宵の森に魔獣の咆哮がこだまする。
積もった木の葉を腐葉土と一緒くたに蹴り散らし、僕は走る。
もう結構な時間走っているので息が切れそうになる。手に持った己の得物すら邪魔だと感じる。
右へ飛ぶ。僕の頭のあった位置を鋭い爪を持った強靭な腕が薙ぎ払い、また背後の闇へ消える。
お返しに振り向かないまま魔銃を数発撃ち込むが、手応えはない。
圧倒的な質量が絶えることなく地を響かせ、品性の欠片もない唸り声が追われる獲物の精神を削いでゆく。
目の前に見える大樹の影に回りこみ、しかし止まることなく走り続ける。
一瞬後、大樹が凄まじい音を立てて根元から折れる。非常識な膂力だ。少しは自重しろ、と頭の片隅で罵るが、邪魔思考なので直ぐに放棄。
またエスから指示が飛んでくる。前。時間をおかずに前へ跳躍、転がって起き上がり視線だけで後ろを確認。全ての状況情報が離れた位置を併走しているエスから入ってきているが、いつもの癖だ。隙が出来るものでもないので直す必要もない。なにより一人で戦うときには必須だ。
視線の先では、口を閉じた龍の頭部が後ろ下がる最中だった。
走りながら肩口から銃を撃つ。肉を穿つ音は聞こえない。代わりに放った弾丸の数だけ、堅い竜鱗に弾かれる硬質の音が響く。
全長にしてざっと16mはあろうかという龍だ。骨格はまだ人に近いが、そもそもどこまで育てば龍なのか判然としない。この間新任なさった学長にしたって可也人間と似通った骨格をしているように思う。しかし彼は最早ドラゴニュートではあるまい。
そこまで考えて急制動、そのまま直角に左へ曲がる。
先ほどまで僕の眼前にあった大木が龍の尾の一振りで根元から爆ぜ散る。あれが僕だったら一瞬で血霧に変わっているだろう。そう考えたところで、僕が一層の恐怖に苛まれることはない。
何故なら、恐怖に臨界点といものがあるなら僕の恐怖は殆ど臨界点すれすれだからだ。生きるか死ぬかだぞ?これで恐怖を感じないなら何を以って感じればいいというのだ?
死など恐れないとか、戦うことは恐怖でないとかしたり顔でのたまう、感情回路に重大な疾患のある阿呆には勝手に吼えてもらっておけばいい。僕たちにとって重要なのは恐怖に慣れることだ。メーターが恐怖の臨界点を侵して尚前に進めることだ。
走る僕の前から木々の隙間を縫って、宵の風を切りながら二枚の刃が駆け抜ける。初手で龍の尾に弾き飛ばされていたエスの操る刃だ。その弾き返す陽光ですら視界から消えるほどに矢鱈と吹き飛ばされていたが、やっと制御を戻したらしい。暗闇に紛れて迫る刃に龍は気付かない。
あと数mのところでついに龍が刃に気付くが、刃の速度と自身の速度を計算すると、せいぜい零コンマ数秒しかない。
そう判断したのだろう、龍が刃を燃やし尽くそうと口を開き、火焔を吐く。
全ての龍がどうだかは知らないが、この龍はいわゆる魔種だった。魔術により筋力を増強し圧倒的な力を誇り、魔術によって肉体を回復させる。どう考えても生物学的な飛行限界を超える重量を持つ身でありながら、魔術補助で飛行する。
口蓋から零れる魔術式。魔術によって展開される火焔だ。魔種の中でも火竜種と呼ばれる、火に特化した種だろう。
しかしだからこそ、エスの刃を燃やそうなどと考えるべきでなかった。魔術によって生成された焔にエスの刃が逆干渉をかけて掻き消していく!ティアマトと呼ばれる竜の鱗で作られた菱形のブレードであり、不番(つがわず)と名付けられた二つで一つ一つの武器だ。間違っても一組ではなく、番でもない。それぞれ固有の名を碧羅、瞑麗という。
瞑麗が疾り、火竜の口内を駆け抜け喉を貫く。
瞬間、走っていた僕が急制動をかけ、踵を返し火竜に向かって駆け出す。
あの程度の傷は放っておけば直ぐに回復される。
暴れる巨体の横手に回りこみ、跳躍。大樹を蹴って、更に跳び龍の肩口へ着地。両刀を抜き、片方を碇代わりに突き刺そうとするが、思ったとおり失敗。音速で諦めて、素早く首の後ろの傷跡へ移動。
傷口に思い切り刀を突っ込み、雷術を起動する。圧倒的な魔力で魔術を掻き消す龍も、自らの体内で魔術を展開されると無力だ。電雷のあげる放電音と肉の灼ける臭いが周囲を満たす。僕は刀にしっかりとつかまり痙攣する龍から振り落とされまいと耐える。いわば後詰めの作業だ。こいつの脳髄を思考が出来なくなるまで破壊しなければならない。そうすればもう回復魔術を展開できないからだ。
雷術が物理干渉を止め、掻き消えると同時に龍の痙攣も止まった。数秒おいて、巨体が大地に倒れる音が森に響く。その荘厳な音に反して僕は龍を惨めだと感じていた。
刀を二三回掻き回し、脳を完全に破壊しておく。
一連の作業を終えたところで、こいつが今日の晩飯だということ思い出して僕は些かげんなりした。