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一日一思想

考えることは生きること

ここで使っている勉強はいわゆる国語算数理科社会の「座学」。

最低限の小学校レベルの基礎学力(特に国語算数)と

中学校の義務教育内容の基本的な学習のことをさしている。


支援学級に在籍をすると普通のカリキュラムのほかに

「生活単元」という教科が盛り込まれている。

これは障害児学級という名称だったころからあるのだが、

内容的には非常に「総合的な学習」に近いのだと思う。

それに「身辺自立」や「療育的アプローチ」を加えたものが

生活単元だったと、個人的には認識している。


典型的な例として年間を通しての「畑、栽培学習」がある。

  畑にまく種や苗の学習を一通りして、まとめる。

  実際に畑を耕して栽培する。

  毎日、水をあげたり添え木をしながら、観察をする。

  収穫したらそれで料理をしてパーティー。

てなことを模造紙にまとめたりするのだ。


まんま、ゆとり教育で取り入れられた「総合的な学習」。

昔はおそらく障害児学級の専売特許だったのだろう。

これに加えてその子の発達の段階に合わせて

「土をいじることで感覚統合を促す」ことがあったり、

人前で話す子が苦手な子のためにスピーチを取り入れたりと

個別のニーズに合わせる(べき)なのが現在のいわゆる「生活単元学習」だろう。


ゆとり教育で「総合的な学習」が現代の子どもたちに必要である、と言われたように、

普通の子どもにも、応用すれば障害のある子どもにも

有意義な学習であることは間違いないだろう。

しかし今ゆとり教育が見直されて、

「やっぱり基礎学力の低下はだめだよね」となった時に、

総合の時間が削られることなく、結局国語算数などの時間数や学習内容が増えた。


それに対応する子どもは当然忙しくなる。

私たちが子どもの時と同じように、書道の授業もあり、そろばんの授業も一応あり、

そして私たちが子どもの時にはなかった英語の授業が加わり、コンピューターも学ぶ。

その上に、総合という教科書がなく、個々の教員の力量・裁量がもろに出る学習と

国語、算数も増える・・・?

当然忙しいだろう。

家族とのんびり過ごす時間が削られ、基礎学力が高いものを求められるのなら

学校の学習についていけない子は家庭学習や塾でさらに時間を費やす。

体を動かしたり自然に触れる経験、地域でいろんな年代の人とかかわる経験すらも

犠牲にして、毎日六時間授業を受けて帰ってきた小学生はへとへとになっている。


長くなったので続きはまた明日。


リアルタイムから気になっていたが、なかなか文章にまとめることができなかった。

というよりも、どこから手をつけていいかわからないほど支離滅裂な情報だった。


連休中に「伝統的な子育ての例」というハッシュタグがTwitterに上がり、

いかに昔は子どもの人権をないがしろにしていたかということを取り上げ皮肉・揶揄されていたが

曖昧な表現を選択したばかりに、本来意図してきたことと違う解釈になってしまった好例であろう。


しかし「発達障害は親の愛情不足」という文面が各所に散りばめられた

この条例案は、いかにたたき台だとはいえ、あまりにもお粗末な

行政の発達障害児の環境にかかわる認識が露呈したことは間違いない。

「科学的に正しくない」という橋下市長の弁解(説明)も

他の問題に比べるといやに歯切れが悪く

正直「本当に理解しているのかしら」と思いたくなるような言い回しだったのが印象的だ。

そしていつも「見えない障害」に対して理解不足だなぁあと思う学校現場はもとより、

それを正してくれるべきの教育委員会もやはりこの程度の認識なんだと思うと

現在の親が感じる違和感と、行政側の努力の方向が噛み合っていないと再確認させられる。


それにしても、親の愛情不足と言いきっているこの条例案を書く人は

本当にこの「親学」なるものが家庭を「支援」するものだと信じているのだろうか。

見えにくい障害を理解されずに→親の甘やかしすぎ・モンペ

という図式から

見えにくい障害を正しく理解して適切に支援する

という構図に持っていこうと努力を重ねている一保護者からすると、害悪以外の何物でもない。

障害のある当事者・保護者VS学校・社会の支援者という構図は

一向に交わらない平行線どころか、かけ離れていくばかりであろう。


ADHDなどの子どもの親のためのプログラム、

ペアレントトレーニングが「親業」と呼ばれていると自分の中で認識していたのだが、

それとはまた以て非なるものらしい。

親が子どもの特性に合わせた対応を学びよい方向に向かおうという親業に対して

それを曲解して、親に負い目を持たせて、洗脳・・・とまでは言い過ぎだろうが

悪い育て方をしている親が変わらなければならないとする親学というふうに見えてしまうのは

先入観がありすぎるのだろうか。

とにかく、うわべでは「子どものために親が変わろう」という趣旨は、

とても似通っているように見えるが

性善説か性悪説かという意味でも正反対の内容であると感じられた。


どう書いても自分の気持ちをしっかりまとめる文章に仕上がらないが、

長年戦ってきた社会の矛盾や偏見の一端が集約されているように思えてならない。

これを民主主義に照らされて、議論が出てきた、というだけましだと思うほうがいいのだろうか。


悔しい・・・。