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一日一思想

考えることは生きること

夏休みの課題をいろいろまとめるのに、長男の筆箱の中の定規で線を引かせていたら、

いやにボロボロになっていて、目盛りもほとんど見えない状態。

3cmの直線を引く、という簡単なことにも相変わらず躓いていたところ、

いつも行くドラッグストアの文具コーナーにすごくわかりやすい目盛りのついた定規発見。

いやー、やっぱり、どこのお子さんにもあれはわかりにくかったですよね。

こういうふうに大きくわかりやすく書いてあればわかりやすいですよね。

と、思わず店内でうなずいてしまうほど、すごくわかりやすい定規だった。


ほくほくしながら帰っていくと今度は、授業で使うコンパスが壊れたという。

このコンパスも買うときは力の加減が苦手な長男が

グサッとさせて、スルッと回せるものはないかと探したけど、

まぁ、これが一番無難かなという鉛筆を挟むタイプのコンパスを買った。

しかしあれは使いにくかった。

円が描きやすいように鉛筆の高さをねじで調節しなけりゃいけないし、

開く部分も固すぎても、ゆるすぎても扱いにくい。

健常な大人は多少使いにくくても円くらい描けるが、

長男の場合、授業そっちのけでコンパスと格闘して1時間が終わってしまうことは

容易に想像できるのである。


しかしそのコンパスもありえない感じで鉛筆を挟むねじがはずれていた。

どう見ても修復不可能だし、もともと使いにくかったので、

定規の教訓もあることだし、最新のコンパスを探してみると、

なんと今のはシャーペンなのか!

しかも一体型なので調節する場所が2か所(鉛筆の高さ、鉛筆の角度)が減り、

半径の長さと回すことだけに集中させてあげることのできるビバな仕様。

KOKUYO GY-GBB102B コンパス(シャープペンタイプ)[まなびすと] 一体型ノック.../コクヨ
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お値段ワンコインでお釣りがくるし。
5年前にあったら、倍の値段でも絶対買っていた。
段々ユニバーサルになっていくことは、こういう子たちには欠かせないことだけど、
こういうのを見て、「今の子はナイフで鉛筆も削れない」ということと
同じように語ってくる教員もいそうで怖い。
中学生の長男はいいけど、「小学校ではシャーペン禁止!」なんて言って
その子に必要な道具を取り上げるなんてありそうだな~。

発達障害の特性をいろいろ見ていると、

「あ、うちの子の当てはまるのはまさにこれ!」というものもあるし

「あぁ、言われてみればそんなふうに行動していることもあるわ」というものもあるし。

かなり細分化されているが、様々な特性が重なり合って

困り感が出ているのでそれを分析することには大いに意味があると思う。


ADHDだったら不注意優生なのか多動なのかどちらもなのか、とか

物事の裏側の意味をとりにくいために、コミュニケーションに違和感を感じるのか

不器用な動き方をするのはどういうことが原因で、どう支援していけばいいのか。


また日常の中で困らないように過ごせることと

学校の中で学習をしていくうえで習得することを何にするか焦点を絞ることももちろん必要になってくる。


そんなこんなで軽度発達障害と言ってもいろいろな状態像があり

支援の方向が違っても当たり前なのだが

これがIQ70を切って知的障害の範疇に入るとガラッと状況が変わってしまう。


知的障害の範囲になれば当然授業についていくことが困難とされる。

そのため知的障害の支援級が妥当という就学の流れになるだろう。

そして小学校六年間の中でもその扱いと言うのは大きく違う。


これは私自身も身をもって実感したのだが、

小学校の先生って、普通級ではその学年はどういう発達段階であるかということを

学習内容以外にも比較的よく把握しているものだが、

支援級の先生というのは「この子は四年生だからこういう気持ちも芽生えているでしょう」

というところまで思い当たることがほとんどなかった。

支援級は支援級で別次元のところにいるというか。

何があってもそれは障害ありきのことで、四年生の子どもというふうにみられないというか。


で、何が言いたいかと言うと、

特性が訓練されずに年齢だけ上がると

確実に知的障害の枠に入ってくるのだ。

特性が訓練されたら、必ずしも治るわけではないだろうし、

練習すれば治る、なんていう簡単なものではないから「障害」なのだろうし。

しかし知的障害という「区分」に入ることで失うことはあまりにも多い。

そして「知的にできないこと」というのがクローズアップされすぎて

どういう工夫をしたら「インクルージョン」できるのかということも

考えられることがなくなってきていると思う。


特に協調運動障害やLDなど、学校学習の活動の中で

直接配慮が必要になったり、個別の指導が必要になる場合の手立てと言うのが

あまりにもお粗末なのだと思う。


結局IQなんて知的障害の社会適応度を測れるものとは限らないということが

すごくはっきり実感するようになってきたのだが、

やっぱり尺度としてあるのだから、共有されることで先入観が出てくるのも仕方ないのか。

それよりも個々人の生活、学習の中での困り感、対応方法が

どのように(例えばわかりやすく数値化されてどこに行っても同じように支援されるように)
共有されるかという、サポートノート的な手立てが、学校(教員)側にも保護者側にも

必要なツールとなるのだろうかというのが今のところの結論か。

それはコミュニケーションスキルや実年齢の集団の中でも適応させるという観点からいえば

保護者が全てを勉強して一から作り上げるものでは到底ないと思う。

ある程度のテンプレートさえあれば、十分有効に機能させられると思うんだけどなぁ。。

重度の知的障害や自閉症の特性の改善のために

TEEACHやABAなどの様々な訓練法や提示法が確立していて

それが特性が比較的マイルドに出ている軽度の子どもたちにも有効だということが

臨床で証明されてきているので、どんどん広まってきている。


でも圧倒的に人手が足りなかったり費用がかかったり、

そもそも浸透してないためだろうか。

専門家にかかることができるのは特性が強かったり、

日常生活の中で特に困り感が強かったり、周囲に迷惑がかかるなどの

例外がなければ(受動型と呼ばれる子たちは特に)後回しにされてしまう。

そしてペアレンツトレーニングや家庭内での療育を頑張るという流れになっている。


私が最近強く思うのは、こういう軽度の子に特化した

療育というか、個別指導、そして一般社会(普通学級への般化が主にだが)へ

広げていくことって、よっぽどニーズがあるのではないか,、ということ。


重度の子よりも軽度の子のほうが数の上では相当数多いはずだし、

社会でかなりの自立をして就労していくのも軽度の人たちであろう。


軽度の子向けの訓練方法がどんどん進化して、

それを誰もが享受できるようなアクセシビリティ、

安価で、学校や地域でも受けることができて。


実際民間療育ではなくても、一部の塾や通信教育では

こうした必然性は感じてきているようで、「発達障害に対応している」ところは

少しずつではあるが増えてきているのではないだろうか。


それと同じ流れで、いわゆる底辺校と言われるレベルの高校が

特別支援に興味を示したり、ナチュラルサポートに長けていたりもする。


こんな裾野がどんどん広がってきて、

スペクトラムといわれているように、どの部分にいる障害を持つ子でも

必要なケアが受けられる日が一日も早く来ますように。


Imagine, all the people, living in harmony...