昨日の記事をかいつまんでまとめると
以前は障害というくくりに入っていなかった発達障害児たちを
特別支援という名のもとに、障害のくくりに入れることで
支援級が従来の支援の場として機能している小中学校では
矛盾が出ているということ。
特別支援教育が普通級に在籍している子たちが
支援を受けながら並行して学習も進めていけること(到達度や習熟度はまたおいておいて)
というのが本来のウリのはずだったのに
従来の障害児学級からの学級経営や人的資源をそのまま流用しようとしているので
結局は普通学級での支援は得られずにほっぽらかし。
そしてそれは「普通級を選んだ」親のエゴとしてとられる、
なんてことがいまだにまかり通っているところも多いと思う。
しかし、義務教育以降の進路を考えた時に、
学年相応の一斉学習についていけないことの代償はかなり大きい。
そしてそれが進路決定に際して、大きな岐路になる。
私自身も実際は、長男が小学校の時には
「身についていない学習でわけもわからず交流にいるよりは
本人の楽な少人数の支援級で、わかる課題をやっているほうがいいだろう」
と思っていたし、その結果中学卒業後の進路が支援校に限定されてくることも
それが本人のニーズであれば、むしろ理想的な選択肢だと思っていた。
実際、ここ数年で軽度障害児のための支援校は大きく変わってきた。
この近辺では県立の高校空き教室に支援校の分教室を作り、ターゲットを絞った入試制度をしている。
具体的には自立登下校やある程度の(一対一ではない)少人数での指導が可能で
療育手帳を取得しているもの、もしくは取得する予定のあるものが対象になっている。
カリキュラムもその層の子達のニーズに合わせたまさに生活スキルが主で、
学習も習熟度にある程度分けてここに合わせたものを用意するというのもいい。
ただ私が大きく引っかかった部分、それは就労を前提にしていることが
支援校高等部の大きな柱となっているからだったのだ。
ほとんどの分教室では週に2~3回は一日を通して職業訓練、作業学習に充てられていた。
そこで得られるものも、社会に出るために彼らが学ぶべきことも当然たくさんあるだろうし、
それはうちの息子のような子ほど、必要なものなんだろうと思う。
しかしながら本当に全ての軽度障害のある子どもたちが高等部卒業後すぐに社会に出て
なんらかの形で就労をしなくてはならないだろうか、という疑問が頭から離れなかったのだ。
18歳から社会に出て働く、というのは今の世の中から考えてもかなり稀なほうではないか。
しかも高等部に行くとインターンは2年3年からはかなりな頻度で行くことになる。
30歳、40歳成人説なんていうのがでているというのに、
せっかくそのターゲットの子達が持っているいいものも、伸ばしてあげたい部分も
経験させてあげたい地域での活動を
社会参加のレディネスがそろったその時期にこそ「遅ればせながら」できるのではないか。
支援校高等部は基本的に就労を目指す機関というのはかなり確固としたものだと思う。
卒業した時には就労以外の選択肢はあり得ないといわれているようだった。
それはまだ私が経験していない部分ではあるが、感覚としては
「支援級のお子さんが普通級に移籍することは相当難しいですよ」
という言葉よりももっともっと難しいのではないか、そんなふうに思えた。
卒業後の選択肢として、就労・就労移行支援だけではなくて
運動や芸術活動、色々な世界を見ること、体験すること、
いろんな人に出会うこと。
成長がゆっくりだから、偏りがあるから、せっかくできるようになってきた今だから
様々な年代の人達と出会ったり、社会に出て働く以外の選択肢も与えられるような場所がほしい。
本人が輝いていられる場所がほしい。
そしてその場は軽度の子達だけではなくて、重度重複の子たちも同じように必要な場所であるだろうし、
それが地域社会の中、もしくはグローバルな場ででも提供されないものだろうか。
それはきっと私自身が高校を出て大学を出て就職をしてというルートを通ること以外に
広い世界を見てみたい、自分が当たり前に思っていた窮屈な世界だけではないということを
知る機会がある人生が豊かだと思っているだけで、
それを彼らに良かれと思ってでも当てはめることが本当にいいのかは、今もってわからないけれど。
現在はサポート校やフリースクールなどの第三の選択肢や
工業高校などの職業科高校、定時制・単位制高校、またエンカレッジスクールという
手厚い支援の受けられる「狭間の支援」を必要とする生徒に対しての選択肢が多くなっていることは確かであるが、そこには依然として「じゃあ卒業後はどうするの?」という問題が残る。
しかし中学校支援級→支援校高等部という根強いパイプをその他の選択肢と両立不可能な状態にしていること、
また就労前提であるという大きな違いが両者にあるということを明確にさせて
冷静な情報収集を親がする必要があるのではないかと思う。
障害の特性にあった支援教育を受けながら、就労を前提としない学校、というのが
高校以降もまだまだ必要なのだろう。
そして経済状況や福祉支援がどのように変わってくるのかで
弱者といわれる人たちが人間らしい人生を進むことのできる
一歩進んだハイパー社会が来ればいいのにと妄想している。
長男は中学三年生。
もうすぐ義務教育期間も終わろうとしている。
小学校が終わる時は、中学校生活に対するビジョンも
「小学校の延長みたいなものなんだろうか」とぼんやりと思っているだけだったし
その先どうなるんだろうか、という漠然とした不安を抱えながらも、
とりあえず地域の学校に「支援をつなげる」ことだけを考えていた。
しかし私がずーっと考え続けていたことは
その周辺を知ろうとすればするほど複雑で
でも大人の都合で動いていることがほとんどで
本人達のよりより未来のために、ということはタブーになっているのかというくらい。
その疑問は「障害のある子が18歳で就労を目指すことが本当にいいことなのか」
一般的に障害のある子は、ほんの少し前まで障害児学級と呼ばれていた
特別支援学級に在籍していることが多いだろう。
障害という定義が、以前は知的な遅れがあることがほぼ前提だった
障害児学級の情緒障害級と知的障害級に限っての話になるが、
現在はそこにもたくさんの「知的な遅れのない発達障害」の子達が在籍している。
そのカテゴリーの子ども達は自治体によって異なるが
ある一定のIQ以上だと療育手帳が発行されない。
療育手帳が発行されないというのはどういうことかというと、
福祉の支援最大の使いどころ、障害者雇用の適用と20歳からの障害者年金がもらえないことになる。
つまり支援級に在籍して(そして明らかに支援が必要であったとして)も将来の支援・福祉の枠には入れないかもしれない、
もしくは(さらにハードルが高い)精神障害者手帳をとらなくてはいけない子達が
多数存在しているのではないか。
まず支援級に在籍していると、基本的に成績がつかない。
ということは公式の内申書が存在しない。というか別様式の評価になる。
そしてその別様式の評価は公立の全日制高校に出願する時に、
だめではないだろうが、一悶着は必ずありそうなものである。
つまり、親にとっても相当いろんな手続きをしなくてはならずめんどくさい作業である。
長男は結局、知的な遅れや相当のばらつきがありながらも、中学校三年間支援級に在籍しつつ
普通級での生活、学習を終えることになりそうだ。
その間、定期テストは全て他の子ども達と同じ条件で受けて、
授業の配慮や取り出し個別学習はほとんど一切なし。
職業体験や修学旅行などの学習体験行事も支援はほとんどなく
先生や周りの仲間達に恵まれたからなのか、
困り感を表に出さずに(もともと「困れなかった」のだろう)過剰適応してきただけなのか
いわゆる中学校生活を本人なりに満喫していたようだ。
この中学校の支援級はいわゆる生活単元中心の少人数学級なので
交流にいく生徒たちの面倒は基本的には見ることができないということだった。
それは本来とてもとてもおかしいことなのだけれども
支援級にいる間だけ受けられる支援か、普通級にいてもいいけど支援はうけられない非支援かの
二者択一を結果的に迫られることになっていた。
その間の支援が必要な子も在籍にかかわらずたくさんいるのに・・・。
長男を支援級に在籍させることにこだわったのは
私の「彼には支援が必要だ」という思いからにすぎない。
集団の中にまぎれて、困っていなさそうでも、辛い思いをしていなくても
やはり彼にはなんらかの支援は必要なんだ。そう思っている。
でもその二者択一の中でどちらを選ぶかという時に
長男の生活の場として本人が選んだ場所が普通級だったわけで。
だからといって、彼には支援が必要なくなったわけではなくて
「通常の学級の中に特別支援が必要な子」がいるように
この子も支援をしてください、目をかけてあげてください、
必要であれば抽出して個別指導を、そして小集団の学習を。
いつでもその体制がとれるようにするのも、人が足りないという言い訳を取りはらうためにも
支援級に在籍させることにはこだわり続けた。
いや、本当は普通級に在籍させて「みんなと同じスタートラインでやりなさい」と
言いきられるのが怖かったのかもしれない。
それは特別支援教育が始まった今では通用しない言い訳なのだとは知りながらも。
そしてどちらの在籍にしたとしても現段階では「ぴったりの支援」は用意されないのだ。
その中で「本人の努力」に支援体制があぐらをかいて、今日も一日過ぎていく。
でも支援のはざまで揺れている子供たちがいる一方で
高校からの進路決定において、今までのように「その場に応じて」なんて
悠長なことを言ってる場合ではなくなってきた。
支援級からいわゆる支援校ではない選択肢をとるということ、
それを考慮に入れるということだけでもいかに大変かということも思い知った。
そもそもうちの自治体に限って言えば、支援校高等部と普通高校は併願できないようになっている。
それは併願をしたい、両方を検討したいという生徒がいるかどうかという概念が全くなく、
両者は全く相いれないものだから、そんな進路の選び方をする訳がないというようにもとれる。
障害がある人間とない人間は全く別物だから、とでも言わんばかりの。
でも最初の時点ではそんな話ではなかったはずなのに、
なんで急にここにきて「障害があること」が個人の進路選択よりも大きな壁になりうるのだろう。
この子には障害があります。支援級が望ましいでしょう。
小学校では支援級、学習面から考えても中学校も支援級がいいでしょう。
中学校まで支援級、それでは選択肢は「通常では」支援校ですがどうしますか。
そんな流れについて勉強して考えて話し合って調べて。
講演会に行って勉強して、本やネットで情報を仕入れ精査して、
親の会での貴重な情報、学校との話し合い(支援の流れ前提でないとまた別の労力がいるし)。
親が初めての子どもにしてあげる進路の話にしてはありえない膨大な労力が必要になる。
IQが高くても、社会性があっても、この流れに逆らうというだけで
「この子にあった選択肢を探してあげたい」という思いすらもかなえてあげられないかもしれない。
この先のことを書きたかったのに全然まとまらないので二つに分けます。
続きはまた明日。
もうすぐ義務教育期間も終わろうとしている。
小学校が終わる時は、中学校生活に対するビジョンも
「小学校の延長みたいなものなんだろうか」とぼんやりと思っているだけだったし
その先どうなるんだろうか、という漠然とした不安を抱えながらも、
とりあえず地域の学校に「支援をつなげる」ことだけを考えていた。
しかし私がずーっと考え続けていたことは
その周辺を知ろうとすればするほど複雑で
でも大人の都合で動いていることがほとんどで
本人達のよりより未来のために、ということはタブーになっているのかというくらい。
その疑問は「障害のある子が18歳で就労を目指すことが本当にいいことなのか」
一般的に障害のある子は、ほんの少し前まで障害児学級と呼ばれていた
特別支援学級に在籍していることが多いだろう。
障害という定義が、以前は知的な遅れがあることがほぼ前提だった
障害児学級の情緒障害級と知的障害級に限っての話になるが、
現在はそこにもたくさんの「知的な遅れのない発達障害」の子達が在籍している。
そのカテゴリーの子ども達は自治体によって異なるが
ある一定のIQ以上だと療育手帳が発行されない。
療育手帳が発行されないというのはどういうことかというと、
福祉の支援最大の使いどころ、障害者雇用の適用と20歳からの障害者年金がもらえないことになる。
つまり支援級に在籍して(そして明らかに支援が必要であったとして)も将来の支援・福祉の枠には入れないかもしれない、
もしくは(さらにハードルが高い)精神障害者手帳をとらなくてはいけない子達が
多数存在しているのではないか。
まず支援級に在籍していると、基本的に成績がつかない。
ということは公式の内申書が存在しない。というか別様式の評価になる。
そしてその別様式の評価は公立の全日制高校に出願する時に、
だめではないだろうが、一悶着は必ずありそうなものである。
つまり、親にとっても相当いろんな手続きをしなくてはならずめんどくさい作業である。
長男は結局、知的な遅れや相当のばらつきがありながらも、中学校三年間支援級に在籍しつつ
普通級での生活、学習を終えることになりそうだ。
その間、定期テストは全て他の子ども達と同じ条件で受けて、
授業の配慮や取り出し個別学習はほとんど一切なし。
職業体験や修学旅行などの学習体験行事も支援はほとんどなく
先生や周りの仲間達に恵まれたからなのか、
困り感を表に出さずに(もともと「困れなかった」のだろう)過剰適応してきただけなのか
いわゆる中学校生活を本人なりに満喫していたようだ。
この中学校の支援級はいわゆる生活単元中心の少人数学級なので
交流にいく生徒たちの面倒は基本的には見ることができないということだった。
それは本来とてもとてもおかしいことなのだけれども
支援級にいる間だけ受けられる支援か、普通級にいてもいいけど支援はうけられない非支援かの
二者択一を結果的に迫られることになっていた。
その間の支援が必要な子も在籍にかかわらずたくさんいるのに・・・。
長男を支援級に在籍させることにこだわったのは
私の「彼には支援が必要だ」という思いからにすぎない。
集団の中にまぎれて、困っていなさそうでも、辛い思いをしていなくても
やはり彼にはなんらかの支援は必要なんだ。そう思っている。
でもその二者択一の中でどちらを選ぶかという時に
長男の生活の場として本人が選んだ場所が普通級だったわけで。
だからといって、彼には支援が必要なくなったわけではなくて
「通常の学級の中に特別支援が必要な子」がいるように
この子も支援をしてください、目をかけてあげてください、
必要であれば抽出して個別指導を、そして小集団の学習を。
いつでもその体制がとれるようにするのも、人が足りないという言い訳を取りはらうためにも
支援級に在籍させることにはこだわり続けた。
いや、本当は普通級に在籍させて「みんなと同じスタートラインでやりなさい」と
言いきられるのが怖かったのかもしれない。
それは特別支援教育が始まった今では通用しない言い訳なのだとは知りながらも。
そしてどちらの在籍にしたとしても現段階では「ぴったりの支援」は用意されないのだ。
その中で「本人の努力」に支援体制があぐらをかいて、今日も一日過ぎていく。
でも支援のはざまで揺れている子供たちがいる一方で
高校からの進路決定において、今までのように「その場に応じて」なんて
悠長なことを言ってる場合ではなくなってきた。
支援級からいわゆる支援校ではない選択肢をとるということ、
それを考慮に入れるということだけでもいかに大変かということも思い知った。
そもそもうちの自治体に限って言えば、支援校高等部と普通高校は併願できないようになっている。
それは併願をしたい、両方を検討したいという生徒がいるかどうかという概念が全くなく、
両者は全く相いれないものだから、そんな進路の選び方をする訳がないというようにもとれる。
障害がある人間とない人間は全く別物だから、とでも言わんばかりの。
でも最初の時点ではそんな話ではなかったはずなのに、
なんで急にここにきて「障害があること」が個人の進路選択よりも大きな壁になりうるのだろう。
この子には障害があります。支援級が望ましいでしょう。
小学校では支援級、学習面から考えても中学校も支援級がいいでしょう。
中学校まで支援級、それでは選択肢は「通常では」支援校ですがどうしますか。
そんな流れについて勉強して考えて話し合って調べて。
講演会に行って勉強して、本やネットで情報を仕入れ精査して、
親の会での貴重な情報、学校との話し合い(支援の流れ前提でないとまた別の労力がいるし)。
親が初めての子どもにしてあげる進路の話にしてはありえない膨大な労力が必要になる。
IQが高くても、社会性があっても、この流れに逆らうというだけで
「この子にあった選択肢を探してあげたい」という思いすらもかなえてあげられないかもしれない。
この先のことを書きたかったのに全然まとまらないので二つに分けます。
続きはまた明日。
長男が小学生の時、長期休みに入る前に申し訳程度に持って帰ってきていた心のノート。
たま~の道徳の時間に教材として使われることがあったのかもしれない。
ワークブック形式になっているのだが、書き込まれている様子もほとんどなく、
内容自体も、当たり障りのないいわゆる「模範解答」を導き出す道徳教育教科書。
通常級でほとんど使われていないことは明らかだったが、
私は「これは使える」と思ってとっておいたのだ。
低学年用、中学年用、高学年用とわかれているのだが、
見たことある人はわかるだろうが、いわゆるソーシャルストーリーに近いのだ。
特に発達障害のある子にとってはわかりやすい「集団生活」や「社会生活」のための
教材がもともとあったのだ。
そしてそれがいつの間にかなくなっていたということに私は気がつかなかった。
民主党政権になって事業仕分けが行われた時と
長男が中学に進学したのが同時期だったので、気にも留めなかったのだろう。
しかし使用された形跡のない「心のノート」を復活させるに当たって、
どのような改善点を見据えているのだろうかが気になる。
模範解答を導き出す倫理や道徳という授業は、確かに70年代に生まれた私達の世代にも
強く根付いていたと思う。
教育テレビで15分番組を見て、君ならどうする?ということを話し合ったり
実際にクラスの子のうわばきが隠された、トイレから見つかった、こんなことをしていいのか
なんていう臨時学級会までいろいろとあったが、
印象に残っているのはそこには決まり切った答えがあり、考える余地もなかったのだ。
醜い自分の利己心や虚栄心、足を引っ張る同級生が邪魔だったり
損をしないためなら何をしてもいい、楽をするためなら何をしてもいい。
そんな考えをつきつけられることもなく、当たり前に模範解答を出してそこに納得していた。
道徳の授業とはそういうものなのだと思い込んでいた。
他方で社会が複雑になり、地域の一般常識や性善説では解決することができない
さまざまな倫理の問題がいたるところで未解決のまま放りだされている現代では
子ども達の道徳教育ってどうあるべきなのだろうか。
価値観の多様化と、道徳心の共通認識は両立していないと成り立たないだろう。
以前にも書いたと思うが、近隣の支援学校中学部の生徒と
長男の小学校6年生が年間を通じて地域交流会を何度かしていたのだ。
そこで一緒にゲーム(じゃんけん列車とか)をしたり、給食を一緒に食べたりして
小学生が「遊んであげる」、そしてその後のまとめの感想文に並ぶ
「最初はどう接していいかわからなかったけど、みんな普通の子だった」
「困っていることがある人がいたら助けてあげようと思った」
という模範解答を書き連ねる子ども達。
翻って、そのクラスに聴覚過敏の支援級在籍の子がなかなか交流級に来ることができない
という問題は解決されないまま、その子だけが我慢をしていて卒業していった。
「○○さんはうるさいのが苦痛なんだから静かにしよう、そうすれば一緒に授業が受けられる」
そんな風には進まないし、そもそも理解にも至らない。
授業を受ける権利があること、
苦痛なことは交流級の子ども達の努力でどれだけ解決できるか考えられる土壌もないこと。
そんなこと一つ一つを考えかえしても、心のノートの浅すぎた活用法と
現代の子ども達に本当に必要な道徳教育、人権教育、共生教育が何なのかを
見つめなおしてからこそ、復活させてほしい。
そして教員や管理職、教育にかかわる全ての人が、
適切な環境で適切な教育を受ける権利がどの子にもあるという
子どもに対するきちんとした人権意識を持つことも大前提であるのだ。
「心のノート」配布復活 体力テストも全員に 文科省
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130107/edc13010722270001-n1.htm
たま~の道徳の時間に教材として使われることがあったのかもしれない。
ワークブック形式になっているのだが、書き込まれている様子もほとんどなく、
内容自体も、当たり障りのないいわゆる「模範解答」を導き出す道徳教育教科書。
通常級でほとんど使われていないことは明らかだったが、
私は「これは使える」と思ってとっておいたのだ。
低学年用、中学年用、高学年用とわかれているのだが、
見たことある人はわかるだろうが、いわゆるソーシャルストーリーに近いのだ。
特に発達障害のある子にとってはわかりやすい「集団生活」や「社会生活」のための
教材がもともとあったのだ。
そしてそれがいつの間にかなくなっていたということに私は気がつかなかった。
民主党政権になって事業仕分けが行われた時と
長男が中学に進学したのが同時期だったので、気にも留めなかったのだろう。
しかし使用された形跡のない「心のノート」を復活させるに当たって、
どのような改善点を見据えているのだろうかが気になる。
模範解答を導き出す倫理や道徳という授業は、確かに70年代に生まれた私達の世代にも
強く根付いていたと思う。
教育テレビで15分番組を見て、君ならどうする?ということを話し合ったり
実際にクラスの子のうわばきが隠された、トイレから見つかった、こんなことをしていいのか
なんていう臨時学級会までいろいろとあったが、
印象に残っているのはそこには決まり切った答えがあり、考える余地もなかったのだ。
醜い自分の利己心や虚栄心、足を引っ張る同級生が邪魔だったり
損をしないためなら何をしてもいい、楽をするためなら何をしてもいい。
そんな考えをつきつけられることもなく、当たり前に模範解答を出してそこに納得していた。
道徳の授業とはそういうものなのだと思い込んでいた。
他方で社会が複雑になり、地域の一般常識や性善説では解決することができない
さまざまな倫理の問題がいたるところで未解決のまま放りだされている現代では
子ども達の道徳教育ってどうあるべきなのだろうか。
価値観の多様化と、道徳心の共通認識は両立していないと成り立たないだろう。
以前にも書いたと思うが、近隣の支援学校中学部の生徒と
長男の小学校6年生が年間を通じて地域交流会を何度かしていたのだ。
そこで一緒にゲーム(じゃんけん列車とか)をしたり、給食を一緒に食べたりして
小学生が「遊んであげる」、そしてその後のまとめの感想文に並ぶ
「最初はどう接していいかわからなかったけど、みんな普通の子だった」
「困っていることがある人がいたら助けてあげようと思った」
という模範解答を書き連ねる子ども達。
翻って、そのクラスに聴覚過敏の支援級在籍の子がなかなか交流級に来ることができない
という問題は解決されないまま、その子だけが我慢をしていて卒業していった。
「○○さんはうるさいのが苦痛なんだから静かにしよう、そうすれば一緒に授業が受けられる」
そんな風には進まないし、そもそも理解にも至らない。
授業を受ける権利があること、
苦痛なことは交流級の子ども達の努力でどれだけ解決できるか考えられる土壌もないこと。
そんなこと一つ一つを考えかえしても、心のノートの浅すぎた活用法と
現代の子ども達に本当に必要な道徳教育、人権教育、共生教育が何なのかを
見つめなおしてからこそ、復活させてほしい。
そして教員や管理職、教育にかかわる全ての人が、
適切な環境で適切な教育を受ける権利がどの子にもあるという
子どもに対するきちんとした人権意識を持つことも大前提であるのだ。
「心のノート」配布復活 体力テストも全員に 文科省
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130107/edc13010722270001-n1.htm