんなが大事そうにメモしていることは「あ、今のがポイントなのかな」とわからないながらもやってみるかもしれない。
私達はそれでなんとかなるけど、うちの子たちはもちろんそうはいかない。
毎日頑張って理解しようとしている、ふまじめなわけではない。
怠けているのでもふざけているのでもないけど、さぼっている子よりもできない。
そんな経験を毎日していたのかもしれない、うちの長男。
小学校の三年生、四年生でやはり抽象的な概念が学習に入ってきたり
手先の巧緻性を求められたり、グループ内での協力が求められたりと
また一段階ハードルが上がる時に、やはりそこでできなくて苦しい思いをする子も出てくると思います。
でも「授業中は座っているものです」と適応した長男は
ちょっとわからなくても、すごくわからなくても、わかったような気になったことがあっても
いつも授業中は座って先生の話を聞くルールを常に守り続けました。
勉強が難しくなってくると当然全ての子が全部をわかっているわけではないし。
そして少しずつ、長男には何がわかって何がわからないのかよくわからない状態になったのかもしれません。
結果として先生には「手がとられてしまう困った子」とはとられないので
「集団の中にいることのメリット」を親と同じように優先してくれる先生も出てきます。
だからといって「なんとかこの子にわかるように教えてあげよう」と時間を割ける先生ほど
先生も暇ではないようです。
やっぱり「子どもだから、わからないこともあって当然」と思う気持ちがありながらも
日常生活の中でも判断する力がなかなか育っていかなかったりすることに対して
日々何をしていけばいいのか。
学校の勉強をサポートしているだけではだめなのかもしれないと思ったのがやはり小学校中盤。
で、何ができたかというと何もできなかったです。
そして結論としては親ではない信頼できる誰かと何かをする経験かなというところに落ち着きました。
大人に教えてもらうのでもいいし、大人を手伝うのでもいいし
似たような子ども同士で共有する趣味を楽しむのでもいいし、小さな子どもと遊ぶのでもいい。
共通の話題をもつことを環境的に援助しているつもりでも適切に会話を続けることが難しい。
情報を精査して正しい判断をすることが難しいからこちらからはどうしても提案になってしまう。
提案には従う、それが長男のやり方。
じゃあ本当は何がしたいかを言ってこないし、したいことが逸脱していたりもする。
本人の能力からかけ離れたことや支援が必要なことにはどうしても縛りができてしまう。
そこを本人の努力で補うか、我慢することを教えるのか。
そんな制限の中でやっぱり提案に従うしかないんじゃないか。
外から見てもそれが賢明だと思えてしまう状況。
結局問題はここに帰ってくるのですね。
環境に過剰適応してしまった結果、自分の意見がなくなってしまったようにも見えるけど
いろんな要因が「自分の意見を表現すること」に制限をつけてしまっている。
その縛りを今度ひとつひとつ外して行って、自由な自分らしい自分をみつけることに
またひと手間かかるけどそれが今、高校生の彼にとって必要なことなのかも。
集団に適応することで得た選択肢というのももちろんたくさんあるけど
それだけではなくて同時に自分らしさをこういう子だから考えてあげたいと思うと
支援は続くよいつまでも、と思ってしまうのです。
でもそれさえできればまたひとつ世界が広がるのかなと
新たな高い壁を前にしてほくそえんでしまうくらい、余裕を持つことができるようになったとも思います。
親がここまで来るのに10年以上かかってるんですね、ダメ親でごめんよ。
最初に気になるポイントは「集団の中でやっていけるか」というのが
早い段階でやってくると思います。
なんせ子ども同士で真似をしながらでももまれて生活をしていると
大人が教えるだけではとても提供できないような新しい刺激と経験
そして意欲が出てくる効果を私達親はよく見ることができます。
そこで就学時に「どれだけ座っていられるか」が最初のハードルになることが多いです。
もちろん、そこがゴールではなく一斉指示の理解だったり困り感の表出だったり
集団生活の中で必要なスキルとはたくさんあるのですが。
でもやっぱり理解力が乏しい子に「わからなくてもいいからとにかく座っている」というルール
結構大変ですよね。
それは私達が難解な外国語での講義だったり高等数学だったり自分の理解の範囲や興味を越えていたらやっぱり座っているのは辛いし。
大人だから何とかして座っていられますけど。
ノートの端に落書きをしたり爪をいじったりしながら、ポイントやみんなが大事そうにメモしていることは「あ、今のがポイントなのかな」とわからないながらもやってみるかもしれない。
私達はそれでなんとかなるけど、うちの子たちはもちろんそうはいかない。
毎日頑張って理解しようとしている、ふまじめなわけではない。
怠けているのでもふざけているのでもないけど、さぼっている子よりもできない。
そんな経験を毎日していたのかもしれない、うちの長男。
小学校の三年生、四年生でやはり抽象的な概念が学習に入ってきたり
手先の巧緻性を求められたり、グループ内での協力が求められたりと
また一段階ハードルが上がる時に、やはりそこでできなくて苦しい思いをする子も出てくると思います。
でも「授業中は座っているものです」と適応した長男は
ちょっとわからなくても、すごくわからなくても、わかったような気になったことがあっても
いつも授業中は座って先生の話を聞くルールを常に守り続けました。
勉強が難しくなってくると当然全ての子が全部をわかっているわけではないし。
そして少しずつ、長男には何がわかって何がわからないのかよくわからない状態になったのかもしれません。
結果として先生には「手がとられてしまう困った子」とはとられないので
「集団の中にいることのメリット」を親と同じように優先してくれる先生も出てきます。
だからといって「なんとかこの子にわかるように教えてあげよう」と時間を割ける先生ほど
先生も暇ではないようです。
やっぱり「子どもだから、わからないこともあって当然」と思う気持ちがありながらも
日常生活の中でも判断する力がなかなか育っていかなかったりすることに対して
日々何をしていけばいいのか。
学校の勉強をサポートしているだけではだめなのかもしれないと思ったのがやはり小学校中盤。
で、何ができたかというと何もできなかったです。
そして結論としては親ではない信頼できる誰かと何かをする経験かなというところに落ち着きました。
大人に教えてもらうのでもいいし、大人を手伝うのでもいいし
似たような子ども同士で共有する趣味を楽しむのでもいいし、小さな子どもと遊ぶのでもいい。
共通の話題をもつことを環境的に援助しているつもりでも適切に会話を続けることが難しい。
情報を精査して正しい判断をすることが難しいからこちらからはどうしても提案になってしまう。
提案には従う、それが長男のやり方。
じゃあ本当は何がしたいかを言ってこないし、したいことが逸脱していたりもする。
本人の能力からかけ離れたことや支援が必要なことにはどうしても縛りができてしまう。
そこを本人の努力で補うか、我慢することを教えるのか。
そんな制限の中でやっぱり提案に従うしかないんじゃないか。
外から見てもそれが賢明だと思えてしまう状況。
結局問題はここに帰ってくるのですね。
環境に過剰適応してしまった結果、自分の意見がなくなってしまったようにも見えるけど
いろんな要因が「自分の意見を表現すること」に制限をつけてしまっている。
その縛りを今度ひとつひとつ外して行って、自由な自分らしい自分をみつけることに
またひと手間かかるけどそれが今、高校生の彼にとって必要なことなのかも。
集団に適応することで得た選択肢というのももちろんたくさんあるけど
それだけではなくて同時に自分らしさをこういう子だから考えてあげたいと思うと
支援は続くよいつまでも、と思ってしまうのです。
でもそれさえできればまたひとつ世界が広がるのかなと
新たな高い壁を前にしてほくそえんでしまうくらい、余裕を持つことができるようになったとも思います。
親がここまで来るのに10年以上かかってるんですね、ダメ親でごめんよ。
今までもずっと就労のことは考えて調べてきたつもりだったけど長男も16歳になりいよいよいつまでも学生じゃないんだなということが現実味を帯びてきました。
同年代の支援校に進学した子達は職場実習に行ったり障害者雇用の情報収集をしたりと慌ただしくしてるのをみるとどうしても焦りを感じてしまいます。
QOL、ということで一般就労と違って福祉就労や障害者就労をするとどのようなメリットがあるかというのはある程度自明でしょう。
本人の障害を考慮して適切な支援を受けつつ就労すること。
そんな折にたまたま目についた新聞コラム。
障害者支援施設でワイナリーの手伝いをするというもの。
利用者のできることを無理せず楽しく、みたいなことが賛辞として書かれています。
でもそれってよく考えるまでもなく障害者に限ったことじゃないでしょう。
若者の自殺件数とか心の病とか、生活費のために低賃金労働を強いられるということがこの十年であまりにも当たり前になりすぎていませんか。
知的にハンデのある子に高等教育をさせることに意味があるのか、という一方ででは福祉の就労をすることがこの子の幸せなのかと思い。
結局周囲の情報を集めすぎるばかりに、「普通」の就労か「普通の」障害者就労かという二者択一の間で揺れているのではないかと思い、そんな「普通」に惑わされずに本人なりに輝ける人生を送る場所って見つかってないだけでどこかにあるんじゃないかななんて。
社会に当てはめすぎないように考えて行かなければと改めて思うのでした。
いろいろあるけど結局まとまらないので今日はこの辺で。
同年代の支援校に進学した子達は職場実習に行ったり障害者雇用の情報収集をしたりと慌ただしくしてるのをみるとどうしても焦りを感じてしまいます。
QOL、ということで一般就労と違って福祉就労や障害者就労をするとどのようなメリットがあるかというのはある程度自明でしょう。
本人の障害を考慮して適切な支援を受けつつ就労すること。
そんな折にたまたま目についた新聞コラム。
障害者支援施設でワイナリーの手伝いをするというもの。
利用者のできることを無理せず楽しく、みたいなことが賛辞として書かれています。
でもそれってよく考えるまでもなく障害者に限ったことじゃないでしょう。
若者の自殺件数とか心の病とか、生活費のために低賃金労働を強いられるということがこの十年であまりにも当たり前になりすぎていませんか。
知的にハンデのある子に高等教育をさせることに意味があるのか、という一方ででは福祉の就労をすることがこの子の幸せなのかと思い。
結局周囲の情報を集めすぎるばかりに、「普通」の就労か「普通の」障害者就労かという二者択一の間で揺れているのではないかと思い、そんな「普通」に惑わされずに本人なりに輝ける人生を送る場所って見つかってないだけでどこかにあるんじゃないかななんて。
社会に当てはめすぎないように考えて行かなければと改めて思うのでした。
いろいろあるけど結局まとまらないので今日はこの辺で。