たとえば、ここに一つの朝がある。その朝に何かが付随してもしなくても、それは朝として振舞うことを止めない。しかし、この朝はあなたに一つの予感を感じさせる可能性を秘めている。それが始まりの予感と言い表すことのできる概念だ。だがそれは単なる観念によって形成された概念であって、朝の本質ではない。よって朝はあなたのその期待を簡単に裏切ることができ、またそうした可能性をも同時に秘めていると言えることになる。とはいえ、この朝には取り敢えずのところあなたの期待する役目を全うしてもらうことになりそうだ。何故ならここでの……。
「あら、リベル。あなたが今勉強をサボって本を読んでるように見えるのは、私の眼とあなたの頭のどちらが悪いのかしら?」
背後からエスの声が聞こえる。僕は緩慢な動作で読んでいた本を閉じながらエスに向き直る。
「勿論、てめぇの眼がわりぃ。あとてまえの頭もかなり重篤。峠の下り坂を前転で転がりながら下りるか、ダンボールで滑りながら下りるか程度の選択肢しかない。因みにノルマの問題集はそこ。全部終わってる」
「そのたとえって、峠を越えたら病気を克服してるのよ?」
そう言いながら、エスは問題集を確認する。
「残念。てめぇの場合は峠の麓がそのまま谷底の入り口になってる仕様だから、どう足掻いても助からない。」
僕の言葉を待たずに、エスが問題集をパタンと閉じる。
「確かに終わってるようね。ちょうど良かったわ。はい、これ高校数学のテキスト。こっちは地理。明日は理系科目一式揃うわ」
「国語は?」
「隠れて本を読むくらいだし後回しで構わないでしょ?一定の項目を除けば、やらなきゃ分らない科目ってわけでもないし」
「しかしこの地理テキスト分厚いな。ああ、パラミタ地理と地球地理があるのか。てか歴史もそうなるよな。地球世界史にパラミタ世界史か?にしても良く見つけたな、これ。こういうのって契約者用に特別編纂とかされてるんだろ?純粋に地球やパラミタの片方で暮らす人には不要だろうし」
「日本の教科書会社が、それぞれの世界の教科書からできるだけ客観的に書いているものを精選して編纂したものらしいわ。まぁだから結局日本のバイアスがかかってる可能性はあるわね。内容は日本語で書かれてるわ。読めたわよね?」
「読めるもなにも、最初にやった勉強が日本語じゃねぇか。パラミタは日本の息がかかってる地域も多いって話だったしな。実際のところはどうだかしらねぇが」
ああそう言えばといって僕は言葉を続ける。
「話はまるっきり変わるんだが、最近飯の量が少ないぜ?もう少し増やせよ。僕の番のときは調整してるんだが、てめぇの番のときは腹が膨れやしねぇ」
「確かに身体も大きくなってきたようね。でもあなた、殆どお菓子しか食べないじゃない。どうしろというのよ?デザートにカップアイスでも付ければいいの?」
「いや、確かにそれも魅力的な提案ではあるが、成長期を早送りで経験している僕には圧倒的に栄養素が足りない。炭水化物と蛋白質中心で頼むよ。具体的にはコンビニのお握りやから揚げ、ハンバーガーなどのジャンクフード系」
「・・・それって大丈夫なの?私、栄養士関係の知識まで持ってないから、何一つ保証できないわよ?」
「んー。大丈夫なんじゃないの?僕は案外人間の合理性を信じててさ、食べたいと思うものが必要なものだと思うんだ。勿論中毒性なんかは抜きにしてね。まぁ多少のバランスをとってやることも重要なんだろうけど」
「ふぅん。まぁいいわ。一応考えておきましょう」
そう言ってエスは立ち上がり、部屋を出ていく。
僕は今手渡されたばかりのテキストを開くが、読んでいた本の続きが気になるのでパラパラと教科書を捲り、そして閉じる。そのまま教科書を作業机に置きながら、代わりにそこにあった本を掴む。
まぁ2時間だけ休憩しようと決め、続きから文章を追い始める。
……朝はそうする為に存在を許されたのだから。しかし、ここに朝が存在するからにはこれと強固に結びつく昼と夜が、どこかでその出番を待ち侘びていそうである。だがこれらは実のところその登場を確約されていない。何故なら物語が朝によって紡ぎ始められる必要がないように、昼によって語り継がれ、夜によって締めくくられる必要もまたないからだ。
だから、この朝にはあなたの期待を優しく裏切る役目も課せられている。
あなたの期待に応え、期待を裏切りながら、物語は朝のうちにその幕を閉じる。
そして幕の向こうのあなたを日常へと回帰させるまでが、この物語のささやかな役目である。