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一日一思想

考えることは生きること

大津の自殺事件を受けて考えたことがいくつかある。

その中でも息子と同じ学年の生徒が被害者であり、また加害者であったことに

学校としての教育指針などはどうだったのか、地域は違えど考察してみる。


まず今中学三年生、14~15歳である子どもは1997年生まれ

ちょうどたまごっちがはやっていた頃で

「そんなことよりも新生児育てるので大変なんじゃい!」と思った記憶がある。

当然のことながらその後も、このたまごっちは改良され続け、

首からたまごっちを下げたお母さんが「学校に行っている間世話をしているの」

という光景もまま見られた。(今もそうなのかな?)


そして幼児期に流行していたのが叱らない育児。

今から考えると発達障害の子に否定形を使わないで

「走っちゃだめ」という代りに「ゆっくり歩こう」と伝えるほうが伝わりやすい

ということのバリエーションなのかもしれない。

(冷静に)叱ることと(感情的に)怒ることは違うよね、という議論もあったが

逆に悪いことを悪いと教えなくてもいいと曲解されていた部分もあるかもしれない。


幼稚園に入園する頃には学校五日制がほぼ完成していて、

今年から、この園も週休二日になりましたというところがほとんどだった。

つまり週休五日制しか経験していない初めての世代なのだ。

地域の少年スポーツ団に入って忙しくする子どもたち、家族で出かける家庭

そのどちらでもない子ども、と受け入れ口の整っていない状態で時間を持て余す子もいた。

小学校では小1プロブレムという言葉が出始めていて、

授業を受ける学習レディネスができていない子どもが多いということが

障害のあるなしにかかわらず言われていた。

体罰はダメだったり居残りはダメだったりと指導の点でも様々な転換期だったようで

教師によって指導方法や学級運営には随分と幅があったようだ。


ゆとり教育の申し子というべきこの年代は、

先生たちにとっても試行錯誤である総合学習という教科を学び

学校にはコンピューターが導入されて、しかし年配の教員はネットリテラシーもないままに

調べ学習をさせざるを得ない状態だった。

もちろんすぐにネットの使い方を覚える子どもたちは

休み時間に心霊写真サイトを覗いて盛り上がり、

授業中もコンピューターの前で好き放題している様子を先生が戸惑いながら静観していた。

導入されたばかりの英語の授業もグダグダで、見通しが立たないと不安な発達障害児は

さぞいやな思いをすることが多かったのではないだろうか。

障害のあるなしにかかわらず手先の不器用な子も多く、

家庭科や図工での指導が大変になったとベテランの教員達もグチをこぼしていた。


そしてそんな瑣末なことに追い立てられて

人権教育、道徳教育はおざなりにされていた、

そんなように感じて仕方がない。


オウムの事件、神戸のサカキバラ事件を知らない子の世代たちに

歴史の教訓としても正しい経緯と事件の詳細、バックグラウンドに関する情報を与えて

それを踏まえてどう考えるのか。

それがされていれば今回の大津市のいじめは起きなかったかもしれない。

 被害者が逃げる道を考えてあげるだけでもなしに、

 加害者やその周辺を責めるだけではなしに、

社会全体が、こんないじめが存在することについての一つ一つを考えて

本当の正義ってなんだろうということをきちんと教育していってほしい。

当の加害者、周りの教員、学校全体の対応はもとよりだが

そのいじめに対して強く、きちんと「おかしい」と思えるように

全ての子どもたちが、権威を恐れることなく正義感、倫理観を持って行動できること。

それが社会を形成していく構成員である大人になる過程で

もっとも学んでほしいことではないか。


今回の事件で具体的にどんなことがあったのか。

マスコミの扇動的な記事ではなくて、きちんとした捜査に基づいた事実が公にされ、

未来の被害者となりうる子ども、未来の加害者となりうる子ども、未来の傍観者となりうる子どもに

普段の学校生活での問題点と重ね合わせて考えていく機会が

教育のために当たり前に盛り込まれていく。

それって、凄惨ないじめの防止だけではなく、当然の人権教育、共生教育なのではないだろうか。


くだらない学習成果に目くじらを立てて子どもを追いたててしまう日常を今一度考えなおして

子どもが人の人権を尊重できる人間に成長するように、

我々周囲の大人が一丸となってサポートしていかなければ

またこのような事件は繰り返されるのだろう、必ず。

震災後の一年間で特に感じたことだが、

自分と違う意見に対する物言いが遠慮ないなと感じることがままある。

倫理的に正しいか正しくないか、という枠組みのあるものももちろんあるが

ユニバーサルに全時代的に正しいことなんてホントは少ししかなくて

自分の意見と同じ、近い、共感できるなのか

自分の意見と違う、かけ離れている、共感できないなのかで

分けられることが大多数なのかもしれない。

もちろん特に意見がない興味がない、難しくてよくわからない、というものもあるだろうが。


ツイッターでもブログでも誰でもが意見を簡単に表出できるようになり

その裏側にはいろんな立場の人間がいるわけで。

物事・情報の一面だけを見て理解したようになっているのも危険だが

全ての側面を理解していないと意見をしてはいけないというのもまた違う話であり、

要は、必ず倫理的に間違えている意見や、自分と違った意見というものが

混在しているのがこのネットなわけなのだ。


顕著なのは反原発の問題だと思う。

 これだけ大規模な影響を広範囲にわたって与えたこと。

 現代の最先端の科学を以てしても放射線の影響がよくわかっていないこと。

 政府、東電の独占体制が隠ぺい気質を作り上げて、政治・企業自体が信用されなくなったこと。

 電力需給の明確な実態や、核燃料廃棄の解決策も説明不十分でとうてい納得できるべきものではなこと。

原発が林立した経緯や放射能の影響を考えるまでもなく、様々な要因が絡み合っているのだから

ひとつひとつに冷静に対応していくしか解決の糸口は見つからないのだろうけど、

結局原発即時停止以外はありえない、という結論にしかなりえない、というのも

論理的に全ての人々が正しいと諸手を挙げて賛成することになってはいないのもまた現状である。

原発がなければそれはいいよね、というのと原発があればわれらは死ぬしかない、というのと

両方が反原発の中に共存しているはずなのに、

いつのまにか反原発は後者の意見にならないといけないという、

かなり極端な論調をする人が増えてきたように感じる。


教育、特に特別支援教育や発達障害児、障害児教育の経緯を考えた時も

やはり似たような問題の絡み合いが感じられる。

しかし、一介の教員に「即時停止」ならぬ「今までは全くなかったけど理想的な特別支援を

 うちの子だけにはやってください」と言ってもなかなかうまくいかないものが世の中である。

どのような障害特性があるから特別な配慮が必要なのかという筋道だった説明や

学校側、各教員個人がどこまでなら集団の中でも対応できるのかという着地点を見つけ出して

一歩一歩実績を積み上げていくしかないのだろう。


またサイレントマジョリティー、ノイジーマイノリティーという言葉もあるが

言ったもん勝ち、言わなきゃ損、みたいな風潮もここ数年顕著なように思う。

それがエスカレートして強い言葉で相手を威嚇するだったり、

釣り言葉のように相手の失言を誘導したり。

最終的には、頼りない法に任せるのではなく、市民が判断してということがエスカレートして

吊るし、晒しという逆リンチみたいや様相を見せてくる。

集団の心理やネットの匿名性、実体感のなさ全てが、極端な世論を作っていく。


これが民主主義の進化の過程なのだろうか、

通らなくてはならない痛みなのだろうか。

そんなことを考えながら、なくてもいい「けんか」を遠巻きに見ているが、

結局これって教育なのかもと。


みんな違ってみんないいと言いつつも、横並びの成果を求め連帯責任を求め

みんなと同じようにできること、

同じ答えが同じスピードでできることをよしとされてきた子どもたちが大人になり、

他人を認めたり、違う意見を認めたりということができなくて

自分と違う意見を叩く。勢いがあればあるほど自分の意見が正しいと言わんばかりに。

集団生活、社会生活を営む基本として、早い段階で

他人の意見を認めるとはどういうことなのかという教育でも訓練でもしておかないと

十年後にはもっと大変なことになってそうな気がする。


結局冷静に論理的に現実を踏まえたうえでの意見を伝えたほうが、

相手に伝わりやすいというあたりまえのことなのだが

その当たり前が、感情が先に立ってしまって

さらにコンピューターのモニターに向かっていること、

多量の情報が偏向していたり、過激だったりすること、全ての要因が

自分の意見の出し方というのを困難にしているのだろう。

そして生身の人間と対峙する時も、意見の違う人の人格を否定するなんていうことになるのは

お門違いもいいところなんだけど。

人としての意見の受け止め方もいろいろあって当然なので、

自分が譲歩しなくては話が頓挫してしまうこともあるだろう。

あ、これ最近橋下市長の時にも思ったことだな。



叩けばネガキャン 褒めればステマ 嫌いな奴らは工作員


ってなんか言いえて妙だなぁ。