血脇守之助生家(「かど屋」)跡 | ひろのブログ

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血脇守之助生家(「かど屋」)跡 となります。

にっこり


2024.1.25(木)撮影

14:02〜14:04




こちらが、『血脇守之助生家(「かど屋」)跡』説明板です。
にっこり


太陽光線の加減で、説明板が反射して見えづらい為、斜め方向から撮影が主体となります。
凝視


左斜め方向から撮影。
説明板の影を見れば分かりますが、見づらい時刻に撮影しています。
時計は14時を回ったところです…。
凝視驚き


見づらいので、地図部分を拡大してみました。
凝視


同じく拡大してみました。
野口英世氏と血脇守之助先生が並んで撮影された画像となります。
凝視真顔


こちらは、反対側の右斜め方向から撮影。
こちらも、冬の陽射しを浴びて眩しいです。
(+_+)


血脇守之助生家(「かど屋」)跡

"血脇守之助(1870年〜1947年)は,江戸時代以来,水戸道中の我孫子宿で旅館「かど屋」を営んでいた加藤家に生まれ,長じて現在の白井市の血脇家を継ぎ,血脇姓を名乗りました.
血脇は,我孫子尋常小学校で校長 杉山 英より漢学の教えを受け,慶應義塾で英語を学んだ後,一度は英語教師となります.しかし,アメリカ帰りの医師から,日本はアメリカに比べて歯科医の社会的地位が極めて低いという現状を聞き,明治26(1893)年,東京の高山歯科医学院に入学,歯科医師になりました.
明治32(1899)年には高山歯科医学院を継承し,後進となる歯科医の養成につとめました.明治39(1906)年,歯科医師法が成立し,翌年に国の正規の学校として東京歯科医学専門学校(昭和21年に東京歯科大学となる)の設置が認められました.これは,歯科医の社会的地位確立を各界に働きかけた血脇の長年の功績によるものです.
血脇の生まれた「かど屋」の詳しい様子は分かっていませんが,我孫子宿のほぼ中央,現在の都市計画道 手賀沼公園·久寺家線と国道356号線の交差点から大光寺参道にかけてありました.
国道北側の「角松旅館」は守之助の祖父,栄助が買い取った旅館「松島屋」の流れを汲むものです.
 血脇は我孫子を離れていましたが,歯科医療の発展に尽くし,多くの人々に慕われ,昭和15(1940)年,「血脇先生謝恩之碑」がこの地に建てられました.石碑は後年,道路拡張により手賀沼公園内に移設され,現在でもその姿を見ることができます.
なお,血脇を恩人と慕った人物に医師で世界的な細菌学者の野口英世がいます.
明治29(1896)年,会津から血脇を頼って身一つで上京した野口を,血脇は物心ともに後援しつづけ,「野口の精神的な父は血脇である」と言われました.

平成27年3月  我孫子市教育委員会"
2024.1.25(木)撮影



何だか、血脇守之助先生の画像に後光が射し込んでいるようにも見受けられます。
凝視驚き驚き驚き



似たような構図となります。
凝視


左側半分を撮影。

凝視



なお、『血脇先生謝恩之碑』は、以前のブログ記事に掲載してあります。

にっこり



『血脇先生謝恩之碑』我孫子の「大正•昭和文化遺産」 アメーバブログ記事より



『血脇先生謝恩之碑』我孫子の「大正•昭和文化遺産」 アメーバブログ記事 


『血脇先生謝恩之碑』我孫子の「大正•昭和文化遺産」 アメーバブログ記事より、少し紹介…。
凝視


❝ 小生は、2023年3月3日手賀沼公園を散策した帰り道、『血脇先生謝恩之碑』と遭遇しました。 ❞
凝視驚き

❝ 
東京歯科大学が建立の石碑

血脇先生謝恩之碑
この謝恩之碑は 昭和十五年に 我孫子駅前(我孫子市緑一丁目二六四二番の二)市街地内に建立されていたものであるが 我孫子駅前一帯の都市改造計画により 同敷地が 道路用地に指定されたので 大学と我孫子市が協議の結果 謝恩之碑建立に 最もふさわしい 市立手賀沼公園内の 現在地に移設したものである。
昭和五十三年十月二十六日
東京歯科大学 ❞
凝視

今回はここまでです。

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