*昨日のエントリーの続きです。
我が家の場合の小学校の支援級への期待、
それはおそらく普通級の1/40の配慮では足りないので
それプラスアルファの支援、配慮、理解が必要だと感じたから。
生活のベースは普通級におく。
普通級の先生は1/40でいいから、他の子と同じように見てほしい。
(本当はそうではなくて1×40であるはずなんだけど。
一人ひとりに配慮する力が全ての公立小学校の教員には残念ながら望めない)
そして足りない支援、担任一人では足りない部分と言うのを
支援級の方で用意します、それが特別支援教育です。
そんなふうにさもできるかのように就学相談では説明された。
丁寧な観察と連携を経て、療育などの専門機関とかかわりあいながら
学校全体で支援が必要な子を育てていく、そんな理念だけが先走りしていた。
しかし現実の支援級と普通級の関係はそんなものでは決してなかった。
在籍がどちらかということに主眼が置かれ、
本人の教育的ニーズよりも、支援級の担任の「報告できる成果」が優先されることもしばしばだった。
個別指導計画は形だけのもので、作成さえされればそれで教員は満足だった。
実態に合わせた計画か、現在はこの目標のどの段階にいるか、
手厚い人員配置でそんなことがやってもらえるかと言ったら大間違いだった。
普通級の中での支援が、支援級に在籍しているとなぜできないのか。
私が一番感じたのは、学級王国の中での先生のプライドだろう。
1-1の中での担任の先生の采配には文句をつけないのが支援級の先生の役割。
その子の教育的ニーズに関しても助言することはほとんどない。
年度によって若干の差があったが、基本的なスタンスは変わることはなかった。
むしろマンツーマンで支援級から交流に一人先生がくっついてくることこそが
普通級の教員が対象の児童に「特別な配慮」をすることも理解することも難しくした。
これを解決するのには、何をおいても普通級、交流級の担任同士の共通理解と連携だろう。
比較的若い先生同士が担任だと、体育会系のノリでうまく連携することもあった。
しかしこのケースだとなにぶん、経験不足なところも否めず
むしろ交流級自体が学級崩壊に近い状態になることもあった。
一方、どちらかがベテラン教師の時は、やはり相手の顔を立てざるを得ない、
結果的にどういう学級経営をしていようと、どういう個別支援をしていようと
お互いに関係ないという状態になってしまい、手厚い状態にもかかわらず
ほっておかれている、教師の自己満足になっているということにもなっていた。
こんなことを書くのはこころある先生方には本当に申し訳ないのだが
全ての支援学級の先生が支援教育に燃えているわけではなく、
むしろ「行き場所がなくて楽そうな支援級に落ち着いた」というケースも多かった。
「支援感」も特にないので保護者との話もうまくかみ合わないし
療休や療休復帰直後の先生も多かったように思う。
精神的、体力的にも通常級をもつよりも楽であるというバイアスでもあるのだろうか。
それとは別に、私が言わんとしている支援が何なのか、というのを
より分かってもらえるのが普通級の先生である、というケースも多かった。
基本的に両輪である、という言葉が出たのも学年主任の先生だったし、
トラブルがあった時に、それをきちんと受け止められる学級経営を目指しますと言ったのも
普通級の先生だった。
むしろ交流級の先生のほうが、社会の寛容さよりも個人の努力による障害の克服という
むちゃくちゃなものに主眼を置かれて、苦しい思いをさせる傾向にあったように思う。
うちの場合は軽度知的障害なのでまた違うのかもしれないが、
知的の遅れのない発達障害の場合でも、同じように
通常のクラスで過ごすための適切な支援が必要で、
なおかつ週に数時間の個別取り出し学習ができればさらに良い、というケースも多いと思う。
そのような支援がはたして今の校内体制でできるのか、
校長自身の意見はどうなのか、ということをきちんと確認して
「障害があるのならば支援級に在籍しているほうが手厚いですよ」
という言葉だけに惑わされずに、選択をするべきであると思う。
学校側のできる配慮と、保護者が考えている必要な配慮は
必ずしも一致しないことが往々にしてあるなんて
普通は思いもせずに就学相談を経て在籍を決めることになるから。
