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一日一思想

考えることは生きること

大阪市の教員に対して、入れ墨をしているかどうかをチェックするかということが

月初め程に話題になっていたと思うが、その時にちょうど

「中学校の先生に入れ墨があるらしい。親として学校に言うべきか」

という趣旨のスレを某掲示板で見かけた。


以前にもアメリカのディズニーの雇用条件として、

髪を不自然な色に染めない、見えるところに入れ墨を入れてない

となっている、という記事を読んだことがあるが、

日本だからというわけではなく、

入れ墨を見て不快な気持になる人は少なからずいると思う。

ファッションの一部とくくってしまうにはあまりにも大雑把すぎる。

実際、視界に入ることで威圧感、恐怖感を感じる人も多いのではないか。


多くの公衆浴場やサマーランドなどの行楽プール施設でも

入れ墨はお断りときっぱり書いてある。

若い時に軽い気持ちで入れたのか、それなりの覚悟があってしたのかは違うかもしれないが、

後悔をしても、社会の入れ墨に対する偏見に不満であっても

一度入れた入れ墨、タトゥーはもと通りにはならない。


ファッションとして見せたくて入れたのかもしれない(軽い気持ちで)。

威圧、威嚇の手段として入れたのかもしれない(不都合な偏見には気づかずに)。

どちらにしても、何十年先も同じものを入れているということの重さは

なかなか気付かないとは思う。

だからこそ一律に偏見にさらされるべきだとは思わない。

猛烈に後悔をしている人もいるだろう。

そしてまた、その先を読めなかった浅はかさに対して軽蔑し、偏見を持っている人もいるだろう。


入れ墨を見ることによって不快な気持ちになる人に配慮ができるか。

そもそも入れ墨を見て不快な気持になることは、ある種の差別になるのだろうか。

そういう偏見も存在していることも理解して、入れる必要はあると思う。

その差別が、いい悪いは別として、純然として不快な気持になる人はいるし

それを認めているのが現在の社会の姿である。


入れてしまったものは仕方がない。

しかしサービス業や公務員といった、人とかかわる仕事をしている人が

見せないように配慮する努力はどこまで強いるべきなのだろうか。

隠すべきものと本人が納得することは必要最低限だろう。

ましてや教職員が生徒に見えるところに入れ墨を入れることで

威嚇にならないのか、容認にならないのか、促進にならないのか。

自分の子どもが関わっている教職員であれば大いに気になるところである。

それを教職員の「ファッションの自由」を優先させるのであれば

やはり差別的な見方を逆手に取っているようにしか思えない。


今回出てきているのは大阪市の清掃局職員の入れ墨ということだが

入れる人の意見、意識と

見る人の意見、意識が噛み合わないと

全く空回りしてしまう議論になりかねない。


自分の若かった時の考え方から自分の今の考え方、

そして今の若い子たちの考え方もいろいろな角度から検討して

少なくとも議論の上がった大阪市ではおざなりでない対応がされることを望む。



橋下大阪市長、TVに出始めのうわついた印象の時からよく見ていたが、

Twitterを見ていると、その個性的な物言いと議論の仕方が興味深い。


元弁護士、そして七人の子どもの父親として、

法に明るく、子どもの教育問題にも相当関心があることは間違いないだろう。

過日の囲み取材での物言いも非常に徹底したものだった。


君が代口元チェックをしたのは、もともと橋下市長の知人であり、

アメリカで弁護士をしていた民間出身の若い校長。

教育委員会から全教員に国歌の起立斉唱を命令したものであるので

校長がそれをチェックしたことに対する咎めは全くないと、

当時からそのロジックはずっと通していたと思う。


そしてその校長自身もひどいバッシングを受ける中、

教育委員会がその批判を受け止めるでも、解説するでもなく

自分自身のブログでかなり理路整然と事の顛末を説明している。


これだけのバックグラウンドがあったにもかかわらず

某メディアの記者がその認識を全くなしに、

「国歌を強制することに対する思想の自由、歌わない権利」

みたいなものに質問をすり替え続けていたのは明らかだった。

国民が思想を押しつけられる~!みたいな。


しかしこの囲み取材に憤慨し、すぐさま動画付きのツイートをした

橋下市長だったが、その論破の仕方がとても攻撃的だった。

常々いろんな場所で言われ続けているが、そしてまた本人も

かなり挑発的な論調でツイートしていることも多いが、

怒鳴っているわけではないのに妙に威圧的なのだ。


言っていることは正しいが、恫喝と言われてもしょうがないような言い方。

論理としては正しいが、人に与える印象、

そしてそれを納得させるような言い方って難しい。

特にこのような場合の、相手とまさに「噛み合っていない」状態で

話にならない・・・という時に、市長と記者の囲み取材ではなくて

親と担任の先生との話し合いだったら。

論破はできても、本当にこちらの意図を理解してもらって

子どものために一緒に力をつくしましょうというようにもっていくのは

つくづく難しいと感じた。


そして逆のことをやられることも世の中ままにある。

論理はぐちゃぐちゃだけど、かなり強い調子で自分の(教員側の)意見(都合)を押しつけられる場合、

きちんと整理して、あなたの言っていることはこういうふうに間違っています、

こちらにはこういう言い分があるのですけれど、

と伝えたとしても、こんな話し方をする人がきちんと聞き入れてくれるか、甚だ疑問に思う。

結果、実際には無駄足になることも多い。

言わなけりゃよかった的な。


理路整然と伝える方法も大事だが、

感情的になることで得することはほとんどないのではないのではないだろうか。

感情的になっている人と接することで自分が損すること

(折れなくてはならないと感じること)は相当たくさんあるが。

こんな風に言えたらある意味幸せだろうな、と思ってしまった。

長男の陸上競技の県選手権大会。

唯一、市大会での選考なしで出場できる大会。

全員が出場できるわけではないが、今年はなんとかエントリーしてもらったようだ。


いつもの市大会とは違う会場(古くて設備は悪い)

アクセスもいつもより悪く、

暴風警報一歩手前の大雨洪水警報が出る中、

大会は決行された。


しかもいつもと違って朝一番に近い時間で走ることになっていた。

大雨の中、次男と腰痛の夫を携えて会場まで見に行く。

いつものように観客席に屋根がついているような立派な陸上競技場ではないので

どの学校も泥だらけだけれども、一応テントを張っている。

いつもと勝手も違うので、どこに固まっているのか分からないまま、

長男の出番になり走っていた。


大雨の中、予選・決勝もなくなり全てタイムレース。

しかも遅いタイムだと最後は打ち切られてしまう。

長男も最後までゴールすることはなく、途中で止められた。


繰り上げて、予定を変更して大急ぎのスケジュールで進められるはずだったので

長男が走った後はすぐに帰宅して待っていた。

すぐに温かいお風呂に入れてあげられるように。


そうしたらいつまでたっても帰ってこない。

さすがに心配になって同級生のお母さんにメールをしようと思ったところで「ただいま」


ずぶぬれの泥だらけ。

聞けば、うちの中学用に特にテントもなかったようで

傘をさしながらお弁当を食べたとのこと。

不器用なのによくやった。

そんなコンディションでもなんとかやってこられるのか。

帰りはパスモに金額が足りなくて先生にお金も借りているし。

それも自分で言えたわけではなさそうだが、察してくれたのだろう。

いろんな意味で顧問の先生には大感謝。

支援級の先生よりもいつも引率している顧問の先生(担任ではないほう)が

一番長男を理解してくれているのかもしれない。


大会に出場しない下級生たちもみんな一緒に行ったようだが、

私だったらこんな荒天だったら休ませてしまうかも。

皆様、素晴らしい。 親も、生徒も。

自分だけが頑張ってるわけではない、そんなことも分かってほしい。