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一日一思想

考えることは生きること

次男はレスパイト制度を使って、週二回半日近所の保育園でお世話になっているのだが

(長男の時代には考えられなかった!)

その保育園の運動会が予定されていた。

そして、長男のまだ見学したことのない高校の第一回説明会も予定されていた。


どちらも重要度が高いが、どちらかというと「次男我慢してくれ、週二だし」

とあきらめるつもりでダメもとで夫に

「次男の運動会、半日なんで行ってあげてくれない?そうしないと次男出席できないし」

と頼んでみた。

すると予想外の「いいよ」


年の離れた兄弟で、長男の幼児期にはまだ20代後半、

仕事の激務で平日どころか週末もほとんど不在か使い物にならないほど疲れ切っていた夫。

年齢的な成熟もあるのだろうが、ほんっっっとうに非協力的で

子どものことは私一人で切り盛りするのが当然とされていた。


長男の幼稚園行事も父親向けのものでもほとんど見に行こうともしないし

お遊戯会、運動会でお父さんが頑張っていい席をとってビデオを撮る努力をしているのを見ても

私自身も特に何も思わないほど麻痺していたんだと思う。

それほどに仕事が忙しかったのと完全に分業化していたのだと。


11歳の年齢差を経て生まれた次男は、我が家でもアイドルだった。

長男は次男を赤ちゃん時代からも本当にかわいがってくれてきているが、

夫の「次男愛」はその時代を知る私から知ると相当なものだった。

でもそれは次男だけがかわいいのではなくて、長男の時は本当に忙しすぎて

関わり方もわかってあげられるだけの時間的な余裕を割いてこれなかったのだろう。


で、保育園の送り出しや週末の公園連れだしも全く躊躇なく引き受けてくれるようになり、

ジョギングをするようになって体を動かす習慣もついたことも余計にそうなのだろうが

近所の小学校で行われる運動会、

(去年は自宅にいたけど見にも来なかったから、まだ成長しているのだ!)

単独で付き添って行ってくれるという快挙を成し遂げた。


そして当日、運動会の段取りを万全に説明してから

高校の説明会に参加、体育館で待機中だった私の携帯にメールが。

「次男が全然いうこときかなくて、参加しないんだけど・・・」

かなり自由な性格の次男。

いつもと違う場所で、あまり乗り気ではないディズニー体操は

しないかもしれない、そして強制させられることは益々嫌がるだろう

と、想定内であることを返信して、うまく誘導するかあきらめるかにするように伝えた。

あまりにも困るようなら先生に「いつもこうですか?」って聞いて対応してもらえば?と。


でも次男が自由なのなんかわかってるはずなのに。

やっぱり同年齢の集団の中で自分の子どもだけができていない、ということを見る機会と言うのが

一般的に男親は圧倒的に少ないのだろう。


だからスタンス的には「個性」としてとらえることも、女親よりも容易にできるのだと思う。

日々公園に連れて行ったり学校や幼稚園に出入りしている女親がより客観的であるのに対して

男親は比較しないその子のよいところを認めてあげられるのだろう。

それと学校での交渉ごとには「スーツを着た男親が出て行ったほうが効果的」というのは

社会的(男尊女卑的な)要素以外にもこういったことと関連があるのだろうか。


自由な性格をそれで認めてあげられるのは素晴らしいけど

実際集団生活、社会生活をしていくうえで自由なだけでは成り立たないことは自明なわけで。

年相応の公共の概念が育っているかどうか、というのが女親が特に気にかかるところでもある。

両方揃って両方の役割をシェアすることができるのが最高の関係なんだろうけど

こと長男に関しては全くの分業制で、夫の長男に対する愛着にさえ影響を及ぼしてしまった。


結局次男はその日はいつも遊んでいるお友達のお母さんにべったりだった前半と

大得意の国旗パズルが組み込まれている障害物競走を経て、お遊戯にも参加できたようだった。

子どもの中で個性を存分に出しまくっている次男を見ることで

これからの見方が変わってくることもあるかもしれない。

それにしても幾多の授業参観や個人面談で、代わってほしい場面は今までもたくさんあったのだが

私自身が「この人に頼むだけムダ」と最初からあきらめていたことも

夫自身が「自分の専門外。子どものことは専門家(私)にまかせないと悪いし」なんて

思ってしまう悪循環に陥っていたのかもと少し反省。

夫育てなんて立派なものじゃないけど、やっぱり一人でしょいこむより

楽しいことも悲しいことも大変なことも、子育てのことはシェアしていきたい。

特に発達に課題のある子どもたちを社会に入れて、「戦っていく」過程では。



そして世の中の「年齢差の小さい兄弟を育てている親御さん」全てに、改めて敬意。

「愚行権」の行使


他の人から見て賢明であるとか正しいからと言って、何かを強制することは正当ではありえない


愚かであると思われること、例えば泥酔、ギャンブル、自傷行為、売春、

最近は随分と喫煙もこのカテゴリーに入ってくるようになったきたかもしれない。


簡単にいえば、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいという、

なにやらどこかで聞いたような自己正当化のようにも思えるのだが

他人事ならいざ知らず、自分の身内のことになればそういうわけにもいかないだろう。


知的障害を持つ子どもの親として、非常に悩ましい、出口のない問題である。

愚かなことをする権利。

人は全て品行方正であるとは限らない。

そんな当たり前なことまで顧みる、

難題を子育てに組み込んでくれた長男。

受けて立とうじゃないか。



知的障害のある女性が、援助交際まがいのことを繰り返している、という事例。


愚行権の基本的なことには「その行為に対する責任能力を有する」ことが条件としてあるのだが

さて、この女性の行動は愚行権の行使なのか、とめてあげなくてはいけないことなのか。


その女性がそうすることに生きがいを感じる。

それが自分の幸せである。


そう思うことがあるのかもしれない。

あまりにも自分の価値観からかけ離れているが、それが彼女の価値観ならば

それをとめる権利はなく、彼女が愚行権という権利を行使していいのか。


翻ってそれが身内だったらどうだろう。

「あなた、それだまされてるんじゃないの」

「そんな男はやめなさい」

そう言ってとめるかもしれない、いや、とめるだろう。

でもそれって本当に彼女の人生を選択する権利をはく奪していることにならないだろうか。


親であれば誰でも、自分の子どものことを考えて、生きる術を教えていくだろう。

簡単に価値観が分かち合えるのなら。

常識としておかしいでしょ、ということがすんなり入るのならば。


でもいろんな人を愛していてもいいじゃない。

と言われたら、本人の意思に反して無理やりやめさせる、

そんなことをしてもいいのだろうか。


極端な例だが、このようなことは未成年であるうちも、成人してからも

いたる所に転がっているのかもしれない。

私たちが気がつかないまま、通り過ぎて安全に子ども時代を過ごしてきたのに

自分で判断を強いられる成人後、そして親亡き後。


人の迷惑になることはしない、社会に反することはしないということを教えることとは別で

このような曖昧な判断を教えることに、「障害」という二文字が重くのしかかっているのかもしれない。

価値観が多様化している現代、そしてこれからの未来を生きる子どもたちがどんな社会で

どんな選択肢を与えられ、どのように選び取っていくのか。


例えば私が買いだめしていた野菜を冷蔵庫で腐らせてしまって、

それをちまちま「だからお前はだめなんだ、もうお前には買い物は無理だ」とか言われたらいやだな~。

失敗することもあるさととらえて、自分の責任の範囲でやっていくこと、

それが現在の大多数の人のやり方だと思う。

でもその価値観が他人と完全に合致することはないということ(節電しない人は人間じゃない!とか)

多様になりすぎていて、他人が指摘することもはばかられることも含めると

非常に発達障害を持つ人たちにとっては生きにくい世の中になってきたのだと痛感する。




判断力のない子達に適切に判断をする訓練(というか意識的な習慣として)をしつつも

必要な支援を得て、尚、一人の人格を持った人間として意見を尊重する。

バランスをとって両立するのは難しいが大切なこと、これからも努めて心に留めておこう。

サンデル教授みたいになってきてしまったな。

ちょうど運動会シーズンだが、うちの地域は小中学校ともに春の運動会なので

運動会も体育祭も入学・進級直後のあわただしい時期に練習をすることになっている。

新しい環境になじみにくい、「仲間たち」が苦労しながらも頑張って参加している姿をよく見てきた。


今年の体育祭に参加できなかったことはその時のブログに書いていたのだが、

その練習の時に思ったことがあった。


学校のPTA関係で忙しく通い詰めていた時期と体育祭の練習時期が重なって

ALTの先生(イギリス人)と話をしながら組体操の予行練習を眺めていたことがあった。

「こういうことって、初めて見るでしょ?」と聞くと、もちろんそう。

太鼓や笛の合図で一斉に動くという組体操、初めて見たらびっくりするかも。

音楽に合わせてやるのなら、趣も、やるほうも随分違うと思うのだが。

基本的に欧米の体育の授業なんて協調性よりもスポーツだし、

スポーツを楽しむための授業であるはずなのだから、

そんな授業展開で目標がそういうことであるのなら

やっぱりうちの長男、すごく有意義に参加できるんだろうなと思う。


組体操の教育的意義はデメリットを上回るものであるのだろうか。


また、欧米ではクラブ活動も概念として大いに違いがあるのはもちろんだが、

スポーツを「強制する」というようにとらえられてしまうこと自体問題だろう。

もちろん、チアリーディングなどそれと似た様相のものもあるし、

そのクラブに入ればうまい下手、向上心、上下関係が出てくるのだろう。


学校全体で参加する、女子も男子も一定の動きをすることが課題となる。

北朝鮮のマスゲームとか、オリンピックの開会式など大規模に人々が一定の動きをすることは

他にも例があると思うが、普通教育を受けている日本人のほとんどが

この「組体操」という過程を通ってきているのだと思うとなんだかすごい。


多分客観的にみると非常に軍隊的なのではないかと思うところが私の中での抵抗感だったのだろう。

しかし集団での達成感を得やすいといえば、やはりアメフト的というよりもサッカー的なゴールなのだ。

一人ひとりが自分の得意なことを生かしてみんなで目的を達成するのではなく、

みんなが同じ方向に向かってこそのゴール。

全ての人にとって楽しいこととは限らない(苦痛をもたらすかもしれない)ことが義務化されている違和感。

ダンスならいいのか?といえばそれはまた違うかもしれないけれど、

この中でどのくらいの割合の子がやりたくないけど仕方なく参加しているのか。

はたまた学校の先生がすごーーーく上手にインセンティブをあげて、

「みんなで一丸となって、組体操を成功させるぞー、おー!」みたいになっているのか。


ちなみに支援級の生徒たちはうちの長男以外は全員まとめて一つの班になっていた。

特に確認もとっていなかったようだが、支援級の体育の授業の中で練習していたので

自然にそういう流れになっていたのだろう。

先生とペアになったり、車いすの生徒も参加しやすいように工夫がされていて、

手厚く支援がされている一画があった。


普段は何気なく見ていて、「みんな頑張ったね」なんて思っていたけれど、少し違う視点で考えてみた。

幼稚園なんかでは、「夏休みあけたら、連日運動会の練習で、子どもが登園を渋る」なんていうのは

よく聞く話だし。


・・・なんかうまくまとめられないのは、実際見てから時間が経っているからなのかな。




全然違う話だが、私が米国の大学在学中に体育で選択したのは、スキューバダイビングだった。

他にはゴルフやボウリングもあった。楽しかったなー。