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一日一思想

考えることは生きること

長男が小学校に入ったばかりの時に、校長と話し合いをする場があった。
支援体制についての要望を話していたのだと思うのだが、
従来の障害児学級としての体裁を保ちたいと考える校長と、
柔軟に個別のニーズに合わせて学校内でより良い支援を求める
家庭の(私の)希望や考えになかなか着地点が見つからなかった。

今でもよく覚えているが、その時に
「私はこの子の就労も視野に入れて特別支援を選択しています」
と言ったら、校長は絶句。
一般的には小学校入学してすぐに、18歳になった時の子どもの姿を具体的に描くことはないだろう。
その時、その場で、よりよいものを。
そこに既成のものがあればそれでよかったのかもしれないけれど、
自立支援法が始まって、特別支援が試行段階に入り、
障害者のノーマライゼーションや一般就労がおぼろげながら見えてきたという当時は
「従来の障害児のレール」というもの一本に賭けてしまうのが親として恐ろしかった。
もちろん教育関係者は「前例」がないことに対しての抵抗感をあらわにしていた。

幼児期や就学前後の時期にはもちろん
我々母親は一般的な子育て情報を照らし合わせながら、
一人ひとりの発達段階や課題に合わせて
それぞれの成長と生活習慣、自立そしてQOLも考える。
早期療育で訓練することでできるようになることが増えるのも、
わかりやすい認知の仕方を獲得することで、より楽に社会生活を送ることも大切だが、
今、この時期、二度と戻ってこないこの一年間をどのように「充実して」過ごすかも
立派な課題となってのしかかってくる。

障害者の法定雇用率を1.8パーセントから2.0パーセントに引き上げることにようやく至ったが、
そんなことは6.5パーセントの困り感のある子どもたちが大人になった時には
あっという間になくなってしまうパイなのはまだまだ明白なのだ。
それでも自立の要として、就労をすること、また社会に迎合されるべき
「よい障害者」を訓練して作り出すことに躍起になる一方で、
地域で暮していれば不審者として通報されたり、
一定以上の能力がありながらも配慮のない環境での就労が継続できないという
社会による歩み寄りなしの無理解な環境に、無理やり当てはめようということ自体が
そもそも歪んでいるのではないだろうか。

実際に現在では少しずつではあるものの、障害者の雇用を促進するための
一般企業や法人も整備されつつある。
当たり前だが、この素晴らしい人間性と能力にあふれている
6.5パーセントの人材を生産性という方向に使わずに、
生活保護や福祉で国が「養ってやる」というほうが
よっぽど国家や社会にとって損益になるのは火を見るより明らかなのに。


障害があってもできる仕事って実はたくさんあると思う。
障害が悪いのではなくて、障害に合わせて職を用意できないバイパス部分の問題で
コミュニケーション能力が低かろうと、手先がどうしても不器用だろうと
実際にできる仕事、やってほしい仕事、あったら助かる仕事
たくさんあるんだと思う。
それは障害児の母親にとっても同じことで
子どものために、家庭で全てをなげうって療育を!という極端な姿勢を取ることだけではなく
社会に進出していろんな形で貢献する権利ももちろんあるはずなのである。

そんな希望的観測には蓋をして、支援の行きとどかない障害者が
軽犯罪を繰り返して刑務所が最後のセイフティネットになっているという
あってはいけない現実や、
作業所での低賃金での労働やグループホームでの画一的、典型的な将来像の二択しか
我々の中には入ってこないで、そこにわが子の姿は投影できないことが大半だろう。

正しい理解をすることで障害があってもなくても分け隔てなく共に暮らして共に働く。
そんな当たり前のことが後手後手に回り、
あげくに社会生活や人間らしい生活、そして社会の一員としての自覚の基盤となりうる就労の機会が、
このバリアフリーだったりノーマライゼーションが謳われる社会において機能しないことには
いくら補助金を使おうが研修を行おうが実現しないのだ。


幼児期にや就学期に我々が持っている「障害者の就労」のイメージは
あまりにも現実味がなさすぎる。
そして前述の学校教育関係者の多く、特に管理職が持っているイメージというものも
また非現実的であると言わざるを得ない。

不況で大卒でも雇用が厳しい。障害があるならばさらなる努力か妥協を。
そんな社会のために、自分の子どもの子どもらしい生活や学習機会を奪ってまで
訓練をする必要が本当にあるのだろうか。
脅しに近い「障害者の将来像」をおしつけて
子どもの保障されるべき基本的人権を「合意の上」奪い去るのは
卑怯極まりないと思っている。
二次障害も含めて、一人ひとりの子ども達が配慮の必要な子どもほど
大切に手をかけて育てていかないという社会が当たり前になるように。
今度の選挙、我が家の今後にとっても相当重要な分岐点になりうるだろう。
長男は話すのが苦手だ。
発語がないわけではない。
子ども同士で話したり、慣れた大人と話したり
そんな時には幼いながらも会話を楽しんでいると周りから見ていても思う。

長男の苦手な「話す場」は面接の形態。
机を挟んで差向いになり、決まったことを丁寧に言わなければならない。
いや、言わなければならないわけではないが、それ相応のプレッシャーがかかる。
そして言葉を紡ぎだすことに焦ると静かなるパニックで黙り込んでしまう。

しかし一般的に面接といえば、人生においてもかなり重要な場。
話し方が人の印象を決めるだろうし、意見や意欲を主張する場でもある。
逆にいえば、話さない・話せないことで意欲がないとみなされたり
そもそも話す能力自体が著しく欠けているともとられかねない。

そして今までの「面接に似た形態」で行われるものと言えば
「発達検査」
療育に通っているわけでもなく、児童相談所での手帳の更新や
外来で年に一度行くか行かないかの療育センターでの検査。
WISCやビネー、K-ABCと検査は違っても時間のかかることを
ほぼ初見の心理士を前に、自分の苦手なところをほじくり返される。
あっているかあっていないかわからないけど、とりあえず頑張ってこたえる。
そんなことを繰り返してきたからか、思春期に届く今となっては
検査の場では蚊の鳴くような声でしか話せなくなっていたようだ。
そして中学に入ってからの「三者面談」
担任の先生も、「お、今日は黙っちゃうのか」なんて最初は言われていたけど、
(明らかに普段の様子と違ったのだろうか)
そのうち、こうなってしまう特性として理解してもらえたようだ。
この場が苦手だけど、いつもは違う、そんな風に。
母親の私自身だって、そんな場を見慣れていないと、
「私が見ていない学校ではいつもこんな様子で何にも話せないんじゃないだろうか」と
理解できるまでに時間がかかって不安だった。

「入学試験での面接」だが
そんな理由は今までで最も配慮されにくい時がきたのだろうか。
  緊張しちゃう子もいます。
  自分の考えを話すのが苦手な子もいます。
  でもみんな練習して頑張ってきます。頑張りましょう。
そう言われてしまうのが、心理的・特性的な配慮には最もつながらない。
しかも本人を理解してくれている中学校ではなく
これからお世話になればわかってもらえるはずだけど、まだそうなってない高校で
たくさんの受験生を振り分ける目的の「入学試験」。

そして交流級でも総合の時間には面接の練習が行われ
面接の時に気をつけること、よく聞かれる質問がリストアップされ答えを書きだす。
一応支援級でも放課後に定期的に(週数回、できる限り)
同じ形式で、慣れたら違う質問や教員で面接の練習を続けてきた。

第一希望の高校でも話し下手の受験生を考慮してか
説明会になるべく来て、個別相談を利用してと推奨していた。
面接の練習のようにするのと、場に慣れる、人に慣れる(一人でも知った顔を増やす)
という趣旨からだと思うが、やっぱり熱意を見せるということもあるんだろう。
今度は親と一緒じゃなくて一人で来てみたらとも言われた。

本人の苦手さ、これぞ障害特性!といえるようなデリケートな部分に
本当に切り込んでしまっていいのだろうか、というジレンマも私の中に生まれた。
場面緘黙であれば、話すのを強要するような対応はしないはずだ。
それに非常に近い部分もあるだろうし、
彼自身の処理速度自体が遅いために、待ってあげれば自分のペースで表現できることも
アウトプットできなくなってしまうという、今までの理解や支援とは真逆のことを
強要しなくてはならないのかという矛盾。
練習すればできるようになるのは、定型発達の子であって
本当にこの子が練習すればできるのなら、それは障害ではないのではないのか?
障害だからこそ強要してはいけない最たる部分なんじゃないだろうか?
それよりもこの子なりの別の表現で熱意を伝えることを私が掛け合うほうがいいのだろうか?

そんなことを考えながらもここ何カ月か惰性というかとりあえず、
毎週のように同じ学校の説明会を聞きに行っていた。
何度行っても声が大きくならない、単語でぶっきらぼうに答える、うなづくだけ。
そんなことを目の当たりにすると、やっぱり「できてほしい!」と思ってしまう。
  どうすればできるようになるのか、
  本人の中で何が今ひっかかっているのか。
考えたけど、私には本人に伝えるしか出来なくて、
結局取り組むのは、面接をするのは本人(保護者同伴だけどさ)。
私が直したんじゃダメなんだ。本人が直してくれないと。
でも本人が苦しんでいるのも手に取るようにわかる。
できないことをできるようにしなきゃいけない、
でもどうしてもできない。思ったように動けない。
そんな苦しさを私が受け止めて、もういいよって言ってあげればいいの?
とりあえず一つ一つ具体的にいいところをほめて、反省点を挙げて、
今度はどうしたらいいかを冷静に伝えていこう、と努めて数カ月。

先週言った個別相談では小さい声ながらも伝えることはしっかりと伝えて
「何か質問はありますか?」という問いにもタイムラグがありながらも「あります!」と。
もう何度も説明されている作文の勉強の仕方だが、自分から話せるようになるなんてびっくり。

絶対に無理だと思ってたけど、これならいけるのかも。
親の見立て、子どもの可能性や可塑性や不断の努力、周囲の協力、
そのどれもが欠けてもうまくいかないような、久々の大きな壁だったが
どうにか向こう側がほんのりと見えてきた。
この壁を乗り越える長男を、見届けるのは私だ。

最近よく寝る長男。

かなり早く寝かせても、朝はほとんど自力で起きてくることもなくなってきた。

今までは早起きさせて余裕を持って過ごさせて、朝学習を定着させていたので

必然的に(この大事な試験前の期間に!)学習時間が大幅に削られてしまう。

それを本人のやる気のせいにしてもいいのかと自問の毎日だったが


「メラトニン(睡眠ホルモン)が少ないから意識的によく眠らせることが重要」と。


なんかそう言われてしまえば仕方がないか・・・。

でもいくらなんでも毎日10時間も寝なくていいでしょう。

寒くなってきたから、というだけではないようだが、寒くなってきたのも朝暗いのも確か。


間を取って、本人に確認して

勉強の時間を確保するためには自分が意識して努力しないと難しいよ、と伝えるが。

ある程度の着地点を確保しておかないと、「そうですね、ではたっぷり寝ていただきましょう」

というわけにはやはりいかないのが悲しいところ。

意識的に配慮をして、「反抗期」と「メラトニン」と「本人の意思」、

そして「見通しを立てて計画的に物事を進めていくことができない特性」や

「受動型ゆえのある程度の指示」…などをバランスにかけて

その日ごとに様子を見ながら対応していくのがベストなのだろう。

結構大変だな・・・。


そして今回初めて耳にした話。

科学的に中枢神経系に原因があるLDと脳内セロトニン不足が原因のADHDは

根本的な原因が異なっているのでどちらが主訴なのかをきちんと見極めるようにということ。

軽度発達障害というくくりの中で、重なっている特性と言うのは多いと思うのだが

(ADHDを伴う広汎性発達障害、とか)

このように脳科学的に原因箇所がはっきりと違うというのはどういうことなのだろうか。

卵が先か、ニワトリが先かというように、だからなんなのという議論で終わらないでほしいし。

そしてだからといってどうすればいいと、般化して言われないところがまた辛いのだが。


少しずつ脳科学的にも解明されていって、社会生活の中での適切な対応法も

確立されていってくれればいいのだけれど、多面的にアプローチしてもまだこの程度。

そして、教育、医学、心理学、いろんな面で整合性が取れなければ

ただの「お荷物」として扱われてしまいかねない多くの人たちが

少なくとも同じスタートラインに立って人権を尊重されることが許される。

とりあえずはそこを目指して自分にできることを積み重ねよう。