一日一思想 -26ページ目

一日一思想

考えることは生きること

*昨日のエントリーの続きです。



我が家の場合の小学校の支援級への期待、

それはおそらく普通級の1/40の配慮では足りないので

それプラスアルファの支援、配慮、理解が必要だと感じたから。


生活のベースは普通級におく。

普通級の先生は1/40でいいから、他の子と同じように見てほしい。

(本当はそうではなくて1×40であるはずなんだけど。

一人ひとりに配慮する力が全ての公立小学校の教員には残念ながら望めない)

そして足りない支援、担任一人では足りない部分と言うのを

支援級の方で用意します、それが特別支援教育です。

そんなふうにさもできるかのように就学相談では説明された。

丁寧な観察と連携を経て、療育などの専門機関とかかわりあいながら

学校全体で支援が必要な子を育てていく、そんな理念だけが先走りしていた。


しかし現実の支援級と普通級の関係はそんなものでは決してなかった。

在籍がどちらかということに主眼が置かれ、

本人の教育的ニーズよりも、支援級の担任の「報告できる成果」が優先されることもしばしばだった。

個別指導計画は形だけのもので、作成さえされればそれで教員は満足だった。

実態に合わせた計画か、現在はこの目標のどの段階にいるか、

手厚い人員配置でそんなことがやってもらえるかと言ったら大間違いだった。


普通級の中での支援が、支援級に在籍しているとなぜできないのか。

私が一番感じたのは、学級王国の中での先生のプライドだろう。

1-1の中での担任の先生の采配には文句をつけないのが支援級の先生の役割。

その子の教育的ニーズに関しても助言することはほとんどない。

年度によって若干の差があったが、基本的なスタンスは変わることはなかった。

むしろマンツーマンで支援級から交流に一人先生がくっついてくることこそが

普通級の教員が対象の児童に「特別な配慮」をすることも理解することも難しくした。


これを解決するのには、何をおいても普通級、交流級の担任同士の共通理解と連携だろう。

比較的若い先生同士が担任だと、体育会系のノリでうまく連携することもあった。

しかしこのケースだとなにぶん、経験不足なところも否めず

むしろ交流級自体が学級崩壊に近い状態になることもあった。

一方、どちらかがベテラン教師の時は、やはり相手の顔を立てざるを得ない、

結果的にどういう学級経営をしていようと、どういう個別支援をしていようと

お互いに関係ないという状態になってしまい、手厚い状態にもかかわらず

ほっておかれている、教師の自己満足になっているということにもなっていた。


こんなことを書くのはこころある先生方には本当に申し訳ないのだが

全ての支援学級の先生が支援教育に燃えているわけではなく、

むしろ「行き場所がなくて楽そうな支援級に落ち着いた」というケースも多かった。

「支援感」も特にないので保護者との話もうまくかみ合わないし

療休や療休復帰直後の先生も多かったように思う。

精神的、体力的にも通常級をもつよりも楽であるというバイアスでもあるのだろうか。


それとは別に、私が言わんとしている支援が何なのか、というのを

より分かってもらえるのが普通級の先生である、というケースも多かった。

基本的に両輪である、という言葉が出たのも学年主任の先生だったし、

トラブルがあった時に、それをきちんと受け止められる学級経営を目指しますと言ったのも

普通級の先生だった。

むしろ交流級の先生のほうが、社会の寛容さよりも個人の努力による障害の克服という

むちゃくちゃなものに主眼を置かれて、苦しい思いをさせる傾向にあったように思う。


うちの場合は軽度知的障害なのでまた違うのかもしれないが、

知的の遅れのない発達障害の場合でも、同じように

通常のクラスで過ごすための適切な支援が必要で、

なおかつ週に数時間の個別取り出し学習ができればさらに良い、というケースも多いと思う。

そのような支援がはたして今の校内体制でできるのか、

校長自身の意見はどうなのか、ということをきちんと確認して

「障害があるのならば支援級に在籍しているほうが手厚いですよ」

という言葉だけに惑わされずに、選択をするべきであると思う。


学校側のできる配慮と、保護者が考えている必要な配慮は

必ずしも一致しないことが往々にしてあるなんて

普通は思いもせずに就学相談を経て在籍を決めることになるから。

10年前、就学相談をして支援級に入ることに対して

特に疑問も持たずに、それが最良の選択肢であると思っていた。

それから8年間とちょっと、学校に通わせ続けて

障害とは何かということを改めて考えさせられることになった。



当時のIQで軽度知的障害という診断名を掲げ、

支援級相当という判定が出ていた。

そして特別支援の先駆けだったその時期、

教育委員会の担当指導主事は、現在特別支援学級と呼ばれる

その時の障害児学級がどれだけ個々のニーズに合わせた教育ができる場所であり

私たちの時代の印象とは違うのだということを殊更に強調していた。



全国ほとんどの自治体がそうだと思うが、支援級は障害種別でクラス分けをしている。

知的障害学級は最大8名

情緒障害学級(自閉スペクトラムのこの認知の偏りをどうしてこの名前で呼び続けるのかが

私には理解ができないが)は最大5名

その他、肢体不自由、病弱、弱視等は一人だけの在籍が多いので、この場合は割愛する。



しかし知的障害といっても様々なレベルがあることは明らかで

その上小学校は6学年ある。

当然身体的にも大きな違いがあり、

はたまた受動型か他害があるか、多動があるかとその特徴にも大きな振れ幅があるのは当然である。



その中で私が実際に見た支援級は

それらの子が全てひとつの場所で学級として成り立つことに主眼が置かれていた。

重度知的障害の4年生も

アスペルガーで不登校気味の6年生も。



その子達の学校の中での居場所づくりという位置づけでやっているようにみえたが

本来それは通常級の中ではやれないのだろうか?

というか、通常級の子たちこそ、そのような子たちの存在を当たり前に思い

当たり前にクラスの一員として過ごす工夫をしていくように促すのが

地域の学校に支援学級がある最大の意味なのではないだろうか。



近所に支援学校もあるので、そこの中学部の生徒と

小学校6年生が交流をする学習がある。

その交流というのも、なんだか「遊んであげている」というような扱いで

「福祉」の色が濃いように思えたのはうがった見方だったのだろうか。

でもその交流を通して「最初はよくわからなくて怖かったけど、

みんなでじゃんけん列車をやって楽しかったです」という作文を

6年生に書かせる時間を割くのであれば、

支援級に在籍しているクラスメートが聴覚過敏で教室に入れないので

みんな静かにしてあげよう、ということを考える授業(誘導でもいいから)をしてほしかった。



こんなこと、就学相談では誰も言ってくれなかったけど。

そんな側面さえも見えなかった私が悪かったのか、

この側面を直視すること自体が悪なのか、そんなこともわからなくなってきた。



長くなりそうなので続きます。


割れたノズル部分をガムテープで補修しながら
だましだまし使っていた10歳以上の掃除機がついに壊れたのは
はりきって掃除していた家庭訪問の日。
余計な力がかかってしまったか・・・。

買った時も確か5~6千円で動けばいいやくらいの気持ちで買った

韓国製の紙パック式掃除機は、特に愛着もなく

出すのも面倒くさいし、掃除がおろそかになっていた。


そろそろ買わなくちゃな~と思っていたので

次はダイソンかルンバ類似品かと思っていたのだが

その日が急に来てしまったのであわててリサーチ。


うちは2LDKの賃貸マンションだし、

階段のように落っこちたら困るような段差もないし

(玄関の段差も低い)

カーペットのないフローリング&畳のみなので

特別強力なのもいらないだろう。

ただしほこりや食べカスはたまるので毎日(楽に)掃除したい。


ということでレビューをみながら条件にあうものを探して

行きついたのがこれ。

CCP 【LAQULITO】 自動ロボット掃除機(エントリーモデル) レッドブラック CZ-8.../CCP
¥29,800
Amazon.co.jp

お値段一万円切っておりましたし、

パワーは上位モデルとほとんど変わりもないようで、

リモコンや自動充電機能、タイマーもうちには不要と判断して

エントリーモデルの一番安くてシンプルなものを。


毎日かければそんなにたまらないだろうし、

どうせ手をかけなくてはいけないところはでてくるし。

ハンディ掃除機はあるのでそこで補完しながらクイックルワイパーの代わり、

と考えると


今のところ非常によく働いてくれている。

思った以上。


多分食器洗浄機など

「時間がかかってもいいからやってもらう」という感覚が身についているからだろうが

(夫は1時間食器洗いにかかるんなら手で洗う、というタイプなので)

同時進行でいろんな家事がはかどり非常に気持ちがいい。


そして何より、忙しくてイライラしている私の生活のリフレッシュになった。


思ったより「家具が多いと大変!」でもないし、

意外に邪魔なものが部屋に多いと再確認させられるので

これからどんどん断捨離的なことができればいいなと思う次第。