『血脇先生謝恩之碑』
我孫子の「大正•昭和文化遺産」
『血脇先生謝恩之碑』について、紹介します。
小生は、3月3日手賀沼公園を散策した帰り道、『血脇先生謝恩之碑』と遭遇しました。
大きな石碑が遠くから見えて来たので、
太平洋戦争の英霊の石碑かな?と思ったのですが、近づいて『血脇先生謝恩之碑』であることを確認しました。
先ずは、小生が撮影した画像をずらずら〜っと掲載します。
こちらは、『血脇先生謝恩之碑』移設の経緯や、血脇先生の経歴等を記してあります。
『血脇先生謝恩之碑』移設の経緯及び血脇先生の経歴等。
折角なので、石碑の碑文を書写しましたので、ブログ記事にも掲載します。
東京歯科大学が建立の石碑
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血脇先生謝恩之碑
この謝恩之碑は 昭和十五年に 我孫子駅前(我孫子市緑一丁目二六四二番の二)市街地内に建立されていたものであるが 我孫子駅前一帯の都市改造計画により 同敷地が 道路用地に指定されたので 大学と我孫子市が協議の結果 謝恩之碑建立に 最もふさわしい 市立手賀沼公園内の 現在地に移設したものである。
昭和五十三年十月二十六日
東京歯科大学
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我孫子市教育委員会設置の、
『血脇先生謝恩之碑』移設の経緯等、
及び『血脇先生謝恩之碑』碑文の大意について、説明板より
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血脇先生謝恩之碑
従三位 池田成彬(しげあき) 題額
(大意)
「血脇守之助先生の歯科界における多年の業績については今更言うまでもない。歯科医学教育の独立、歯科医師制度の確立、歯科医師会の設立など、歯科界を向上させるために国の政策をとりまとめられ、施設一つとっても血脇先生の指導と助力がなくてはできなかった。血脇先生の功績は日本の歯科医学発達の歴史とともに不滅のものとなっている。
血脇先生は高山歯科医学院を継承し、指導されて四十年にも及んでいる。今や高山歯科医学院の門下で歯科医師となるものは八千人、その中には最高学位をもつ者や名声高き者も数多く輩出している。
血脇先生は生まれながらにして性格はおだやかで、その姿は堂々として、立派な方です。
晩年は易を好み、その知識も深かった。また世の中の動きを見極め、経済にあかるく、政治家としての素質にも富んでいたが、名誉ある地位にたたせようとするものがいても、先生は初心を貫きその意思を変えず、全精力を歯科界のためにささげられた。
血脇先生七一歳の時、折しも東京歯科医学専門学校創立五十周年の祝典を行う良き日と重なった。そこで門下生が相談して、先生の生誕の地を選び、碑を建て文字を刻み、先生への長寿のお祝いと感謝の意をあらわすこととした。」
紀元二千六百年十一月二日(昭和一五年、一九四〇)
従四位勲二等 木下謙次郎 撰
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血脇守之助(一八七〇〜一九四七)は、我孫子に生まれ、修学した高山歯科医学院を継承し東京歯科医学院校長となりました。明治四〇(一九〇七)年には東京歯科医学専門学校(後の東京歯科大学)を設立し、歯科医の育成と社会的地位の確立に尽力しました。高山歯科医学院時代の血脇守之助を頼って上京した野口英世は、渡米するまで血脇守之助から物心ともの支援を受け、世界的細菌学者となった後にも生涯にわたって血脇を第二の父としていました。
「血脇先生謝恩之碑」は昭和一五(一九四〇)年、血脇守之助の生家跡地脇(現、緑一丁目)に建てられました。
題字を記した池田成彬(一八六七〜一九五〇)は政治家、実業家として活躍した人物です。また碑文を書いた木下謙次郎(一八六九〜一九四七)も政治家として知られ、血脇守之助の交友の広さを物語ります。この碑は、昭和五三(一九七八)年、都市改造事業に伴って手賀沼公園に移設し、さらに平成一五(二〇〇三)年、手賀沼公園の再整備のため現在地に再移設したものです。
平成三〇(二〇一八)年三月
我孫子市教育委員会
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『血脇先生謝恩之碑』碑文の大意及び、移設の経緯等は以上です。
今回はここまでです。