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一日一思想

考えることは生きること

なんらかの発達障害のある子に対する思春期の対応、

という分野において、これだ!という情報があまりにも少なくて

わらにもすがる思いで、近場であった某この世界では有名な方のそんなタイトル講演会に参加してみた。


結論としては、個々の違いが大きいので一概に障害だからどういう対応というのが

やはり確立してないのかなと言う印象だった。


カギとなるポイントとして

 

 「もうティーンだからといって、本人にいきなり任せるのではなくて段階を追って手を離していくという」


あたりまえのことがおろそかになっている私自身には耳が痛くもありがたい話だった。

一人で獲得できることが増えてきてしまうと

できるのが当たり前というように思いこんでしまいがちだが

時々本人のできることや今やるべきことを確認してやらないと

やっぱり本人が曖昧な理解のまま進んでいたり

与えられた課題や情報を整理することができずに、取り組む全段階で躓いているにもかかわらず

ヘルプも出せずに立ち往生しているということも最近増えてきていたのでなおさらだった。

定型に発達をしている子でさえ手の掛け具合目の掛け具合、離し具合が難しいだろうが

それを丁寧にする必要がより一層あるのだなと

日々の忙しさを理由に本人の努力に頼り、任せていたところに反省もした。


中三のこの時期になり、志望校がうんぬん、成績がうんぬんで

周りもピリピリしてきたことで本人も少なからずピリピリとしている。

しかも一生懸命やっているのにうまく結果に反映されないというもどかしさも人一倍強いはずで。

より細やかなケアが必要なはずだったのに、私が一緒にピリピリしてどうするのだ、と。


部活も無事引退まで続けて、放課後にもゆとりがでてきたことで

なんとなく本人に任せたり、欲張って療育的なことを家庭で増やしていたことで

少しずつ負担に感じていたんだとしたらごめんよ。

本人がわからなくて困っていたら、うまく教えられない自分が悪いのだとか

うまく支援をしてもらえるように頼めない自分が悪いのだと、謙虚に考えていこう。

そうすることで、この子はまだまだ伸びるはず。

そう信じてる。


ということで試験前の素晴らしい秋晴れの一日、

長男の勉強をしながら洗濯と片付け、ちょっと冬支度。

次男は買ってもらったばかりの自転車に乗ったり散歩に行ったりで楽しんでいるようだ。


幼稚園の願書を出す時期になり、

11年前の屈辱的な出来事を思い出す。


今年は次男が二年保育で出願をする番なので

9月に夫が一応入園説明会に参加した。

内容は施設が新しくなったこと以外では11年前とほぼ同じだったようで

園長先生が立派な統合保育の持論を演説されていたようだった。


長男の時と違って新園舎ができているので

「入れてあげたいけどうちもいっぱいで」という言い訳は通用しなくなった。

曰く「障害のあるお子さんが同じクラスにいるということが嫌な人は

今すぐこの説明会を聞くのをやめたほうがいい。」というくらい

障害のある子どもは社会の一員である、

統合保育によってどの子にもメリットがあると

コンコンとその理念を語り続けて、深く共感される(健常の)親御さんも多い。


でもそんな幼稚園でも療育の「り」の字を掲げるだけで

「おことわり」をされる・・・ということがちらほらでているようだ。

はっきり言って、どこが障害かなんて少しの面接ではわからない子や

集団生活を送っていくうえで全く問題になる素養のない子も

「早期発見」の精度が上がってきたからか、10年前よりも全然増えている。

そして良かれと思って相談すると、かなり横柄な口調で断られる。

これでは「黙ってはいったほうがいい」とケースワーカーが勧めるようになるのもわかる。


結局この10年間でどこまでどう変わったのか。

変わったこともたくさんある、わかったこともたくさんある。

でも変わってないこともたくさんある。

ということをわかっていたつもりだったが、身近で「やっぱり全然進歩していないでしょ」と

突きつけられると、胸をえぐるように辛い気持ちになってしまう。


でもこういうことを少しだけお手伝いできるかもしれない・・・という希望が見えてきた。

私が変えなきゃ誰が変えるんだ!という思いでアグレッシブに明日からも負けないぞ。

目で見てわかりにくい障害を抱えている子どもに対する配慮というのが

いかに学校という公的機関ではかくも困難になってしまうのかということは繰り返し感じてきた。

親同士で話しているとすんなり通じる困り感、それじゃダメなのに、ということも

「集団をまとめて学習をすすめる」という使命感にあふれていて

子どもの立場になかなか下りて来れない教員ほど通じにくい。


発達段階の観点から子どもの習熟度を見極めていく、足し算的なものの見方と

現在教えなければならない学習内容から子どもにはどこが足りないのかという、

引き算的なものの見方をしているのであれば、なかなか合意点には至らないだろうなと思う。

話している言葉が違うというか、前提条件が初めから違っているというか。


合理的配慮といった場合の合理的を「不公平、特別扱い」としてできませんとするのにも

そういった根本的な前提条件の違いからきているのだとしたら、

一体それを相手の言葉に適切に通訳させることのできるミディエーターは必須なのではないか。

というか、そういう役割の人がいてくれないとただの「モンスター」扱いになってしまい

お互いにとって損でしかない非建設的な時間の割かれ方になってしまうのだと思う。

そしてそれは現在の段階では、特別支援と合理的配慮を正確に理解したコーディネーターなり

教頭や校長などの管理職こそが担う役割なのだと感じる。

(支援級の担任では近すぎてダメ)


例えば黒板の字を写すことに著しく困難を示す生徒に対して、

 ①電子黒板を使うことでそのままプリントアウトをしてノートを渡すことができる

 ②教員が前もって書き込み式のプリントを用意することで

  (全員分でも必要な子にだけでも)書く量を減らす

 ③介助員を一人横につけた状態で横で読み上げるなり、

  同じものを小型ホワイトボードに書きだして板書させる

 ④本人が頑張って黒板の字を書けるように努力する。

  この先の学習にも板書は必要だから特別扱いをすると本人のためにかえってならない

 ⑤時間を余分に与えて(放課後等も)全部書ききることを常にさせる

  もしくは逆に全く書けなくても仕方がないのでなにも咎めない

という対応策がざっと考えられるとして、(コンナコトマエニモカイタヨウナ)


では子どもの様子、周囲の環境にもっとも即した対応はどれなのかと考えるとき、

子どもの様子(困っている時の様子をOTのように原因が追求できるほどの観察眼を持って分析することを含めて)が完全にわからない普通級(時に支援級)の教員と、周囲の環境(ざわざわしている状態か、どの程度の時間設定で課題を要求されているのか、実現可能な教育的資源は何か)を完全に知ることのできない親とでは、最善の着地点にたどり着くことは難しいように思える。


そしてこの中から選択肢をとる過程で、親が「うちの子はもっとできます!」ということや

教員が「お宅の子はそんなにできません」ということが文化的にはばかられる、もしくは

そのすり合わせができずに修羅場になってしまうことも十分に考えられる。


一番懸念として起こりやすいのが、「みんなと同じに扱うことが『差別』のない平等」だと言って

④あるいは⑤の教員にとって手間のかからない方法を、もっともらしくとられてしまうことで

本人に不要な、そして過度の負担を長期間にわたって日常的に与え続けることである。

障害由来の学習に不利益な状態を理解されないこと(合理的配慮に欠けること)を

「差別」をせずにこの子も平等にやっていけるだけの力がありますよ、と勝手にすり替えられてしまう。

同じ学習内容を学ぶために障害の部分を支援して、「踏み台」を利用することが

特別扱いであり、差別であり、いつまでたっても本人が板書できるようにならないという

まるで板書をすることが学習内容の最終目的であるかのような権幕で教員に伝えられたら

きちんと論理的に説明することができる親でなければ、この配慮は勝ち取れないものなのだろうか。


みんなと同じに扱うことが「差別のない平等」なのではなく

みんなと同じに活動に参加できるように適切な障害の理解と支援をすることが「合理的配慮」だと

そんな前提を、たとえば教育委員会で各学校に徹底して研修をすることができないものだろうか。

(やってます、というのは現段階の教育現場では通用しないほど崩壊している)


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